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「オケバトル!」 59. 魅惑のメヌエット疑惑


59.魅惑のメヌエット疑惑



 ダルタニアンこと有出絃人が、まあ何とかなりそうですね、とピアノから離れようとしたところで、
「一応、肝心のメヌエットもやっておきたいんですけど」
 と、調子に乗ってきたアンヌ王妃こと紺埜怜美が食い下がる。
「大丈夫ですよ」
「舞台でエキストラや仲間と合わせる前に、今この場で掴んだ感触をちゃんとキープしておきたいんですよね。皆と合わせるのを意識すると、またさっきみたいな妙ちくりんな千鳥足が復活しそうで」
「そんなことは気にしなくて結構。伴奏のハープもそうですが、途中から入るユニゾンのオーボエも、優しげに重なるサキソフォンも、ちゃんとついてくるから大丈夫。さあ、そろそろ行きましょう」
 彼女はフルートを吹く代わりにメヌエットの有名なメロディーを気持ちよさそうに口ずさんだ。足下は少々おぼつかない。
「いよいよ酔いが回ってきてるみたいですね」
 心配するアラミスこと粋なバーテンダーが、小皿を持ってすっ飛んできた。
「カナッペでも口にしといて下さいよ」
「ダメです。歯磨きしなきゃならないし。部屋に戻ったりしたらベッドにバタンキューかも」
「それでもプロって言えますかね」
 冷たく絃人に言われ、むかっときた彼女は、いきなりカナッペを口に放り込んだ。
「美味しい!」
 喜びつつも、もごもご続ける。
「でもチーズが口の中にまとわりつくし、ドライフルーツが歯の間に挟まってる感じ。やっぱり歯磨きしなきゃ」
 歯磨きセットなんて、すぐに出ますか? と絃人に問われ、居合わせたスタッフ陣は首を振る。そうしたアメニティーグッズは、フロントに行けばホテル並みに揃えてあるのだろうが、彼女の自室に戻る方が手っ取り早そうだ。
「すみませんが、どなたか彼女の部屋まで付き添っていただけませんか? 歯磨き終えたら舞台にお連れして。この調子じゃ、自分の部屋まで行き着けるかどうもか知れたものじゃないし、歯磨きしながら寝ちゃう危険も。誰かが見張ってないと」

「ああ~。うちらは手助けできないんですよ」
 バーテン・アラミスが言った。
「今はお客さん、いないでしょ」
 食い下がるダルタニヤン絃人に、他の銃士二人も丁重にお断りの姿勢を示す。
「我々スタッフは、バトル参加者への個人的な手伝いは厳禁なんです」
「どちらかのチームを手助けするのはフェアでないので」

 食べさせたのは、てめえだろうが! という暴言は胸に留め、
「では本番は7時に始まりますので、ぜひお越し願いますね」
 と絃人は三銃士に念を押しておく。
「行きますよ。あと10分しか猶予がない」
 ふらつくアンヌ王妃を丁重にエスコート ── ではなく、乱暴にせき立てながらバーラウンジを後にした。





「エルネスト・ギローの名を、皆さまはご存じでしょうか?」

 Aチームのリハーサルが滞りなく終わり、続くBチーム用のセッティングがなされる舞台の様子を背景に、宮永鈴音による課題曲の解説が収録されている。
 今朝から続いていたラヴェルの楽曲に合わせてのスペイン風エキゾチシズムを意識した衣装と似た流れで、メリハリメイクはそのままに、裾が華やかに広がるセミロングスカートの赤と黒、フリルたっぷりブラウスの白とでコントラストを際立たせている。アルルの女のミステリアスなイメージを演出すべく、顔を覆うようにサイドに流されたロングヘア。反対側のトップには深紅の薔薇があしらわれている。大輪の薔薇に負けない圧倒的な存在感。
 今宵は日頃から意識的に装っている明るく華やいだ雰囲気ではなく、目線は下げ気味、声色も低めにトーンを落とし気味に。それでも張りのある芯のとおった声質で絶妙な間合いや抑揚をつけて語るので、メッセージは視聴者にもはっきりと伝わってくる。

