見出し画像

「オケバトル!」 90. シューマニアーナの正義


90.シューマニアーナの正義



「無難なんだよね」という非難の言葉をキーワードに、有出絃人は全てが罠であったと気づき、この恐るべき仕掛け人、森脇遊に思い切り調子を合わせてやることにする。
「無難な正統派が売りの森脇遊その人に、そんな風に言われたくありませんね!」
 という生意気な文句を、今度こそは呑み込まずに容赦なく言い放つ。温厚派の多いAチームの仲間は、
ぎゃ〜、有出〜、なんて事言うんでしょう〜と、ハラハラするばかり。
「無難は、無難でしかない。それでおしまい。正統派っていうのとはニュアンス違うんだがね」
 森脇は有出の突っ込みを皮肉っぽくかわしてから、
「きみ、この曲を振るおつもりなんですよね?」
「遊さんが弾いて下さるのなら」
 ちょっと首を傾げてから、森脇はパッと言った。
「交代しましょ!」
「えっ!?」
「僕、指揮するから絃人くん、弾いてよね」
「無難とかって文句つけといて、弾かせるんですか? 僕、自分のスタイル変える気なんてありませんからね」
 後輩の生意気な態度に呆れたように、森脇は恐ろしく低い声でリハ室の外に出るよう絃人に告げた。
「お待ち下さい!」
 立ち上がって止めに入ったのは、一喝おやじことトランペットの上之忠司であった。
「今、我々は、たとえ実際のソリストを迎える前の軽い音合わせとしても、絃人さんの信じがたい最高のピアノに、心から感動してたんですよ。たとえこんな地下のリハ室で、セミコンのピアノでさえ、素晴らしい音を引き出して、シューマンのこの協奏曲を最高レベルにまで輝かせて。はっきり言って、彼以上にこの曲を弾けるピアニストなんて、この世に存在しないんじゃないかとさえ思えるほどの。それをまあ、よくもまあ、『無難』だなんて、言えたもんですな」

 チーム全員がそうだそうだと、拍手で賛同する。
 しかし森脇は全く聞いていないかのように、どこ吹く風。
「Aは代表が演説ね」と、誰にも聞こえない独り言をつぶやき、脳内のメモ欄に留めておく。

—- 森脇遊の 脳内 得点表 —-

A 上之(演説)  50
B 多岐川(立ち塞がり) 30
  別所(有出引き抜きの事情説明) 20
  チーム得点(全員なだれ込み)40


「外へ。外野、うるさいし」
 森脇に再び促され、有出は皆に残りの曲も合わせておくよう告げてから、先輩ピアニストに続いてリハーサル室を出て、ドアを閉めてしまう。
 例によって、ドスンバタンと不穏な衝撃が聞こえ始めたところで、撮影隊が付いてこないよう釘を刺した上で外に出る。
 そこでAチームにおける陰の支配者ことトロンボーンの安条弘喜が、私にお任せあれとばかりにさっと手をあげ、ドアを僅かに開けて隙間から様子を伺う。側に居たパーカッションの平石昇も、その下から顔を覗かせる。

「きみが弾くべきだ」
「でも、ヴァイオリン協奏曲も弾くんですし、シンフォニーの指揮だって。そもそもピアニストって身分でもないですし」
「何バカなこと言ってるんだ!」
 森脇は壁を激しく叩いて怒って見せる。
「モーツァルトだって! ベートーヴェンだって! 弦楽器もピアノも、指揮だって、プロの音楽家として、当然のごとく何でもこなしてるんだ! できる者が両方弾いて、指揮もこなせて何が悪いっ!」
「でも僕、この曲で最高の演奏ができる遊さんに弾いて欲しいんですけどね」
「二度と言うんじゃない」
 今度は冷たい声でぴしゃり。それから少し穏やか口調で本音を語る。
「チャンスが訪れたら本気で掴め。たとえ不利な状況であろうとも。絶対に手放しちゃダメだ。絶対に」
 ヤラセではなく、心からの本音であった。
「いいか? 良く聴け。優秀な先輩や才能ある後輩がいようと、誰かに譲ろうなんて甘い考えはダメだ。きみが自由にやれるよう、あえてチームから外したんだ。オケと共演できる協奏曲なら、尚更だ」
「分かりました」
 絃人は覚悟を決めた。
「遊さんが振って下さるなら」
「まあ、振りますとも。きみが弾くなら。だけど」
 しっかり念を押しておく。
「たとえ僕が振らなくても、何が何でも弾く覚悟で挑まなきゃ、絶対にダメなんだからね!」
 それから森脇はリハーサル室のドアをチラッと見やり、
「Aは覗き見だけなのね」と、ぼそり。
 Bは皆でなだれ込んで来たんだが。
 お二人さんに5ポイントずつってことかなと、得点配分に想いを馳せるのだった。



