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「オケバトル!」 89. シューマニアーナの試練
89.シューマニアーナの試練
「リハーサルは仕切らせてもらうとして、結局、指揮はどうなります? 谷内さん、出番どうされますか?」
新たなゲスト審査員、森脇遊の周到な計略によって、今回のシューマン・バトルで理不尽にチームから外された有出絃人。
逆にアドバイザーとして、両チームとも自由に仕切れ、本人やチームの意向次第ではソリストや指揮で参加も可能という美味しい立場を得た上で、頼まれなくても実は振る気満々でありながらの、建前質問であった。
いずれの曲に出番はないものの、周囲への遠慮もあって、実はまだ立ち位置を考えてなかった呑気なパーカッション女性に代わって、
「彼女にはコンチェルトの方で、ティンパニ叩いてもらいます」
打楽器先輩格のティンパニ男性が答えてやる。
複雑なシューマンの交響曲や馴染みのない協奏曲で、彼女が慣れない指揮を務めてチーム全体が崩壊しかねないとしたら、一曲だけでも良いからティンパニの座を明け渡すのも悪くなかろうとの配慮から。
シューマンのヴァイオリン協奏曲が、全然知らない曲であったことはひた隠しにして。
打楽器奏者にとって未知なる曲は、かなり危険。何しろ譜面は殆ど白紙に近いくらいスカスカで、ところどころに小節数がまとめて書かれている程度。拍子をひたすら必死で数え続けるのも厄介だし、落ちたり、タイミングを外そうものなんて最悪だ。まあ、謎の現代曲とかではないので、一度でもリハーサルをこなせばコツも掴めるものではあるが。
親切な先輩面で彼女に出番を譲ってやれば、互いにメデタシなのだ。
一曲でも、たとえ知らない曲でも、神聖なる持ち場を明け渡してもらえ、指揮もしなくて済むという、ありがたき気遣いに心から感謝し、谷内みかは先輩と、一同に向かって、任せて下さいと大きくうなずいた。
パーカッショニスト、ティンパニスト、他にもマリンバ奏者など、プロオーケストラの世界で、奏者は完全に区別されているが、打楽器奏者としての経験から、オーケストラの楽曲に出てくる大抵の打楽器はこなせるものだから。
「分かりました。では先に、メインのシンフォニーからいきますか」
「絃人さんが振って下さるんですよね!」
既に仲間の信頼を受け、コンサートマスターの位置に落ち着いていた別所正道から力強い声があがり、皆が口々に声かけと拍手で賛同する。絃人は軽く礼を述べた上で、
「今更ですが、あぶれたホルン1名と、第2、3楽章で出番のないトロンボーン2名は、今や一管編成になってる木管群の補助に回って下さいね。音は各自で後ほど相談して」
結局は何もかも仕切っていく。
「では第3楽章から」
曲は知っていても演奏経験はない者も多く、最初からではなく、途中から音出しを始める意図を掴みかねながらも、とにかくお任せで素直に従うBチーム。
厳かに、ひたすら静かに始まりゆく第3楽章。始終穏やかで深く吸い込まれそうな幻想世界が、多彩に変形しながらゆっくりと流れていく。
奏者にとっても、まさにグサリと心に響いてくるシューマンの語り口に、全員が否応なしに引き込まれてしまう。こんなにも美しく深い緩徐楽章って他にあるだろうかと。非常に効果的なヴァイオリンのヴィブラートで最高潮に達しながら穏やかに沈みゆく。ああ、これこそがロマンティック・シューマンの世界なのだと、誰もが納得する。
息を止めてしまいたいくらいな静けさに満たされて楽章を終え、完全なる静寂に包まれる。余韻が消えかけたたところで、有出絃人は保っていた腕を完全には下ろさず、いきなりさっと振り上げたので、皆がハッと気持ち慌てて勢いのある上昇音階から始まる、次の楽章へと傾れ込んだ。
「第2楽章を」ではなく、「第2楽章から」と言ったところがミソであり、そのまま最終楽章へと入ったわけだが、親切な指揮者であれば、
「アタッカで次の楽章にいきます」と、続けて入る指示を予めしておくものであろうが、絃人はあえてそうせず、コンサートマスターを始めとする一同の反応を見極めたかったわけである。