「ビゼーも含めたフランスの作曲家、多くが学生時代に受賞している、かの『ローマ賞』をギロー自身もそうですが、父親も受賞歴を持つという音楽家の家庭に育ったエルネスト・ギロー。作曲家、指揮者、理論家であり、パリ国立音楽院の教授としてドビュッシーやデュカスらを指導し、ビゼーとは親友どうしでした。劇音楽《アルルの女》初演時には、舞台裏で合唱の伴奏として、ビゼー本人や作曲家仲間と交代でハルモニウムを弾いたそうです。
 素晴らしきオーケストレーションの大天才でありながら、ギローのオリジナル作品で知られたものは、残念ながら残されておりません。
 管弦楽法の名著は、有名ではあるのですが……。
《カルメン》の初演が世間に酷評されて不成功に終わった三ヶ月後、ビゼーは失意のうちに世を去ってしまいます。明快で楽しい作品ばかりに慣れ親しんでいた当時の聴衆にとって、救いようのない悲劇の物語は、時期尚早だったのでしょう。ですがその後、ギローが《カルメン》の台詞のみだった部分にもメロディーをつけ ── いわゆるレチタティーヴォといいますが ──、全体を音楽化します。
 完全版のグランドオペラへと変貌を遂げた作品は、後に大成功を収め、今日ではフランスものの歌劇といえば、カルメン! が筆頭にあげられるほど大変有名、かつ、音楽史上重要な作品となっています。
 ギローの功績ならではですよね!      
 先の課題曲、オッフェンバックの《ホフマン物語》では、アントーニアさんの華麗なるダンスと夢のような歌声が私たちの心に深く刻み込まれておりますが、作曲家亡き後、未完だったこの《ホフマン物語》を補筆完成させ、世に送り出した立役者こそも、まさしくこのエルネスト・ギローだったのですよ。
 そして今宵の課題曲《アルルの女》第二組曲も、やはりビゼー亡き後、ギローが見事な手腕で原曲のメロディーの断片を巧みに組み合わせ、多彩な色づけを施して完全な形にして世に知らしめたのです。後世に渡り、演奏会、とりわけ名曲コンサートなどで頻繁に取り上げられる誉れが、永遠に授けられたのでした。
 なかでも第三曲の〈メヌエット〉は、管弦楽の名曲として大変親しまれているだけでなく、フルート独奏の代表曲ともいえるほど。そして終曲の〈ファランドール〉に至っては、コンサート用の小品ですって? どうしてどうして、たった3分半の中に、豊かな彩りや繊細な表情、息をも殺すほどの緊迫に、抑制された感情、熱狂、激動の嵐のクライマックスに向けての立体的な劇的効果といった、管弦楽曲のあらゆる魅力が凝縮されていて、もはや編曲の域を超えた、むしろギローの作曲とも言えるのに、その名はスコアの冒頭にも表紙にも、編曲者としてさえ記されておりません。演奏会のプログラムに載ることも、舞台解説で紹介されることも、残念ながら、まずないようです。《ホフマン物語》だって、彼の名が前面に紹介されているわけでもありません。
 音楽史上の重要人物でありながらも、恐らく本人は大変謙虚な方だったのでしょうね」

 いったん話を区切り、鈴音は時間配分及びセッティングの状況を確認し、
「作曲家の永遠の友であるエルネスト・ギローについてお話しましたが、どうやらBリハ用の舞台準備が整ったようです」
 話をさっと切り上げる。
「さあ、Aチームから移籍の有出絃人さんとBチームの初共演はどのような展開になりゆくのでしょうか?」
 と、声色トーンを上げて明るく述べ ——— ミステリアスな雰囲気は残しながら ——— 下手へと立ち去った。

