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「オケバトル!」 57. 美女とナッツに、ご用心


57.美女とナッツに、ご用心



〈ファランドール〉の方向性は見えてきた。舞台リハーサルまで、あと2時間の猶予がある。もう一曲の〈メヌエット〉は、殆どフルートの独壇場。寄り添うハープとサキソフォンのエキストラ陣は、これまでのようにAチームとの共用につき、舞台リハで初のお目見えになるとはいえ、途中の全合奏もあることだし、一応は流してみることに。

「感触を掴む程度で良いので。但し主役のフルートさんだけは本気でお願いしますね」

 指揮者から本気でと言われてプレッシャーをかけられても、年齢も重ねて落ち着いた大人の貫禄と同時に女性の可愛らしさも併せ持つ素直な彼女なら、意に介すこともなかろうと、大方の者がさほど心配もせずにフルートの調べに聞き入った。
 ライバルチームに略奪された、美しすぎる音色や完璧すぎる技巧が際立っていた星原淳くんの透明なフルートとは、また別な魅力を備えた残された大先輩、紺埜怜美(こんの れみ)さんは美しいメロディーをゆとりで歌いこなし、本人の麗しい容姿や艶やかな雰囲気とも相まって、神話の世界に誘われたかのごとく、一同うっとりと心地よい満足感に浸るのだった。

 さて、指揮者の反応は?

 静かな〈メヌエット〉では、ハープの代わりをピアノでさらりと奏でつつ、優美な手つきで時折合図を送る程度で、殆どをフルートに任せていた有出絃人であったが、果たして彼女は指揮者のお眼鏡にかなったかや?

「トゥッティ(全合奏)はフォルテシモでなく、あくまでフォルテだということをお忘れなく」
 と述べて、彼はピアノから離れた。
「麗らかなメロディー転じて、いきなりジャーンとびっくり仰天、なんてことにならないよう、丁寧に、格調高い感じでお願いします」

 つまり音量が大きすぎるということか。褒めてもらおうと一生懸命頑張ったのに注意されてしまった子どものように、皆がちょっと嫌な気分に陥りつつも、全否定されたわけではないことに内心ほっとしている中、絃人はコンサートマスターの脇に立ち、パート譜をさっと指し示して何やらこそこそっと別所に耳打ち。
 それからフルート女性に向かって、外に出るよう合図で促し、

「フルート、お借りします。あとは舞台リハで仕上げましょう」
 と告げて、リハーサル室を後にした。

 フォアシュピーラーの男性とセカンド首席が、「何言われたんですか?」と、訝しげに別所に尋ねるが、彼は「後で分かりますよ」と、秘密めいたそぶりで教えてくれず。
 ファランドールのおしまいの方がどうのと言ってたようだけど、何か仕掛けてくるにしても首席レベルには教えてくれたっていいのにね、と二人は顔を見合わせて肩をすくめる。我らが別所さんも、既に新参有出の忠実な配下にされてしまったか。
 そして次はフルートの彼女までもが有出のターゲットにされそうな、不穏な気配?

 もしや大目玉を食らうのか? 仲間の前では責めにくいから、わざわざ部屋の外に連れ出すわけ? と、不安を覚えながらも慌てて立ち上がり、指揮者を追ってドアの外に出たフルートの紺埜怜美であったが、有出絃人は、
「七階のバーラウンジに、先に行っててください」
 とだけ命じ、地下に向かうエレベーターに、一人乗り込でしまう。

 本番を控えてアルコールですか? 彼女の頭はぐるぐる。やはり面白味のかけらもない生真面目すぎる演奏だったと? で、酒を飲ませてほろ酔い気分のメヌエットくらいが、ちょうど良いとでも? わざわざエレベーターを違えて別々にって、二人でバーに行くのを皆に悟られたくない配慮から? そんな不自然な行動、逆に後ろめたさバレバレじゃないの。彼ったら、いったい何考えてるのかしら、とすっかり混乱してしまう。