コンマスの器であり、コンマスをする為に生まれて来たような別所正道は、楽章の終わりで、まだ音が続く中、自らそっと譜をめくり、楽器を構えたままの状態をキープ。慎重に指揮者の動向に注意を向け、アタッカに備えていたのだが、呑気な連中はほうっとため息とともに、楽器を完全に下ろしてしまっていた。
まずはコンマスが楽器を下ろす様子を見届けてから、一行も続くべきなのに! なので少々薄っぺらな始まりとなってしまったが、こうした失態も、いったん体験しておけば二度と起こるまいと、全員が気を引き締めるのだった。
そうしたことも、絃人の狙い。
第4楽章は打って変わって力強い付点のリズムが支配するも、楽曲全体を包む崇高な精神は各楽章に現れてきた主題とともに一貫して流れ続ける。やがてクライマックスの全音符に雄大なフェルマータがかかり、その後の緩やかなまとめの流れの中で、第1楽章から折に触れて現れる崇高なるテーマが顔を出し、この楽章のみならず、この第2交響曲全体をまとめゆく。
最後は堂々たるティンパニに乗せて感動の全合奏で締めくくられるが、ここでティンパニ奏者は、「ここだけはお嬢さまなんぞに譲れるものか。オレさまにしか叩けない領域なのだ」と心の底から実感するのだった。
「これは、作曲家の胸の内とか心情告白、感情の爆発なんて個人レベルものじゃなくて」
今度は完全にタクトを置いた指揮者が静かに語る。
「それこそ、胸じゃなくて、腹の底から沸き起こってくるような」
力強く、こぶしを握って訴える。
「精神とか魂とか、心の叫びとか人間レベルを遥かに超えた、大地に根ざすような深いところから湧き上がってくる音楽なんです」
確かにそうだ。と、実際に奏した際の感動と共に、一同の心に深く刻まれる。
シューマンの魅力を凝縮して伝える為の厳選プログラム。これはシューマンからの贈り物。そして、シューマニアーナ有出絃人としては、おしまいに我々からシューマンに敬意を払っての、格別な贈り物を届けたかった。
「ここでアンコール的にラスト1曲入れたいんですが」
絃人が遠慮がちに切り出した。
「この高揚感を保ちつつも、全てをまとめゆくような、マチネから続くシューマンの世界の全てが落ち着くところに収まりゆく......、といった感じの音楽となると、どうしても......」
「ストリングスってことですかね?」
言いづらそうな空気を察し、フルートの紺埜怜美が穏やかに言ってみた。ため息まじりではあったが、フルートはオーケストラの中では管楽器の代表格で、管楽器のコンサートマスターとしての立場から、有出本人が言い出しにくいことを言って差し上げたのだ。
「はい。管打の方々には申し訳ないんですが」
絃人の言葉に、あーあ、やっぱり最後まで出番、ないのねと、実はがっかりのパーカッション谷内みかも、紺埜怜美にならって優しげな調子で認めて差し上げる。
「いいですよ。落ち着いた弦楽器でまとめるのも。それが最適なんでしたら」
「そうですね。この曲終えての、この、すごい達成感、壊したくないですものね。静かな曲、もう選ばれてるんじゃないですか?」
かつて絃人とAチームで一緒だったトランペットの春日拭子と続き、優しい女性陣に促され、管打楽器の面々も、いいですよ〜。とか、我々もう力尽きちゃったし〜。弦におまかせね〜、などと冗談まじりに賛同する。
「ありがとうございます。じゃあ、後で弦だけで時間とりましょう」
と言ってから、
「できたら審査員にはサプライズにしたいので、曲名、伏せといて下さいね」
と、まだ曲名すら知らせてないのに釘を刺しておく。
このシンフォニーと、ソワレ公演、そしてマチネから続く全プログラムの方向性を先にしっかり見据えた上で、さあ! 意識も新たに第1楽章から取り掛かる。
冒頭のトランペット、ホルン、アルト・トロンボーンの厳かなロングトーン。これは全楽章の随所に顔を出し、ラストまでも締めていく重要なモティーフであることも、最初から理解して奏するのと、初見で譜面をさらっていくのとでは大違い。なるほど。指揮者が途中から先に始めたのも、こうした配慮からであったと、一同も納得、感心しながらリハーサルはスムーズに運ばれた。
