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「オケバトル!」 47. 予期せぬあれこれと、迷惑な道化


47.予期せぬあれこれと、迷惑な道化



「ソリストは不在。オケメンバーだけで協奏曲形式を決行せよ」だなんて、底意地の悪い無謀な課題といえようが、本番舞台においての「予期せぬ緊急事態」というものは、オーケストラに限らずとも実は充分に起こり得る。
 天変地異など、よほどの事情でない限り「演奏会の中止」には至らず、観客に極力不満を抱かせることなく穏便にイベントを強行せねばならない。
 本番直前に奏者が倒れ、急遽の代役はリハーサルなしで、いきなり本番といった事態は日常茶飯事。時差ボケや準備不足なんて言い訳は御法度である。


 稀にみる才能を持ちながら25歳という若さで亡くなった、19世紀半ばオーストリアの作曲家、ハンスロットによる大変珍しい交響曲が、かつて偶然にも同日の昼と夜の公演にて、違うオーケストラのプログラムに載ったことがあった。
 仮にNオケ、Kオケとしよう。
 夜の公演を予定していたNオケのバストロンボーン奏者が当日インフルエンザで倒れ、滅多に演奏されることのない珍しい曲だったがために、この曲を確実に吹ける経験者が必要ということで、急遽Kオケのバストロンボーン奏者に声がかかった。Kの昼公演を終えてNの夜公演の劇場へ、積雪の危ぶまれる中どうにか駆けつけ、本番をこなしたという綱渡り。
 カーテンコールを終えてオケ団員が舞台を去る際、周囲の金管の面々が満面の感謝の笑みと共に彼を握手で和やかに労う光景が見られた。
「本日のバストロンボーン奏者は、我がオーケストラに初めての出演で、実はぶっつけ本番でした」
 なんて事情は観客にはもちろん知らされない。

 それでも、代役を立てるのが可能なだけでも非常にありがたいこと。
 本番間際にバストロンボーン奏者が倒れ、チューバ奏者が目の前に譜面台を二台並べ、二つのパートをどうにか調整して吹きこなした、といった事態もあるほどだ。
 何故、引き合い例がバストロンボーン関連のトラブルばかり? たまたまの話ではあるが、この楽器を自在に操れる奏者が限られている、ということも多少の関係がなくもなかろう。

 これもほんの一例であるが、某アマオケの定期演奏会にて、チェロ協奏曲のソリストが当日ドタキャン、主催者が必死で探し当てた代役が、ようや劇場に到着したのは、まさに開場予定の時刻だった。
 自由席ということもあり、大ホールの入口は開場前から既に長蛇の列。年配者の客人も多いというのに、主催者の判断で開場時刻を30分遅らせ、急きょリハーサルが行われた。
 つまりお客さんは客席に入れず、更にあと30分並んで立ち続ける羽目になる。
 たまたま受付スタッフを頼まれていた筆者は、メガホンでお客さまに事情を説明しながら平謝りで詫びを入れつつロビー駆け回り、倒れてしまいそうなお年寄りには自分の責任でソファにご案内、劇場側からは「密は避けよ」と叱られるわ、まさに大混乱であった。
 しかしながら一流のソリストたる者は、常に準備を怠らないのであろう。前半プログラムのドボルザーク〈チェロ協奏曲〉を、当然のごとく暗譜で見事に弾ききった。気の利いたアンコールのサービスも添えて。
 本人に万全の準備が整ってさえいれば、降って湧いたチャンス ——— あるいは災難 ——— を逃すことはないのだ。

 備えよ常に。

 大御所の指揮者が愛弟子に代役デビューのチャンスを与えるべく、意図的に倒れる(フリ)なんてことも実際あるし、バレエの舞台でも怪我などの、のっぴきならない事情による直前のプリンシパル交代もしばしばだ。

 現代を代表するテノールのロベルト・アラーニャは、メトロポリタン歌劇場の演目で、当初ヨナス・カウフマンが出演する予定だったプッチーニの歌劇《マノン・レスコー》、デ・グリュー役の代役依頼を、公演の一週間前に引き受け、50代半ばにしての初役ながらも、見事に演じきった功績がある。
 そんなアラーニャですら、かつてミラノスカラ座で《アイーダ》のラダメス役を演じた際、観客の悪質なブーイングに耐えかねたか途中でいきなり退場。代役はジーンズ姿の普段着で舞台に立つ羽目になる、なんていう話題も残されている。