「天使が歌ってくれた主題でね。この世のものと思えないほど美しい声で。それはシューベルトとの語らいの中で、彼がもたらしてくれた贈り物なんだ」

 敬愛するシューベルトとの夢の中で会話。
 ロベルト・シューマンと、おしまいにしっかり署名した、シューマン最期の作品とされる〈天使の主題に基づく五つの変奏曲〉。

 シューベルトも迎えに来てくれている。僕は静かに去りゆくから、きみはヨハネスと明るい将来を幸せに築いておくれ。

 そんな想いも込められていたであろう、最愛の妻クララに捧げられたこの曲は、しかしクララによって封印される。
 この主題、天使やシューベルトからの贈り物なんかじゃなくて、少し前に自分が作曲したヴァイオリン協奏曲の第2楽章に出てくるテーマと同じじゃないの、と。
 しかし作曲家が気に入ったテーマを異なる曲に使い回すのは良くあることで、亡き作曲家との語らいや精霊の歌声といった概念も、ドイツ・ロマン派では日常に溶け込んでいるはずなのに、クララは夫の精神がおかしくなりつつあると世間に思われてしまうことを危惧するばかりで、少しでもそうした兆候のありそうな作品は、ことごとく封印、あるいは事もあろうか処分してしまう。

 ヴァイオリン協奏曲 ニ短調は、シューマンの晩年に2週間足らずで書き上げられた作品である。
 この曲を捧げられた友人のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムとクララのピアノによって、シューマンの前で私的に奏されるも、クララは気に入らず、
「私の為に最終楽章をもっと壮大に改作して欲しい」
 と、ヨアヒムに依頼する。しかし多忙を極めていたヨアヒムは手をつけられないまま放置してしまう。難曲でありながら、さほど華やかな演奏効果をもたらさないという理由もあったようだ。
 シューマン亡き後、クララは、
「決して公にすべきでない作品。破いて棄てたいので草稿は返してもらいたい」
 とさえ語っていた。
 幸いなことに草稿がクララの魔手に渡ることなく、ヨアヒム亡き後、遺言で草稿はベルリンの国立図書館に寄贈、そのまま世間から忘れ去られることになる。
 発見されたのは1937年のこと。ヨアヒムを大伯父とする女性ヴァイオリニストによって翌年、初演にこぎつける。完成から80年以上も経てのことであった。


 舞台中央のピアノから少し離れて立ち、有出絃人は砂男が貸してくれたストラディヴァリを構え、第2楽章のソロ、天使の主題を奏で始めるや、完全に現実世界からかけ離れた宇宙の彼方へ放り出された感覚に陥った。上下左右も分からない無重力空間で、この世には存在し得ない、聴いたこともないような美しく透きとおった響きの歌声に包まれて。
 テーマだけ弾き終えるところで何とか足を踏ん張って、離脱した意識と共に元の舞台に戻って来た感覚をつかむが、訳も分からずあふれる涙を拭うこともできなかった。

