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音楽童話 「シャープないたずらっ子」

「♯ないたずらっ子」


 その少年が歌い出すと、辺りの空気は静かに共鳴を始め、清らかに澄み渡る。それが日曜の朝の教会であれば、尚更のこと。
 重奏のパイプオルガンの荘厳な和音。
 調和のとれた聖歌隊の合唱。
 信者さん方の控えめに寄り添う歌声。
 そしてステンドグラスから差し込む朝の晴れやかな陽の光までが、ことさら美しく輝くのは言うまでもなかった。

「アントン、ありがとう」
「いつも本当に素晴らしいわ、アントン」

 ミサを終えた少年聖歌隊の面々は各々の家族と連れ立って家路につくが、身寄りのないアントンだけは、彼の歌声を口々に誉め称える最後の1人との挨拶を終えるまで、出口付近に静かに佇んでいる。

 1年前のある日、ふらりと教会を訪れた1人の少年。
 親切なシスターたちの世話の元、何の事情も語られないまま付属の修道院に住み着くことになるのだが、彼の歌とピアノの並々ならぬ才能と純朴な愛らしさに、誰もがすっかり惚れ込み夢中になった。聖歌隊では当然のごとくソロパートを任される。素性が知れないからこそ、ふしぎな少年の、ふしぎな歌声。

「アントン、きみには始めての曲だがね」
 音楽監督の若い神父が励ますように少年の肩に手を置いた。
「例によってソロもあるので、よろしく頼むよ」

 紺色のビロード地に、上品な金糸の刺繍が施された楽譜挟みが手渡される。何やら神秘の香り。何年もの長い時を修道院の奥深い書庫で過ごし、人の手に触れることのなかった冷んやりした感触。8才の少年には少しばかり重厚な表紙をひも解くと──、

   ひとすじの光が 暗闇を降りてくる
   それは いつか見た 懐かしい 光

 タイトルは〈 Ein Strahl ひとすじの光〉
 セピア色に変色したインクと黄ばんだ五線紙が、遥かな時代の隔たりを感じさせ、手書きの原稿からは作曲者の生の感触が伝わってくる。中世の、秘蔵の装飾写本を手にしたかのような感激とともに、少年は譜面に引き込まれていった。

「典礼用の宗教曲ではなく、聖歌隊のレパートリーとして書かれたものらしい」

 貴重な原本をじかに見せてくれた神父の計らいに感謝しつつ、
「じゃあ、シスターのとこでコピー取らせてもらいますね」
 と、少年が無邪気に謂うと、

「コピーも持ち出しも、当然ながら写譜も、厳禁である!」
 神父が厳しい口調でぴしゃりと否定。そして勿体ぶった調子で厳かに続けた。
「これは門外不出の秘曲なのである」

 教会の音楽監督にして、少年アントンのお目付け役でもある若き神父は、親しげな友人、そして頼れる兄貴分のように思っていたいところだが、礼拝堂ドームの天井にまで響き渡る低い大声で少年を威圧する、厳格な神の代理人にも豹変するから油断がならない。

 どうして? という質問はタブーであった。
 つまりこの場で暗譜せよ、ということか。本日の10時のおやつにはありつけないなと少年は腹をくくり、素直にピアノに向かうことにする。

   忘れていた光景が
   失われた音楽が
   よりいっそうの輝きを増して
   鮮やかによみがえる

 透明な歌声と、世にも美しいピアノの響きが共鳴し合い、辺りに分子レベルの波動が巻き起こる。しかも最高の音響を誇る教会で、しかも封印された秘蔵の名曲。さらにその美しさに奏者自身がいたく感銘を受けながらの演奏とあっては、もはやその場の空気は耐えられようがない。
 起こるべくして、事は起こった。

   光よ! わたしの夢よ!
   どうか今度こそ、永遠に──

 楽譜がふるふると震え、音符が輝き出す。
 アントン自身も何だか鼻がむずむず。
 分子の波動を受け取ったか、封印されていた過去の埃が舞い上がったか、

「はーっくしゅん!」

 音符たちがいっせいに楽譜から飛び出した。

 放り投げ出された? 吹き飛ばされたか? あるいは自らの意思で、ここぞとばかりに飛び出したのか? 
 くしゃみでかがんだアントンが再び楽譜に向き合うと、譜面の半分くらいが消えてなくなっているではないか! 
 周囲に何やら妙な気配。恐る恐る、少年は辺りを見渡した。