 どんなに大舞台でも、それが全世界へのライヴ中継の真っ最中であろうとも、突然のハプニングは、いつ何時起こり得るか知れたものではない。
 このバトル番組では専門分野の的実力のみならず、参加者がいかに協力し合いながら試練を乗り越え、降り注ぐ非常事態を逆手にとって、より素晴らしい成果をもたらせるか? といった適応力も審査される。何事にも動じず冷静に状況を判断し、場合によっては自らが犠牲になる覚悟も持さない、人格の優れた参加者を見極めるのも重要な目的となっている。
 アート関連のシリーズ番組とはいえ、求められるは才能あふれる繊細な芸術家というより、逆境に強く、迅速かつ的確に対応できるサバイバーであり、ファイターなのだ。

 オケ人のピアノ人口は、かなり多い。音楽家を志す殆どの者は、幼少時からの最初の楽器体験としてピアノを習っているものだ。後に別な楽器に移りゆくとしても、音楽的な基礎は大抵ピアノのレッスンや付随するソルフェージュにて養われる。そして挫折しない限り、基本の教則本をこなした上で、ショパンの名曲くらいは軽く弾けるようになる。技術的にはリストなどの超絶技巧にもゆとりで取り組めるレベルまで達している者も少なくない。
 例えば、某大学の(音大ではない)学生オーケストラでは、「卒業コンサート」と称し、その年の卒業生らがソリストとして登場する協奏曲形式の演奏会が毎年の恒例だが、彼らの中にはオーケストラで続けてきた己の楽器ではなく、ピアノを選択する者も少なからずいる。チャイコフスキーやラフマニノフといったピアノ協奏曲の大曲を全楽章を暗譜で見事に弾きこなせるのだ。
 他のアマオケなどでも、定期演奏会に向けた通常の練習のみならず、自由時間の楽しみや選曲の参考のために、腕の立つ者がソロピアノを弾き、王道の協奏曲の全楽章を演奏する、といったこともやっている。

 アマチュアでさえ自然にそうしたことができるのだから、プロの音楽家集団であればなおさら、ピアノの達人がいくらでもいるはずだ。
 というのが主催者側の見解で、今回のような、
「前例のないピアノ協奏曲版を自前のソリストで、構成、演奏共に短時間で仕上げ、放映に値するパフォーマンスを展開せよ」
 といった無謀すぎるイジワル演出を仕掛けてきたわけだ。
 もちろんアマチュアの楽しみと、プロの音楽家として舞台に立つ場合とでは話が違うともいえようが、そこは「バトル」がテーマの番組なのだから、「無茶な課題」は致し方なかろう。




「〈道化師の朝の歌〉は、バスク地方出身の母方の血も受け継ぐ作曲家モーリス・ラヴェルに隠されたスペイン気質が、思い切り開花した曲と言えるでしょう」

 今回は舞台袖ではなく、ロビーに設置されている大画面を眺めながらリハーサル状況をリポート中の宮永鈴音。
 深紅の口紅に、朝でありながら鋭いアイラインを強調した濃いアイメイク、長い丈のフリルの裾、スペインを意識したフラメンコ風の黄色や赤を貴重に、黒のラインで引き締めた鮮やかな色合いの衣装を華やかに着こなしている。手に抱えるは、いつものヴァイオリンでなく、クラシックギターという、ご丁寧な演出。
 それからロビーに流れてくるリハーサルの音楽にタイミングを合わせて、ギターの弦をポン! ポン! と、勢いよく弾いてみせる。
「曲中に幾度も出てくる弦のピッツィカートは、道化が奏でるこのギターのつま弾きを思わせます。今しがた有出絃人さんもおっしゃってましたね。『ピッツィカートはギターっぽく、もっと激しく厚みを持った感じで』なんて」
 それから簡単な楽曲解説に入る。
 五つの小品からなるピアノ曲《鏡》の一曲、この〈道化師の朝の歌〉は、ラヴェル自身の手による管弦楽版、原曲のピアノ版、共に人気が高く、演奏の機会に多く恵まれています。
 ピアノ版の大きな特徴でもあります鋭いスタッカート、ひとつの音の連打、グリッサンドの多用は、管弦楽版では、スタッカートは弦のピッツィカートに、音の連打は主にトランペットに、グリッサンドは主にフルートとハープで代用されますが、今回はハープが入らず、意外や協奏曲形式での演奏が設定されています。
 両チームは、さあ、どのようなアレンジで挑んでくるでしょうか。ちなみにグリッサンドというのは……、
 そこまで語り、鈴音はラウンジの隅のグランドピアノに歩み寄り、ギターをピアノの椅子にそっと置いてから、ダララララン♪ と、鍵盤の上に片手を滑らせてみせた。
「グリッサンドの奏法は音型や演奏者のセンスによって多少は異なりますが、今のように指先の背を滑らせたり、逆にこうして指の腹を使う場合もあります」
 今度は親指の腹で再び軽く音を流した後、
「ラヴェル本人の親指の腹は、四角ばって平たかったため、こうしたグリッサンドに非常に適していたそうなんです。加えて、彼が愛用していたピアノは、タッチが軽めのエラール社のものでしたので、グリッサンドも曲中で気軽に多用しているわけです。まあ、このスタインウェイのピアノも、舞台で目下、有出絃人さんが弾かれているベーゼンドルファーに比べたら軽いほうですが、それでも!」
 そこで彼女は、「ご用心」とばかりに、手をカメラに見せる。
「グリッサンドは気をつけないと、摩擦での火傷や裂傷を引き起こしてしまいます。重めのタッチのピアノで無茶をすると、下手したら鍵盤が血に染まる、なんてことも。これはハープでも気をつけないといけません」