「明日も丸1日リハの時間があるし、シンフォニーは充分手応えをつかめたかと。舞台リハの時間も取れるでしょうから、この曲については、今日のところ、後は各自でお願いします」
コンコンコン、と己の楽器や譜面台を軽く叩く拍手が上がったところで、
「休憩ナシですみませんが、すぐに終わりますので、10分間だけ。ヴァイオリン協奏曲、一度通してもらっていいですか?」
はあい。と、再びのコンコンコンで賛同。
「コンマスも含め、編成はこのままでオーケイですね? 言うまでもありませんが、これまでと同様、あぶれた楽器、足りない楽器は互いに上手く補い合って下さいよ」
第1楽章だけとはいえ、シューマンのこのヴァイオリン協奏曲をお披露目できるなんて! しかも第2シンフォニーの前という、中々の組合せではないか! 大いなる幸せに包まれながら、絃人はヴァイオリンをケースから取り出し、
「今のところは弾き振りで。本番は森脇さんが振って下さると思います」
審査員の立場である森脇遊が、Aチームでソリストを務めるならば、当然Bも手助けしないと公平でないとの予想から。
協奏曲の冒頭。哀愁を帯びたテーマが力強く始まり、一転して穏やかでゆったり、憧れに満ちた第2主題と、オーケストラだけによる長い序奏がいったん落ち着いたところで、深刻ながらも華々しいソロ・ヴァイオリンの登場となる。
有出絃人にとっては人前で弾くのも、オーケストラとの共演も初めてであったが、ソロだけでなく、オーケストラ部分も含めてすっかり暗譜しており、既に呼吸のように完全にものにしている音楽を、楽譜も見ずに、自由に伸びやかに見事に奏でていった。
Bチームは絃人が協奏曲形式でピアノ・ソロを受け持った、ラヴェルの〈道化師の朝の歌〉では共演していなかった為、指揮とは別の、ソリストとしての彼の貫禄や存在感、尋常でない集中力といったものに圧倒され、感動を覚えつつの、充実の時間であった。
途中、気分が乗ったか高揚したか、オケの音が急に良くなり、絃人は自分の本気の気迫が導き出したのかと思いきや、曲が終わったところで、リハーサル室の片隅に森脇遊の姿を認め、状況を理解した。
いつの間にか居たんだな。忍者の如く。皆も気づいて、それで音が良くなったってわけか。こちとら真剣だったのにね。お気楽Bチームは、リハでは体力温存のつもりだったんですかね。と、絃人は考えを巡らせた。
「いいですね! 嬉しいですよ。是非ともこれは放送してもらわないとね」
新たな審査員の、この賛辞に一同安堵する。
「あ、このリハをってことじゃなくて、本番の演奏をってことですよ」
リハーサル風景もカメラが回されており、それを意識してのこと。
「だけど、ソロねえ......」
そこからいきなり、緊張の空気に一転。
「無難すぎるんですよ」
言われた当人よりも、オケのメンバーが縮み上がる。
「例えば、タラララ、ララララ、んとこ、『タラ』じゃなくて、『たあら』。たあらララ、ララララとかって、もっと、ねっとり弾いてはいかがですかね?」
「絶対に嫌です」
ソリスト有出絃人はきっぱりとお断り。
無難で上品なスタイルを、かえって売りにしている遊先輩に、無難とかって言われたくありません! という言葉は皆の手間、一応呑み込んでの反発であった。
「僕が振るんですよね? この曲」
「たとえ指揮者の命令でも、そんな嫌らしい弾き方、したくありませんし、できません」
駄々っ子のようにガンとして譲る気のない後輩の様子に、森脇は呆れ、途端に無表情になり、
「外に出たまえ」
堪忍袋の尾が切れたご様子。
「ヴァイオリンは置いといた方がいいかも」
暴力沙汰を思わせる展開に一同震え上がるも、まさかカメラも回っている前で、それはないでしょうと、ハラハラしながら見守りゆく。
「皆さんとは、じゃあ明日また、リハーサルで」
と言い捨てて森脇は外に向かい、絃人は素直にヴァイオリンを床のケース内に置き、たとえ王さまでも大統領でも......なんてぶつぶつ言いながら後に続く。
既にコントラバスを床に寝かせていた多岐川勉が、ドアの前にさっと滑り込み、絃人を止めようとする。うるさ型の横暴審査員を説得できる自信など毛頭なかったが、気づいたら行動を起こしていた。脱落も覚悟の上で。