 この建物の最上階にあるフレンチレストラン併設の洒落たバーラウンジ。黄昏時の今時分はディナーの食前酒をひっかけるには最適な時間帯といえど、バトル参加者は夜の本番に向けて一寸を惜しんでのリハーサルや打ち合わせの真っ最中なので、人影といえばオフの男性スタッフ二名がカウンターの隅に腰掛け、その奥で、ほぼオフ状態ながらも一応待機している若いバーテンダーと気軽なおしゃべりでくつろいでいるくらいであった。
 ハイチェアに腰掛けるには少々重たげな図体を傾けつつ、スコッチのグラスをうやうやしく掲げてこちらに会釈する殿方から少し離れたカウンター席に落ち着いて、怜美はお休み前のミルク感覚で軽くいけそうなカルーア・ミルクを注文した。
 有出氏から理不尽なお叱りでも受けて傷つくのは嫌。落ち着く一杯で、心の準備をしておきましょうと。
《アルルの女》について、自分なりの講釈を述べよとでも言われるのかも知れない。
 彼から説教を受ける前に予防線を張っておくべく、怜美はこの曲に関する思いつく限りの記憶を辿ろうと試みた。こんな時スマホさえあれば簡単に資料を引き出せるのにと、ちらりと思うが、ネットで調べた知識なんて大抵は読んだそばから忘れてしまいがち。せめてプリントアウトしてアンダーラインを引くなり、自分の言葉に置き換えて資料を作り直すなり、情報はいったんは紙に残さないと中々身についてはくれず。いずれは電子機器を駆使すべき世の中になりゆくとしても、基本、紙の楽譜に慣れ親しんでいる演奏家の習性としては、無尽蔵の電子データより、一冊の本の方に遙かに魅力を感じてしまう。

 えっと、劇作家のドーデが、親愛にして偉大なる友人のビゼーに捧げた戯曲が「アルルの女」なのよね。ドーデの短編集『風車小屋だより』に収められている一編で、実際に起きた事件に基づく救いがたい悲劇。一度会ったきりの謎のアルル女に一目惚れして気も狂わんばかりに恋い焦がれる青年が、母親を安心させるために幼なじみと婚約することで、いったんはアルル女を諦めるものの、こともあろうか結婚式の当日、絶望のあまり窓から身を投げて──、

 違う違う。このメヌエットはアルルとは関係のない、ビゼーの別な歌劇《美しきパースの女》からの抜粋じゃないの。初演時に不評だったから作曲者本人によって破棄されてしまったという。
 ああ、確かに私ったら、さっき吹いた時はパースの娘なんて意識もしてなかった。「風車小屋だより」に描かれている風光明媚なアルル地方に広がる、のどかな田園風景……でなくて、舞台はパース。かつてのスコットランド王国の首都で、のどかというよりも、壮大な歴史の重みや伝統を感じさせるような?

 なんか違うわよね。ああ、肝心要のソロ奏者がこんなじゃ、有出さんに呼び出しを食らって「認識が甘い」ってこき下ろされちゃうのも、当然なのかも。
 ええっと「パースの娘」、原作はウォルター・スコットで、このメヌエットは、美しい主人公パースの娘になりすましたロマの女王と、好色な領主による偽りの愛のデュエットで、清らかで麗らかなメロディーとは裏腹の、危ういシーン──
 ダメダメ。この際いやらしい好色おやじには消えてもらいましょ。あくまでも清楚なメヌエットでなければ。たとえ原曲がビゼーの《パース》の歌曲だったとしても、編曲のギローが《アルル》組曲としてオケ版に組み入れた以上は、雄大な歴史的背景とかよりも、やっぱり陽光に輝く田園地帯でしょうよ──
 ええ? なんか変。そもそも、こんなうんちくなんて、ホントに必要? それとも、美しさに隠された怪しげな大人の世界観でも表現せよってこと?
 はあ~と怜美はため息をついた。若造なんかに翻弄されず、もっと自信を持たないと。