── 音符が漂ってる!? ──

「ちょーっと待ったあ!」
 椅子から転げ落ちそうになりながらアントンは叫んだ。
「まだ暗譜が完全じゃないんだ」

 少年の叫び声に活気づいたか、ゆるりと宙に浮かんでいた音符たちが一斉に歌い出した。それはめちゃくちゃな大合奏。各々の音を好き勝手に歌い奏でてゆく。
 ヘ音記号から飛び出したバスは厳かに、テノールは陽気に歌う。ソプラノパートは仲良く腕を組み、一定のフレーズを繰り返す。低音部の和音はパイプオルガンの重厚な響きをボーボーと模倣し、長~いスラーは各音を好き勝手につないで遊んでいる。
「強く、もっと強く!」やんちゃなフォルテやフォルテシモが彼らをあおり、物静かなピアニシモは、
「しいーっ。静かに」皆をたしなめて回る。
「大人しくしておかないと、音楽監督さんから大目玉よ」

「ああ、秘蔵の音楽が、門外不出の秘曲が……」
 アントンは呆然とするばかり。
 と、ドアの向こう、隣の執務室から響く地獄の声。
「アントーン!」

 神父だ。この騒動、ぼくが遊んでると思ってるんだ。
「監督が来るぞ!」
 少年が脅すと、さすがに神の代理人の威厳か、電光石火のすばやさで音符たちは楽譜内に戻っていった。「もう暗譜はパスだ」
 このまま閉じちゃおうとアントンが楽譜に手をかけると、どこからか、シとソ# の音が繰り返される、かすかな響き? じっと耳を傾ける。どうやら足音が遠ざかって行く気配。気づかれないようそうっと見やると、シとソ# の音符のペアが、抜き足差し足で逃走を図ろうとしているではないか。
 そしてその先には、神父が閉め忘れた小さな窓!
 アントンは窓の方に後ろ足でにじり寄り、一気に脱走音符に飛びかかる。捕獲成功! と思いきや、# だけがするりと少年の手を抜けて、窓からふわりと外へ出ていった。

「シャープ!」

 アントンは捕まえた2つの音符をピアノの譜面台に向かってふうっと吹きやり楽譜に戻し、よじ登った小窓から外へ飛び降りた。
 優雅に飛び去る# は、しかし見失ってしまった。


「王宮の舞踏会に、いつかあの娘を誘えたらなあ!」
 だけどそんなのは夢のまた夢。ぼくなんか、ただの馴染みの客の1人にすぎないんだから。

 たいそう真面目そうな青年が、深く物思いに沈みながらもワルツの足取りで歩いていたので、♯ はルルン♪ と彼の胸ポケットに入り込んだ。

「そうだ。ぼくはその為にダンス教室にまで通ったんじゃないか! 何を遠慮してるんだ」
 毎週の日曜ごとに彼女の店に買物に行きながら、一言二言くらいしか言葉を交わすことのなかった気弱な青年。# が彼の意識を半音ばかりアップしたか、急に勇気がわいてきた。
「よし、今日がその日だ。今日こそ誘ってみようじゃないか!」


── もう2日も食べてない。あたし、このままのたれ死んじゃうのかしら? ──

 家出したのはふとした出来心と好奇心からで、現状に不満があったわけではない。最初の数分間こそは、わくわく楽しかったものの、喉は渇くし、お腹は減るし、もはや帰り道すら分からない。
 そんな彼女の茶色く汚れた毛皮──元は純白だった──に、# が潜り込む。すると彼女は急に生きる意欲を取り戻した。
 人生は自分で切り開く! 声を限りに叫んでみましょう。

「みゃお~ん#」

 やあ、可愛い仔猫だぞ、と言いながら、教会脇の袋小路にはまっていた彼女を悪ガキどもが取り囲んだ。# が今度は彼ら1人ずつにポンポン飛び移ったので、尻尾を掴んで振り回されるといった恐怖の事態は幸いにも免れた。少年らが小遣いを出し合って買い求めたキャットフードが、美味しいミルクと共に提供される。
 そのうち集まってきた女の子の1人が、仔猫の特徴のあるスコティッシュ風の短い耳に気づき、
「間違いない、ホーリィ婦人のシシィだわよ」
 と言い出し、シシィこと彼女は無事、飼い主の元に戻された。孤独な老婦人は涙ながらに喜び彼らを迎え、それからの日々は仔猫との戯れ、そして婦人の美味しいお茶菓子を楽しみに、ホーリィ家の居間は善良な子どもらの楽しくも上品な社交場と化した。

 マルクト広場の花売りの少女は、客にかける声が半音上がっただけで売上が倍増。
 路上の大道芸人は、儲けよりも通りゆく人々に幸せを! と、発想を転換することで、益々の人気を得る。
 修復中の宮殿の天井裏からは大戦中に隠されたクリムトの貴重な名画が発見され、
 天体物理学者は、学会からつまはじきにされそうな奇想天外な新説を発表すべく決意を固める。