 我に返ったのは、ベーゼンドルファーが同じテーマを静かに奏で始めた時。
 森脇遊が、〈天使の主題の五つの変奏曲〉の終曲を、さらさらと静かに弾いている。
「この曲の最後って、いつの間にか終わるって感じで、あれ? 本当に終わってしまうの? って、終わり方なんだよね」
「あまりにも自然に消えゆくので、まだ続きがあると物語っているようですしね」
 現実世界に半ば意識を取り戻しつつある絃人も夢見る調子で口を開く。
 このピアノ曲、そしてヴァイオリン協奏曲。晩年のシューマンに2人でしばし想いを馳せ、
「邪魔して悪かった」
 と、森脇は立ち上がった。
「存分に好きなだけ弾くといい」
「いえ、邪魔したのは自分でした。収録、されますよね?」
「音響さんを丸一日拘束しちゃ悪いんで、僕の方はもう終了」
「良かったら合わせて頂けませんか?」
 後輩の素直な提案に、先輩は満面の笑みで再びピアノに向き合い、冒頭のオーケストラパートは省略して、
「ソロが入るとこからどうぞ」

 Bチームの仲間の前での、あのねちっこい弾き方の提案すら意地悪な審査員を装うヤラセであったことを、今となっては絃人も分かっていたし、伸びやかに気持ち良く奏することができた。
 とはいえ、この名器を自在に操れるようになるまでは時間も必要だ。
 素晴らしすぎる音の響きに、いちいち感動して、気が動転していては身も心も持たなかろう。楽器に自分が弾かされるのではなく、自ら弾きこなす器の大きさ、懐の深さも意識して。常に自然体で楽器を奏でてきた絃人にとって、そんな経験は初めてであった。

「多分、話すべきなんだろうな」

 ヴァイオリンの音色に魅了されすぎて、流れる涙も拭わない絃人の様子に、森脇は軽くため息をついて、このストラディヴァリウスに秘められた物語と愛称「ホフマン」の由来を打ち明けることにした。



シューマン・バトル プログラム

マチネ公演 Aチーム

1.交響曲 第3番 変ホ長調〈ライン〉第1楽章
                Cond.有出
2.① 協奏曲断章 ニ短調    Pf.森脇 Cond.有出
 ② 献呈 Sop.アントーニア Pf.森脇
3.ピアノ五重奏曲 第1楽章  Vn.浅田、稲垣
              Va.鈴華 Vc.白城
              Pf. 有出      
4.ピアノ協麦曲 イ短調   Pf.有出   Cond.森脇

ソワレ公演 Bチーム

1.ヴァイオリン協麦曲 ニ短調 第1楽章
            Vn.有出 Cond.森脇
2.① 交響曲 第2番 ハ長調     Cond.有出
 ② アンコール(弦楽アンサンブル)


 選曲に割当てられた初日の段階で既に、各自が本格的に音出しもして大方仕上げておけたので、翌日の舞台でのゲネプロは、かなり余裕をもって問題もなくスムーズに進行できた両チーム。
 いよいよ迎えた三日目の本番。Aチームによる昼公演では、ライバルチーム全員に加え、番組、及び施設の手空きスタッフらも客席に集い、中々本格的な雰囲気が作られていた。

 ソロを受け持つ協奏曲以外は基本、有出絃人が指揮をし、シューマン・コンサートのオープニングを飾る〈ライン〉も当然のごとく、さっそうとタクトをとる。
〈ライン〉の呼称は、作曲家本人によるものではなく、ライン河を全面に讃えた内容でもないのだが、デュッセルドルフの劇場の音楽監督という新たな職を得たシューマンが、ライン地方への旅と、新生活への意欲が契機となり、雄大な自然の光景に、荘厳さ、崇高さがあふれた壮大な作品となっている。
 選曲の折に森脇遊氏が語っていたように、このAチームとBチームでは、演奏が全く異なっていたであろう。同じ指揮者が振ろうとも。