「あなたにとっては呼吸のような曲なんでしょうね」
 カクテルを作りながら、バーテンダーが話しかけた。
「はい?」
「メヌエットですよ。今夜の課題曲」

 彼女がBのフルート奏者で、昨日までの仲良しパートナー星原淳くんが、対するAチームでの今回の首席と知っての発言。生き別れの運命をたどった親子対決 ── と危うく言いそうになり、バーテンダーは慎んで口を閉ざした。
 実際、親子以上に年の離れたフルートの二人であったが、年齢層の幅広いオーケストラでは、こうした認識には配慮が必要だ。しかも片や神話に登場しそうな絶世美女の風格に、片や女神に見初められたが故に神の怒りを買ってしまい、あるいは嫉妬した他の美女神らの争いに巻き込まれて、岸辺の花とか動物や、夜空の星なんかに姿を変えられてしまいそうな儚げな美少年。やはり親子の比喩なんて失礼極まりないだろう。

「どうぞ、薔薇のカルーアです」
 背の高いカクテルグラスに、淡いピンク色に染められたアイスミルクと珈琲リキュールとが、きれいに二層に分かれている。
「まあステキ。こんな演出、初めて! 美しいわ」
 大人の女性のためのカフェオレとも言われるカルーア・ミルクは、リキュールとミルクが二層に分離された状態で提供される場合と、完全に混ぜられたカフェオレ状で出される場合があるが、ミルクが淡い薔薇色に色づけされると何ともロマンティック。中々粋な計らいではないか。
「どうして二層がこんなにくっきり分かれるの? 物理の法則かしら?」
「どちらかというと化学系の話になるんじゃないですかね? 氷たっぷりのグラスに、濃度が濃いリキュールの方を先に入れてから、ミルクを氷の上にゆっくりと丁寧に、少しずつ注ぐんですよ。ミルクの方が軽いから、自然と二層になるんです」
「ミルクのローズ色は?」
 少々きどった調子で彼は答えた。
「マダム、それは秘密でございます」
 実のところは、少量の粉末ラズベリーと牛乳をブレンダーで軽くかく乱して色づけしてあるだけなのだが、簡単に種を明かしてしまってはミラクルなロマン性が損なわれかねない。こうしたことは内緒にしておくのがよろしいのだ。
「題して『ラ・ベル』。麗しのフルート奏者に捧げるスペシャルカクテルですからね」
 企業秘密を明かさぬことで客人が機嫌を損ねることのないよう、気の利いたひと言もつけ加えておく。
 そして客人の方も、こうしたお世辞には慣れっこなので意に介することもない。
「二層を混ぜる、ときめきの瞬間ね」
 ガラスのマドラーで静かにカクテルを溶け合わせていくと、グラスと氷が響き合う、澄んだ音色が何とも心地よい。カッティングも繊細なクリスタルのグラスが上等なのか、このバーラウンジの空間が音をよく拾う造りなのか。
「これ、すごく美味しい」
 ほんのりと、バニラの風味。お酒に弱い私でも飲みやすい、まろやかな味。ああ、心が落ち着く。
「実は濃厚生クリームも入れてみたんですよ」
 まあ、その分アルコール分は高くなるんですけれど。という続く言葉を彼は慎重に避けた。フルート奏者が本番前に酔ったと自覚するのは危険なことかも知れないから。
 しかもこのカクテルは甘く優しい口当たり故に、つまみもなしに軽くいける。しかしリキュールとミルクの配分によっては実はビール並みか、それ以上にアルコール度数が高くなるとはあまり認識されていない。
 しかも彼女は恐らく空きっ腹と思われるのに、喉が渇いていたのか、ごくごくと一気に飲み干しているではないか。そうだ、つまみを出さないと。

「あ、ナッツはいいです」
 怜美は小皿をカウンターの奥に返した。
「好きなんですけど、演奏前は厳禁なんです。喉のどこかにアーモンドの薄皮なんかが引っかかって残ってたりしたら、突然むせだしてひどい事態に」
「そりゃ大変だ。じゃあ、バトラーの皆さんには、つまみの提供も気をつけないと」