「おやめ下さい。絃人さんの演奏は、あれでいいと」
まずは森脇氏に意義を申し立てる。
「きみは彼の腰ぎんちゃくなの?」
「ルームメイトで、チームメイトです!」
「これ、僕たちの問題だから」
と言って、森脇はトムくんの目の前でドアを閉めてしまう。
カメラ部隊は、さて困ったものの、このまま外には出ずに少しだけ様子を伺うことにする。リハーサル室は完全防音なので、ドアの隙間を少しだけ開けて、声だけを拾おうと。
しかし何やらわめく先輩格と、落ち着いた声で冷静に反論する後輩格の会話の内容までは聞き取れず。
そのうちリハーサル室内にも響いてくる、ドン! という鈍い音。
森脇が有出を殴り倒したか!?
ついにバトルも暴力沙汰か!?
と、ますば撮影スタッフが踏み込み、アシスタントが、「きみたちは出てこないで」と釘を刺してドアを閉めてしまう。
それでもトムくんが続こうとすると、紺埜怜美が、その手を抑え、
「ここは私が。女性の方がきっと穏便にいくでしょうから」
「だったら、あたしが!」
と、立ち上がるはヴァイオリンの会津夕子。
「いつ脱落しても、あたし、いいんで」
言葉で説得できる自信などなかったが、どちらかに、なりふり構わずすがりついて、我らがリーダーをかばう気でいた。
不穏なドスン、バタンは間隔を開けて、なおも響く。ヤバい、相当にヤバすぎる。怪我人が出る前に止めに入らないと。
さらにパーカッション谷内みか、トランペットの春日拭子と、勇敢女性陣がドアの前に勢揃い。コンマスとして最も責任ある立場の別所正道と今回セカンド首席を務める浜野亨も顔を見合わせて立ち上がり、他の面々も加わって、先のトムくんと一緒に、わあっとリハ室の外に躍り出るや、
暴力沙汰は起きておらず、森脇が怒りに任せてリハーサル室側の壁を、叩いていただけであった。
「腕、痛めますよ」
と言う、有出は始終冷静な様子。
「ふうん? みんな出て来たのね」
森脇氏、ちょっと面白そうに感心してから、
「外野は引っ込んどいて」
と言い捨て、絃人の腕を引っ張ってエレベーターへと導きゆく。有出絃人が振り返りながら一同に告げる。
「楽器庫に行って来ます。今日のところは、あとは皆さんで合わせといて下さい」
何もなかったかのような彼の言葉に、一応ひと安心するBチームの面々。結局は全員が席を立って、我らが有出絃人を守ろうと飛び出して来たわけだが、一体なんだったんだろう? と、誰もが狐に包まれた気分で2人を見送るのだった。
「よりどりみどりだけど、お気に召すものが果たしてありますかな?」
ヴァイオリンだけでも名器が揃う、楽器庫の貴重なコレクション。その中からさらに厳選され、テーブルに並べられた逸品の5台を前に、砂男が誇らしげに語りかけた。
「絃人くんは、ストラド派? デル、ジェス派?」
「こうした本物を手にする機会なんてなかったので、自分では......」
本物とされる楽器が持つオーラに圧倒されながら、絃人が森脇に答える。つい今し方、理不尽にけなされた内容など、どこへやら。元来、人に意見されようと聞く耳を持たない頑固な習性であるので、落ち込む理由もないのだ。
気まぐれっぽい森脇への、多少の不信感は残ってはいたが。
「そもそも、自分の楽器、普通のヴァイオリンではありますが、充分いい音出してくれてるし、分身レベルで長年馴染んでるので、わざわざ代えなくてもいいんですけどね」
控えめな絃人に対し、砂男と森脇が口を揃える。
「ホールで弾いてごらんなさい。一瞬で、違いは一目瞭然……、ん? 一耳瞭然、かな?」
「単なるいい音と、最高の音の違いをね!」
「お前さん向きのが、あるはずだよ」
「ピアノだって、ピアノそのもの、メーカーやサイズが違ったって自在に弾きこなせるんだから、ヴァイオリンでも、そうしたことに慣れてゆかないと」
ヴァイオリンの銘柄について、ひと目で区別できるほどの眼識は持ち合わせていなかったが、直感に従い、絃人は自分の手前から2番目に置かれたストラディバリを手に取ってみる。
その瞬間、何故か動揺してしまう。
声にならない声、音にならない音が。
何かが......?