 チームの実力を最大限に引き出す。

 これが有出絃人、個人に課せられた課題であった。
 Aチームにしか成し遂げられないこと。Aだからこそ可能なこと。そして彼らが気づいていないチームの魅力。
 その為に彼が昨日の舞台リハーサルでしたことは......、
「最初の音だけロングトーンで、しばらく続けます」
 え〜? 今さら基礎練っぽいことするんですかあ? 
 というのが不満に満ちた皆の感想。
「自分の音だけでなく、この全合奏がホールに響き渡たりつつ、自分の胸に共鳴するまで、自身が楽器となって共鳴する、そうした感覚が得られるまで」
 しばらく続け、では次の音、いきます。といった具合に、この曲の冒頭をゆっくりじっくり奏していく。
 どうです? では、少し早めて。では、インテンポで。と、絃人は辛抱強く続けた上で、
「この素晴らしいテーマが大聖堂に鳴り渡るような、奏者も聴き手も、音楽そのものが胸に共鳴するような感覚、おしまいまで保って下さいね」
 それだけで事は足りた。
 こんな事をされたら、金管がフォルテシモで高らかに鳴り渡るようなところでも、ただ派手に鳴らすのではなく、崇高な感覚で歌いあげようという意識が自然と生まれてくるものだから。

 かくして第1楽章のみとはいえ、この曲に描かれたシューマンの想いに少しでも近づけたのではないかと、指揮者もチームも手応えを掴み、最高の演奏を披露することができたのだった。

 ゲストの森脇遊氏を含む3人の審査員に、番組スタッフ、クラシック音楽にさほど馴染みのない施設スタッフなども、素晴らしい曲ではないか! と、改めて感動する。

 森脇遊というピアニストは、有出絃人同様、呼吸のように自然に奏せるタイプなので、わざわざ袖で集中する必要もなく、舞台にベーゼンドルファーが設置される間も、審査員席でマイクはオフにした上で雑談をしていた。
 製作総指揮にして審査委員長の長岡幹とも、作家で音楽評論家である青井杏香とも、久々に会うも旧知の仲。このバトルの行く末や、参加のバトラー個人についてなど、話が尽きることもない。
 ピアノに合わせての、オーケストラのチューニングが終わった頃合いを見計らって、森脇は、審査員2人にさっと敬礼し、客席からそのまま舞台に向かってゆるい階段を下り、舞台への木製のステップを上がり、隅にいた指揮の有出絃人と握手を交わしてから一緒に一礼。今回コンサートマスターを務める稲垣を筆頭に、舞台のAチームも拍手で温かく2人を迎えゆく。
 ぶーぶー、ふーふー言いながらも慣れない写譜をこなしたが故に、未知なる曲でも親しみと共に取り組めた協奏曲断章。
 愛するクララとの結婚の前年、演奏旅行でパリに滞在していた彼女を想いつつ、ウィーンにて短期間手がけるも、第1楽章のみで中断してしまった曲である。シューマン没後30年も経て、音楽学者のピアニストの手により補筆、単一楽章として完成された。
 このような事情からも、滅多に演奏されることはなく、映像も巷に出回ってはおらず、番組としても画期的な選曲として意欲的に収録していた。番組の放送終了後は、全ての演奏が動画配信されるのだから。
 強烈な全合奏が5回。非常に印象的で、ひとたび聴いたら決して忘れられない「タララララン!」という音型が、変幻自在に表情を変えながら永遠のごとく繰り返される。圧倒的すぎるほど情熱的に、本当にロマン派時代の曲? と思えるほど甘くロマンティックに。
 森脇遊のピアノは癖がなく、パフォーマンス的な無駄な動きも見せず、楽曲そのものの魅力を最大限に聴かせてくれる数少ないピアニストの1人である。それは有出絃人も同様で、指揮とピアノ、どちらを交換しても同じ演奏になるのではないかと思えるほど、2人は表現力も呼吸も完全に一致しているようだった。
 ひたすらロマンティックな流れが、やがて冒頭の深刻な空気が回想されるや、あっさりと終わりゆく。願わくば、この後にあと2つの楽章が付けられていたら、さぞかし名曲として音楽史に残ったであろうと惜しまれる。
 演奏を終えるや、珍しくチームの大方からほうっとため息が漏れる。全員がかなり集中していたようだ。有出と森脇は感動の握手を交わし、2人が仲良く袖に引っ込んでから、続いて森脇がアントーニア嬢をエスコートして現れた。