 これまでの幾度かのリハーサルでもハープが加わる場合は、指揮者がハープ奏者に対して、「リハでは軽く流す程度でいいですよ」なんて気遣うシーンもありましたった。といった話を続けてから、
「道化師の朝の歌って、想像力をかき立てられるタイトルですよね?」
 と、再び曲の説明に戻っていく。
 道化が朝、想いを寄せる女性の窓辺でギターをかき鳴らしながら高らかな愛の歌を捧げている、という情景だそうですが、でもね、それにしても……。そこで彼女は少ししかめ面をして不満げに首を傾げた。

「喜ぶ女性なんているのかしらね? 朝っぱらからどんちゃん騒ぎで起こされて、しかも歌とギターと、道化だから宙返りとか、跳んだり跳ねたり、派手な踊りなんかのおまけ付きで延々口説かれるなんて」

 またしても意表を突いた宮永鈴音の本音である。
「とんだ迷惑だと思いません?」
 現代女性としての個人的見解を撮影スタッフに話しかけているようで、司会者からの視聴者向けのメッセージともとれるため、撮影係の青年は同意したくも返事ができず、笑いたくても震えることすらできず、そのまま無言で撮影を続けるしかないのが辛いところ。
「夜の窓辺で愛の詩を捧げられるくらいなら、まあ、恥ずかしくも光栄に思えるかもしれないけれど……、『ロメオとジュリエット』や、『シラノ・ド・ベルジュラック』なんかの、かの有名な、夜のロマンティックなバルコニーのシーンみたいに」
 それから少し声を落とし、彼女は続けた。
「私、思うんですけど、タイトルの『道化』は女性に翻弄される哀れな男の比喩であって、本物の道化師というわけじゃなくて、窓辺で口説いているのでもなくて、むしろこれは朝帰りの情景で、彼女の家から出てきたところ、つまり意中の女性と一夜を明かせた喜びに胸一杯の、狂気乱舞の歌だったりするんじゃないかと思うんですよ。そしてその喜びが続く保証なんて実はないのに、『ぬか喜びしちゃって、お気の毒様……』といった客観的視点からの哀れみが、哀しき道化役者の存在を強調しているわけで、〈道化師の朝の歌〉ならぬ、『道化の役回りを演じる男の、喜びにあふれた朝帰りの歌』なんじゃないかしら? って」

 これはレギュラー審査員にして楽曲の解説担当も受け持つ作家の青井杏香と、リポーター宮永鈴音の、昨夜の打ち合わせの段階で自然に生まれた発想であった。
 何の根拠もなく、綿密な調査や研究による正式な意見でもなかったが、二人は大いに納得してしまう。しかし楽曲解説としては誤った認識を広めかねないので、鈴音が個人的な見解として述べるのなら問題なかろうし、むしろ「こうした捉え方があっても良いのでは?」といった問いかけも、クラシック音楽を幅広い形で広めゆくのが目的の番組としては、有効な方法と判断しての流れであった。
 このような司会のアドリブ的な言動は、ディレクターや撮影スタッフ用の台本には載っておらず、彼女がふと思いついたトンデモ意見のようにみせているが、実は杏香と鈴音の二人がきちんと計算した上で、効果的に利用していることもある。リポーターの生きた言葉として視聴者に伝わるよう、鈴音当人は本音を語りながらも同時に、巧みに演じてもいるのである。
 仮に宮永鈴音が余計なことを言ったとディレクターの「鬼アザミ」が判断しても、その部分をカットしてしまえばすむことなので、すべてが台本どおりでなくとも、さほど支障はない。
 とはいえ、ディレクターの彼女自身が、かなりの意地悪視点の皮肉屋なので、恐らく喜んで取り上げるであろうと、鈴音らも予想しての、ちょっと過激な発言であった。




48、「現状復帰令はヒントかワナか?」に続く...





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