 Aチームのリハーサルが先に舞台で行われていたこともあり、番組制作陣は、この場における有出絃人とBメンバーとの初顔合わせの、予測不能のぶっ飛び展開を期待していたのだが、これはスタッフらのうっかり落ち度であった。地下のリハーサル室にて打ち合わせと称して、既にBチームが楽曲を大方仕上げてしまっていたとは!
 リポーター役の宮永鈴音には、両チームを同じ視点で取材できるよう「舞台付近で待機」との指示がディレクターの鬼アザミから出ていたし、メインの撮影クルーは基本、鈴音と行動を共にしているため、地下でなされていた緊迫の初顔合わせや、バーラウンジで繰り広げられた、新参リーダーと妖艶フルートの妖しげな茶番劇をも見逃す羽目となってしまう。
 視聴者も興味津々となるはずの彼らのご対面の様子、Bメンバーの固定観念を覆さんばかりの有出絃人の堂々たる主張の貫きに、〈ファランドール〉の鳥肌ものの感動シーンも、アップやロングショットを駆使した迫力のリアル映像や高音質マイクによる立体録音でなく、簡易マイク付固定カメラに残された流し撮りのロングショット映像に頼るしかないとは非常に残念。だからといって事前打ち合わせの再現を参加者に強いるなんて、嘘偽りのないリアリティーが売りのバトルシリーズゆえ、たとえさりげないワンシーンであれど、もってのほか。第一、参加者が「撮り直し」の要望などに素直に従うはずもないのだが。
 そんなわけで、番組側が肩すかしをくらった形で音出しが開始されたBの舞台リハーサルであったが、その出来栄えの見事さに仰天させられた面々は、彼らの対面時のエピソードへの期待など、取るに足らない思惑であったことを思い知らされる。

── 有出絃人がBチームに魔法をかけた ──。

 いったいどうやって?

 これまでの彼らの傾向と、まるっきり違うじゃないの! というのが大方の番組関係者の第一印象。
 そして当のBのメンバーは、〈メヌエット〉でのフルートが、地下の音合わせ時とは別人に生まれ変わっていることに、感動とともに大いなるショックを受ける。

── 有出さんがフルートに魔法をかけた? ──

 いったいどうやった?

 美しさにうっとり酔いしれて……、なんて常識の枠なんて遙かに超えた、もはや崇高ともいえる女神レベルの世界ではないか。

 彼女に何が起こったの?

 皆が心底不思議がるが、思い当たる節がなくもない。愛の妙薬を酒に混ぜただの、愛の歌の弾き語りで口説いてロマンティックな気分に高揚させたに違いない、なんてのは、まだ健全な妄想。

「怜美さんの部屋から、二人して一緒に出てきたんだから」
 という、化粧直しに自室に戻った一部の女性奏者による目撃証言に、
「噂の二人が彼女の部屋から肩を並べて出てきた」だの、
「ぽわんとしてふらつく怜美さんの肩を、あの男が支えてた」だとか、勝手な尾ひれがついて女性陣の間に伝わってしまう。

 第一、5階は女性参加者専用のフロアでしょ。夜、気の合う仲間で集うとかでない限り、基本、殿方は遠慮するはず。絶対におかしいですよ。
 彼らが消えていた1時間あまりに、彼女の部屋で、いったい何が?
 これまで感じられなかった色艶があふれ出たのは「有出マジック」のせい?
 いったい彼ったら、貞淑な人妻の怜美さんに何やらかしたわけ?

 お見事なまでのトンデモ疑惑であるが、我がチームの男性奏者には、そんなゴシップは決して流すべきではないと、彼女らも心得ていた。皆の憧れ、Bの看板美女が新参の若者に手玉に取られ、身も心も、その音楽性すらも完全コントロールのマリオネットにされてしまったなんて、チームの士気にも関わるスキャンダル。そんなこと、どうしてバラすことができましょう。

 実のところ有出絃人はオレ様でありながらも、状況が状況であれど女性の部屋にみだりに踏み込んだりはしない紳士主義。紺埜怜美が自室で呑気に鼻歌まじりに身支度を整える間、ドアの隙間に足だけ挟んで、ミニバーにオレンジジュースがあったら酔い覚ましに飲んでおけだの、歯磨きは一分で済ませろだの、もう時間切れ、楽器と楽譜を忘れずにだの、彼女がうっかり眠り込んだりしないよう、ガミガミと声をかけ続けていたにすぎなかったのだが。




60.「いくら何でもズルすぎません?」に続く...






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