 シューマンが結婚前夜に愛妻クララにプレゼントした、究極の愛の贈り物。歌曲集《ミルテの花》より第1曲〈献呈〉は、短いピアノ協奏曲の、アンコール的に歌われた。
 この可憐な少女の驚異的な歌唱力、天性の愛らしさに、誰もが心の底から感動する。伴奏の森脇は、いとも鮮やか軽やかに彼女を支え、ピアノの魅力も最大限に活かされているシューマンの歌曲の特徴を丁寧に伝えゆく。

 客席でBの仲間と聴いていた浜野亨は、いてもたってもいられずに、下手の舞台袖にすっ飛んでいきたい衝動にかられたが、舞台はまだ続くし仲間の手前、不審な行動は慎むことにする。
 ああ、花束を用意しておきたかったなあ!

 客席前方で孫娘の歌を幸せそうに聴いていた砂男さんが舞台に飛び乗り、ピアノの調律をさらっと確認し、お次はピアノ五重奏。
 弦楽器4名分の椅子が並べられ、ピアノには譜面台が設置され、今回出番の全くないパーカッションの平石昇が譜めくり役で、ピアニストの楽譜を携えて先に登場する。
 弦楽メンバーは、いつも仲間と親しんでいて呼吸のように弾けると、速攻で名乗りを上げた3人、ヴァイオリンの浅田、稲垣に、チェロの白城。有志の現れなかったヴィオラは、ジャンケンでうっかり勝ってしまった紅一点の女性。かつてハメルン舞踏会で、白城と組んで素敵なダンスやヴィオラの演奏を披露してくれたものの、名前もろくに名乗らず陰の存在でありたがっていた謎の「すずか嬢」である。
 どうしても出来ないと抵抗し、何か表だってはならない事情でもあるのか、ではなぜバトルに参加しているのかと、彼女のルームメイトのホルンさんに尋ねるも、さあ? と首を傾げるばかり。理由が言えないなら、表舞台に出てもらいましょうと、容赦なく引っ張り出されてしまったヴィオラ嬢。実力はまあ、ヨーロッパ的センスやリズム感はあるものの、どうにかこうにか精鋭部隊の仲間の足を引っ張らない程度で、可もなく不可もなく。

 室内楽曲を書くよう F.リストから勧められていたシューマンは、いざ描き始めると、これまでの歌曲の年、交響曲の年と、ジャンル集中型の例に漏れず、次から次へと室内楽の傑作を生み出していった。その中でも最高傑作のピアノ五重奏曲は、有出絃人の見事すぎるピアノに、弦の一同がしっかり応え、素晴らしい盛り上がりをみせるのだった。

 そしていよいよメインのピアノ協奏曲。
 ここでの主役はソリストの有出絃人であり、指揮の森脇遊は、あくまでもサポートとしての参加であった。なので昨日のゲネプロでも、指揮はただ拍子をとるのみに徹し、細かな注意点や音作りはソリストが仕切っていった。
 ロマン派ピアノ協奏曲の女王とも称されるこの曲を、Aチームならではの演奏で仕上げるべく、絃人が配慮したのは、やはり〈ライン〉の時と同様、彼らに欠けていた魅惑的な音の色艶、繊細な呼吸のニュアンスを引き出すことであった。それは冒頭の哀愁あるオーボエに始まる各々の楽器のソロや、全合奏での透明ながら美しく輝く、豊かな響きなど。
 有出絃人のピアノは、鋭くしっかり硬質でありながら、宝石のような輝きが特徴で、冒頭の激しい連打からして、かなり力強い胸のすくような打鍵でも、すっきりと心地良く、そして美しいのだ。加えて何とも自然な抒情性に、余計な自己主張が一切ない為、楽曲そのものが持つメッセージが明確に伝わってくる。
 後は指揮者とオケとソリストが、ある時は語り合い、ある時は心ひとつに呼吸を合わせ、シューマン独自の見事な手腕を最大限に活かし、そこから紡ぎ出される幻想世界を素直に奏でゆくだけであった。