 そんな風にトーンを半音上げるという# な性質のなせる業か、# に出会った者は意識が前向きになるとか、気分が明るくなるといった風にプラス思考に転じ、探し物が見つかる、失われていた人間関係が復活といった具合に、各々の人生にささやかな幸せや希望がもたらされてゆくのだった。
 唯一、本番中のソプラノ歌手に取り付いたのは、とんだ災難であったが。伴奏のピアニストが、全ての音を半音上げて──必死で──ついてゆける腕前を持っていたからこそ、事なきを得たとはいえ。


 街の中心部にある大聖堂の鐘が、11時の時を告げようとしていた。
 荘厳な鐘の音がいつもと半音ずれていたからといって、気に止める者はさほどいなかったろう。しかしアントンだけは別だった。# の手がかりを求め、途方に暮れつつ小一時間ほど街をうろつき回り、諦めかけたところだった。

── シャープだ! ──

 幸いなことに少年は大聖堂のすぐ脇を通りかかっていた。堂内に飛び込むや、確信を持って鐘楼の階段を駆け登る。
「ついに捕まえたぞ。待ってろよ」
 しかし 500年もの歴史を持つ大聖堂の鐘楼というものが、一体どのくらいの高さを誇っているものか? 果たして 100メートルは超えようか。鳴り終えるまでに階段を登りきるなど、到底無茶な話であった。息を切らし、鐘突台にアントンがたどり着いた時には、おしまいの11個目の鐘の余韻がむなしく響いているだけで、# の気配は既に消えていた。

── 鐘の音が明るく聞こえると、花たちまでがひときわ輝くみたいだわね ──。
 花売りの少女は花々が歌っているように感じ、にっこり微笑んだ。さっきは50本もの薔薇を買って下さったご婦人がいたり、今日はきっと全部売れるわね。お花たちが幸せなお嫁入りを果たしてくれれば、わたしも幸せ──。

「花も羨む美しい笑顔だ」

 彼だわ! 
 いつも日曜の午前中に現れて、おそらく恋人への花束を買ってゆく青年。
 少女ははにかみ、ぽっと頬を染めた。
 今日は自分で花を選ぶと言う青年の様子に、しかし彼女は胸をちくりと痛める。いよいよプロポーズなのかしら? 彼、いつにも増して幸せそうだし。わたしは深紅の薔薇をメインに、情熱的なイメージで選んであげてたけれど、彼自身の好みは、どうやらパステルトーン系の上品な色合いなのね。リボンでの豪華ラッピングを注文するところからすると、やっぱり特別な花束なんだわ。
 少女は少しだけ目に涙を潤ませながら、彼とその幸せな恋人の為に、精一杯の心を込めて、より美しいアレンジを施した。

 週に一度、少女の元に花を買いに来るのが最大の楽しみであった内気な青年が、いつものように多めに支払いをすませると、いったん受け取った花束を、うやうやしく彼女に差し出した。
「フロイライン(お嬢さん)、次の土曜の夜、王宮の舞踏会に一緒に行って頂けますか?」


 # の音頭で祝福の歌を──聞こえない波長で──歌い始めた花々と、幸せな恋人たちに別れを告げ、いたずら者の愛のキューピッドは、今度は街中を走る路面電車に取り付いた。

 チンチン! と鳴る発車音が通常よりも半音高らかだったので、# は即座に少年に見つかってしまった。電車を追いかけ飛び乗ったアントンが、# の譜面上のパートナーであるソの音で歌い出すと、# は否応なしに少年の声に引き寄せられた。メロディーもないただの音、されどただならぬ美声に乗客たちは感激し、我も我もと彼の小さな手に小銭を握らせ、ポケットには紙幣がねじ込まれる。
 これで無賃乗車は免れた。どころか、通常なら大道芸人など放り出そうと躍起になる運転手までが、運賃はいらないよ、と言ってくれた。

 ソ# の声を絶やさずに、どうにかこうにか少年は帰って来た。教会の正面入口が日常的に開いていて助かったと、アントンが身廊に一歩踏み入れるや、ふしぎなワルツが……?
「ああ! 何てこと!」
 アントンは驚愕の悲鳴を上げた。

 自在に歌い踊りまくる音符たちによって、荘厳な秘曲は華麗なるウィンナワルツに変貌を遂げているではないか。
 説教壇で偉そうにタクトをとっているのは、
Ein Strahl(アイン シュトラール)のタイトル文字。さっき、逃げ出した2個の音符を楽譜に吹き戻したつもりで、逆に奴らをまたまた宙に散らしてしまったか? 

 しかしながらあまりに見事な彼らのワルツぶり。アントンも# を抱えていた陽気さが手伝って、つい身体をスウィングしてしまう。そしてとうとう我慢できずにピアノに向かい、伴奏とソプラノパートを調子良く弾き語る。
「ひーかりぃよ、わーたしぃのゆっめよー、消っえないでー」
 軽快なワルツは天才少年の手により、やがてビートの効いたジャズへと転じ──、

「アント~ン 」
 そこで地獄の底から響き渡る厳格な声。

 少年は我に返った。神父だ! こんな事態を目撃されたら異端審判ものだぞ。
「みんな戻って!」

 ズンチャチャ、ズンチャチャチャ! 