 ふうむとバーテンダーは考え始めた。太っ腹の金管族は別として、バトル参加者の多くは基本、日に三度のバトル中は落ち着いて食事もできず、ランチもそこそこ、特に夕食はおあずけにされることも多い。しかし腹が減っては戦もできなかろうと、エネルギー補給にナッツなどの高栄養なつまみは腹持ちも良く、かといって満腹すぎる事態には陥らず集中力も保てるので、気付けの一杯のお供にはもってこいと思われていたのだが。
「一日のバトルが終わるまで、ナッツはよして、チーズやドライフルーツなんかにしとくかな」
「あ、気にされなくていいですよ」
 怜美は慌てて訂正した。
「そんなの、食べる人の自己責任ですから。本番でそんな事態に陥るなんてドジ、私くらいでしょうし」
 そう。こうしたことも、バトルのうちなのだ。ライバルチームの誰かがナッツのせいで本番でむせ返ることになろうと知ったこっちゃない。Bの仲間には機会があったら警告しておくとして……。
 といっても皆さん経験豊かなプロなんだから、それくらいは自ら気をつけてるでしょうよ。
 それとも?
 ふと思いついてしまった恐ろしいアイディアを、怜美は気の良さそうなバーテンダーに、落ち着いた低い声色で持ちかけた。

「Aチームの皆さんには、ぜひ、ナッツを出して差し上げて」

「えっ?」
 いきなり妖魔に豹変したかのような彼女の提案に、バーテンダーはのけぞった。
「その提案、何だか陰謀めいて聞こえるんですけど」
「職業柄、お客さんの顔を覚えるのは得意なのでしょ? 誰がどちらのチームであるか、大方見分けもついてるんですよね?」
「ダメですよ。スタッフの倫理に反します」
 毅然と断る青年であったが、
「だってバトルなんですもん」と、すごまれる。
「初日に、あの宮永鈴音さんが言ってたんだから。『多少のズルや足の引っ張り合いは、大いに結構ですよ』って」
「そうした悪巧みはバトラーどうしでやってください。我々スタッフを巻き込まないで」
「分かった! だったら、こうしましょ」
 怜美は嬉しそうに手を叩いた。

「ナッツはこれまでどおりに提供なさって。だけど、うちのチームには出さないで」

「結局は同じことじゃないですか」
 怜美はくくくと笑い出した。
「いい作戦らわ」
 どうも様子がおかしい。おかしなことを言い出すし、何だかろれつも回ってないような。まずい。次なる曲の主役となるフルート首席を酔わせてしまったかも。これは責任問題だ。バーテンダーは気を利かせ、薄切りライ麦パンにリコッタチーズとドライフルーツを乗せたカナッペをさっと作ることにする。
 当の彼女はラウンジに入ってきた際の緊張した様子とは打って変わって、今やすっかりくつろいだほろ酔い気分となっていた。頬をほんのり薔薇色に染めつつ。
「本番前に食事はしないとしても、これくらいは、お腹に入れておいた方がいいですよ」
 彩りも可愛らしいカナッペが差し出される。
「あら美味しそう」
 でも、どうかしら。食べたら演奏の前に歯磨きしておきたいし。この後は舞台リハが待ち構えていて、そのまま本番なんだから、部屋に戻る時間なんかないものね……と、彼女が感謝しつつも迷っていると、背後からピアノの音が静かに流れ出した。
 ゆったりとした、《カルメン》第三幕の間奏曲。これもフルートのソロで有名な ──、これって?
 はっとして怜美が振り返ると、ラウンジのベヒシュタインを奏でているのは有出絃人ではないか!
「こっちへ」という合図を彼から送られるまでもなく、怜美は急ぎピアノに歩み寄った。

 これはどうしたことか? あっけにとられて二人の動向を見守る、バーテンダーを始めとする三名の施設スタッフら。今宵の要とも言える二人がバーにしけ込み、フルート女性は既にほろ酔い状態。女なんて寄せ付けない堅物と思われていた有出氏が課題曲そっちのけで《カルメン》の曲なんぞをピアノで奏で、妖艶美女の人妻をくどき落とそうと?



58.「女神は三銃士のために」へ続く...


♪  ♪  ♪   今回名前が初登場の人物   ♪  ♪  ♪

紺埜 怜美(こんの れみ) Fl.  Bチーム
     自称「清純派」の妖艶美女。





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