 夢のような素晴らしい世界がホール全体に広がりゆくも、やがては終わりの時がくる。本当に華やかで幸せなエンディングに、観客の多くは思わず歓声を上げて立ち上がる。
 指揮者とソリストは互いを称え合い、握手と抱擁を交わし、森脇は後輩の成長ぶりに感極まって涙ぐみ、平静ではいられない模様。
 客席、及び仲間や指揮者からアンコールを促された絃人が、さっとピアノに向かうや、ようやく静寂が訪れた。

《交響的練習曲》Op.13 より、遺作として添えられている第5曲。練習曲の一部として作曲されたものの、主題との関連性が曖昧であったことから、独立した作品としてシューマンがとらえた為、出版にあたっては排除された。最近では本編に織り交ぜて演奏されることも多い、緩やかな下降音型の大変美しい、煌めく宝石のようなピアノの小品である。
 夢から目覚めたように絃人が弾き終え、再び鳴り止まない拍手が続く。
 演奏会形式ということもあって、客席の照明が明るくされたところで、コンサートマスターが立ち上がり、舞台のオケメンバーも続き、全員で一礼。ようやくマチネ公演は終演となる。

 Aチーム、色んな曲で大変そうでしたね! プログラム、変えてもらって、かえって良かったかもねー。なんて感想を抱きつつ、Bの面々は夜の本番まで、皆で集まることもなく、落ち着かない数時間を過ごしていく。
 大活躍の有出絃人も、もはや練習もせず、スコアを眺めることもせず、いったんは自室のベッドにばったりうつ伏せに倒れ込み、しばし意識を失うのだった。


 気合いも新たにBチームが舞台袖に集合した時は、絃人をはじめ、皆がきりっと別人のように気を引き締めていた。
 指揮棒を持つ森脇遊も念願のヴァイオリン協奏曲に大いに張り切り、名器「ホフマン」を携えた有出絃人と深く頷き合って、重厚な冒頭を始めゆく。
 出だしから、Bチームの音はこの曲が持つ特有の渋みが効いているようで、これまでの表面的な軽快さ、明るさとは打って変わって、何か深い意思の強さといった主張が伝わってくるのだった。
 森脇と有出は初日の夜、ピアノの置かれた舞台を利用して、共演の曲はすっかり合わせていた上に、そもそも音楽性が完全に一致する種族であった為、昼間のピアノ協奏曲同様、息もぴったりで見事に協奏曲を響かせてくれた。
 オーケストラの面々は、昨夜のゲネプロにて、新たに登場したストラディヴァリの素晴らしい音を既に体験していたが、2人のレギュラー審査員や、客席のAチーム、及びスタッフ陣は、有出絃人の奏でる尋常ならぬ音に度肝を抜かれた。
 あたかもヴァイオリンが勝手に、高らかに歌っているような。
 それでも奏者は有出絃人、その人であり、もはやカリスマレベルを超えた、超人天才級のソリストに見えてくる。ひけらかしが一切ないからこそ、特別な才能と魅力を備えている本物で、ピアニスト有出絃人と、ヴァイオリニスト有出絃人は、信じ難くも紛れもなく、あっぱれ同一人物なのだ。
 この協奏曲を世間に広く知らしめたかった指揮の森脇も大いに満足し、たとえ第1楽章のみであろうと、涙ながらの握手と抱擁で、感激を全身で表して、ソリストと、しっかり応えたオーケストラを讃えるのだった。
 ピアノ協奏曲の時と同様に、絃人は周囲からアンコールを促されるも、第1楽章だけだったこともあり、何か一曲というより、本当に軽めのテーマの断片のみ、さらりと奏でることにする。
 しかしそれは非常に胸を打たれるテーマであり、森脇は分かっていても、危うく大泣きをするところであった。