 らちがあかない。冷静に深呼吸。神父を真似た威厳に満ちた声色で……。と、ドアが開く! 
「みなの者! 楽譜に戻れ!」
 少年の一喝で、音符たちはびゅうと元の鞘に収まった。

「こら! アントン。神聖なる場所でよくもふざけた音楽を……、おや?」
 騒動の痕跡はなく、果たして空耳だったか? と、若い神父は首を傾げた。


「ああ、これで元どおりの生活だね」
「楽しかったなあ! アントンさまさま!」
「だけど、もうじき閉じられちゃうんだよ?」
「そしたら今度はいつになるのかなあ。光の中で輝けるのは」
「でも、わたしたちは歌われ続けるんだから、その度に輝けるってことじゃないの?」
「おや? # がまだだよ。おい、# ! 戻って来いよ!」

 音符たちのつぶやきが、アントンの心に直に伝わってくる。これはどういうこと? 自分はどこにいる? 身動きが全く取れないのはどうしたわけか? 

「アントンの奴、門外不出の大切な楽譜を放ったらかしにしおって」

 ぐお~んぐおんと、大聖堂の大鐘の真下にいるような響きの、恐ろしく太く低い神父の声。

「しかしまあ、暗譜はすませた、ということか」

 神父が譜面を覗き込む。まるで巨人に見えるその姿に、アントンは初めて自分がどこに居るのか理解した。音符たちに引き込まれ、楽譜に一緒に収まってしまったんだ! 
 神父がこちらに手を伸ばしてくる。楽譜を閉じられたらおしまいだ!

「神父さま! ぼくはここです!」

 永遠に、あるいは何十年か先まで? 修道院の書庫の暗闇に閉じ込められちゃう!? 
 楽譜挟みが神父によってそっと閉じられる。視界が一気に暗くなる。

── マリアさま! ──

 そのときだった。

 誰かが神父の鼻をコチョコチョとくすぐった。
「は……」
 街中を飛び回っていた、あのいたずらっ子の# が!
「はあーっくしょおん!」

 ものすごい風圧の衝撃をまともにくらい、アントンはかがんだ神父の頭上を飛び越え、ドーム内部をウルトラ宙返り。神父の黒衣の長い裾の間をすり抜けて、グランドピアノの下に滑り込み、見事に着地を決めた。
「アントン!」
 怒りを押し殺した神父の声も懐かしい。
「そんなところで隠れんぼかね!」

 心の底から安堵した少年は、かの# 殿に、心の底から感謝した。

「神聖な秘曲を前に、何たる嘆かわしい態度だろうねえ?」

 説教の声色が、どこか本気でないようで、仕方なしに叱っているように聞こえるのは、声のトーンが明るいせい? アントンは目を見張った。

── 神父のおでこに ──。

 # が貼り付いてる! 
 アントンは震えながら笑いをこらえ、威厳を保とうにも、どうにも調子が出ない様子の神父の説教に何とか耐え抜くのだった。


   けれど光は消えゆく
   別れを告げる青春のごとく、はかなげに
   深い愛情を、あとに残して

 中世の装飾写本や古文書といった、人類の計り知れない遺産の宝庫である蔵書室には、全くの静寂が保たれていた。
 しかしひとたび音符たちの想いを知ってしまったアントンには、彼らのひそやかなつぶやきや、楽しげなおしゃべりが聞こえてくるようだった。

「楽しかったよ。ありがとね」

 少年の手で楽譜は書棚に戻され、いたずらな# には永遠の自由が与えられた。ソロパートの一ヵ所だけ、アントン自身が歌う時に# をつけて、半音上げればすむことなのだ。
 少年は思いを巡らした。 
 今は厳格な神父の額に収まっているけれど、いたずらな# のこと、きっとそのうち教会を飛び出し、今度は船か飛行機で、それとも雲かそよ風に乗って、どこか遥かな遠い世界へ、見知らぬ誰かの心の中に、幸せをふりまきにゆくんだろうなと。

                      Ende


「#ないたずらっ子」テーマ曲のピアノ・ソロ版です。
 劇中では、「作者不詳の合唱曲」という設定の、オリジナルですが、ありがたいことに、ウィーンのカフェで弾かれていた時期もありました。ピアニストによると、シューマン風ですね、と言われたこともあったそうです。
 ごくシンプルな曲ですので、ご興味ありましたら、是非お気軽に奏でてみて頂けますと嬉しいです♪




 

 

 

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