 天使の主題。
 このヴァイオリン協奏曲の第2楽章でオーケストラに導かれたソロヴァイオリンが奏でる静かで美しいメロディーだ。

 休憩なしの1時間プログラムで、切り替える間もなく、有出絃人はヴァイオリンから今度はタクトに持ち替え、森脇遊は審査員席に戻りゆく。
 交響曲第2番は、初日に絃人がしっかり方向づけたように、Bチーム全員、彼らの深い懐から生まれ出てくる、大地に根差した骨太の音楽となって語られていった。それこそがシューマンの交響曲であり、Bチームこそが表現できる世界であった。
 40分間の演奏は深い感激と共に結ばれるが、感動はこれで終わりではなかった。
 有出絃人がアンコール用に選んだ曲は、マチネ公演から続くシューマンの世界を静かに、そして穏やかにまとめゆく、シューマニアーナからの特別な贈り物。
 シューマンがクララの誕生日に、サプライズで娘のマリーと連弾で初めて披露した子どものための連弾曲〈夕べの歌〉。これをノルウェーの作曲家、スヴェンセンが大変美しく、弦楽器の透明な響きを活かしてアレンジしたものである。
 絃人は指揮をせず、コンサートマスターの別所を始めとする弦楽器のメンバーに演奏を委ねた。
 聴いているだけで誰もが涙ぐんでしまう演奏だった。
 これほどまでに神聖な時間は滅多に経験できないこと。永遠の時のように思える静寂は、やがて静かに湧き起こる拍手で破られる。
 審査員席から立ち上がった森脇遊氏は、客席の通路を早足で舞台の下手に向かって下りて行った。そして袖に佇む有出絃人に両腕を広げて抱きついた。
 一瞬ひるんだ絃人であったが、先輩が泣いて感激している様子に、クールな拒絶男も流石に胸が熱くなる。

「もはや講評なんて必要なかろう」
 涙ながらの長岡委員長。
「引き分けね。両チーム共に最高だったので」

 わあっと、客席、及び舞台のバトラーたちから有出絃人を称賛する歓声と拍手が上がる。誰もが彼の実力と貢献を素直に認めていたので。

 だけど審査員どうしの審議もなしに、勝手に決めちゃうの? 森脇さんて結局、何も審査してないのでは? 彼、一応ゲスト審査員、なんですよね?
 と、不思議がる面々も多少はいたが、森脇は全く気にしてないご様子で、審査員席には戻らず誇らしげに舞台の下手で有出に寄り添っている。
 そこへ休日以来、姿を見せていなかった宮永鈴音が、司会として下手からいきなり登場してくる。
「となると、有出絃人さんの完全なる勝利ってことですか?」
 かつて森脇遊に、こっぴどく叱られた経緯の気まずさから、今回は顔を合わせずに済むようディレクターの許可をとりつけ、極力なりを潜めていたのだった。
「ああ。1000点満点だから、もう誰も追いつけまいね」
 長岡の返事に鈴音が補足。
「オケマイスターまっしぐら。というわけですね」
 さらに声を張り上げ、いつもの宮永モードにもってゆく。しっとりした〈夕べの歌〉の崇高な雰囲気はザンネン、ここで完全に破壊された。
「皆さーん、両チームを率いて、ピアノとヴァイオリンのソリスト、そして指揮も務めた素晴らしいアドバイザー、有出絃人さんに、盛大な拍手を!」
 司会に乗せられ、再びわあっとなりかけたところで、当の絃人が待ったをかけるように手を挙げて遮った。

「僕、辞退します」

 しいん。
 会場全体が凍りつく。

「その得点、ナシでいいです。その代わり条件が」
「きみねえ、条件を出せる立場じゃないんだけどねえ」
 長岡が呆れて言うも、お構いなしに絃人は続ける。
「番組のテーマ曲、今回のシューマンの回からで良いですし、場合によってはシューマンの回だけでも良いので、シューマンの曲を流して欲しいんです」
 絃人の脇に佇んでいた森脇が、うっと下を向いて両手で顔を覆った。
「オープニングは〈ライン〉。エンディングは〈夕べの歌〉で」
 森脇は顔を覆ったまま肩を震わせている。思いがけずの感激のあまり泣いているのだろう。
「素敵な提案じゃないですか」
 青井杏香が優しく賛同する。
「途中変更だって、新鮮でいいと思いますよ」
「いや、しかし」
 長岡はうろたえながら、どうにか続けた。
「なんだって、そういった発想になるんだね?」
「筋金入りシューマニアーナが、もっとシューマンを世間に知って欲しいってことですよ。世間に対して、勝利の立場を返上してでも、シューマニアーナとしての正義を貫きたいわけですよ」
 的を射た杏香の説明に、まだ混乱している長岡が、しみじみと語る。
「ヴァイオリンとピアノ、どちらの協奏曲でも、この名演が放送された暁には、有出絃人に世界中からオファーが殺到するんだろうな」
「なら、いいじゃないですか」
 いえいえ、まさかそんなあ......、などと謙遜したりせず、絃人はさらりと言い切った。
「そもそも、オケマイスターの称号が欲しくて参加したわけじゃないですし、得点なんて僕、どうでもいいんです」
 本音、オーケストラの一員としてバトリたかっただけなんですがね。なんて続けたら仲間に失礼になりそうなので、やめておく。
「優勝は得られずとも、このバトルで得るものは大きいですから」
 そこでイヤホンで指令を受けた宮永鈴音が声高に告げた。
「ゴーサイン! ディレクターからオーケー、出ました!」
「いや、ディレクターって。そうした権限はプロデューサーである私にだね」
「いいじゃありませんか」
 うろたえる長岡を杏香が明るくなだめる。
「どのみち許可されるのでしょう?」
「う〜、う〜」
 頭を抱えてうめきながら長岡が続ける。
「ラ、〈ライン〉冒頭は番組オープニングに、確かにいいかも。だが、エンディングは考えさせてもらうよ」
「じゃあ、採用ってことですね!?」と、司会。
「ピアノ協奏曲のラストが華やかでいいだろう」
「できれば、どちらのチームも公平に取り上げて頂けたらと。引き分けだったんですし」
 絃人が念を押しておく。
「きみねえ、何様のつもりかね? 図々しくないかね?」
「エンディングは、いくつか用意しておいて、ラストシーンに合わせてチェンジしても良いのでは?」
 青井杏香が優しく長岡をなだめる。
「しっとり終わる回や、勢いよく派手に終わる回、各々変えればいいんですよ」
 客席から、そして舞台から、拍手が自然と湧き起こる。パラパラと、次第に満場の拍手となって、正義を貫く有出絃人と、それを受け入れる番組側の粋な心意気を讃えゆく。

 
「きみが断トツ独走状態でオケマイスターを獲得できるよう、策略をめぐらしたってのに」
 落ち着きを取り戻した森脇が小声で絃人にぶつくさ言った。
「断トツキープで個人戦に入るより、勝ち残った者どうし、足並みそろえて公平に挑みたいです」
 当の絃人はどこ吹く風。
「森脇さん? ゲスト審査員として、何かひと言おっしゃって頂けますか?」
 鈴音にマイクを向けられた森脇は、有出絃人を見やってから、参りましたとばかりに額に手を当てて呟いた。
「トゥシェ……」




91.「命取りのてんまつ」に続く...

※次週は旅のレポートを投稿にて、「オケバトル」は1週お休み。翌々週3 / 8 公開致します。

♪ Bチームによるアンコール曲のイメージ ♪

 シューマン〈タベの歌〉
 ヨハン・スヴェンセン編曲による弦楽合奏編

Schumann: Abendlied op. 85 Nr. 12
Arr. Johan S. Svendson
Festival Strings Lucerne
Daniel Dodds

https://youtu.be/wLCntDpNmSU?si=KTeJDJQRn7n2I2fG



次週(3 / 1)予告

「三姉妹のWミステリー・ツアー」
  ひた隠しにされた謎の目的地と、
  情熱の恋を貫いた祖母の謎を巡る旅

Q. 果たして此処はどこでしょう?



※ コメント欄に今回シューマニアーナに届いた不思議な贈り物の話が添えてあります。
よろしかったら♪♪

シューマンピアノ曲全集


いいなと思ったら応援しよう!