語りかけてくるような。
気を取り直し、砂男が差し出した弓を借りて弾いてみた。調弦は砂男さんによって完璧に施されていると分かっていてので、まずは今回奏でるヴァイオリン協奏曲のソロの出だしから。
弾いているうちに、ゾクゾクっと、ヴァイオリンから何か不思議な感触が伝わってきて、否応なしに呑み込まれそうになり、絃人はさっと、穏やかな第2楽章を、今回の舞台では弾くことのない大切なメロディーを、今度はそっと優しく奏でてみる。
それは「天使の主題」として、シューマン最後のピアノとされる変奏曲の主題でもあった。
しかし心に浮かんだのは、シューマンの晩年の想いでもなく、この曲を捧げられたヴァイオリニストのヨアヒムやクララによってお蔵入りにされ、存命中は演奏されることのなかった協奏曲の悲哀といったものでもなく、ただひたすら美しい、この世ではない不思議な幻想世界の光景だった。
第2楽章の美しく憧れに満ちたメロディーをいったん弾き終えたところで、我に返る。
気づいたら楽器庫に居て、2人の先輩方を前にヴァイオリンを奏でていた。そんな感じ。
「驚きましたな」
砂男が感心して厳かに告げた。
「誰もちゃんと鳴らせなかったのに」
「なんか、まるでホフマンの幻想世界に引き込まれたような......、そう。『黄金の壺』に描かれているみたいな憧れに満ちた世界に。あと、そうだな『ファールンの鉱山』の、あの不思議で美しい洞窟の情景だとか」
絃人の言葉に、砂男と森脇はぞっとしつつ緊張の目線を交わし合うが、心ここにあらずの当人には気づかれておらず。
伝えるべきか、秘密を守り抜くべきか。
知らぬが仏ということもあるのだ。
今のところは黙っておこうと2人は暗黙のうちに判断した。
このヴァイオリンが、かつてはE.T.A.ホフマンの所有であった、通称「ホフマン」であることを。
ドイツ・ロマン派を代表する幻想作家ホフマンは、お役人にして指揮や作曲もする音楽家でもあり、当然ヴァイオリンも所有していたのだが、長い期間、ある富豪からこのストラディバリの名器を借りていたことは史実で明らかにされていない。歴代の所有者も秘密を守り続け、このヴァイオリン「ホフマン」の存在すら、どこの記録にも残されていなかった。
「持っておいきなさい、お若いの。シューマンの課題を終えるまでは、持ってていいし。この先もきみがソロを受け持つ際は、いくらでも、好きなだけ」
ありがたすぎる砂男のお言葉。
「今日はホール、自由に使えるから、絶対にホールで練習すればいい」
「遊さんの収録は?」
「午後と夜に、気が向いたら何か弾くとは思うけど、被ったら譲り合えばいいわけだし、あんまり気にしなくていいよ。ピアノも自由にどーぞ」
こんなに恵まれていいんだろうか? と半信半疑で、絃人は2人に丁寧にお礼を述べ、借りたケースにストラディバリをそっと寝かせ、大切に抱えて楽器庫をあとにする。
そのままホールに直行したかったが、心配して様子見に下りてきたトムくんや亨ら、Bチームの弦楽器仲間に見つかり、やれやれランチに付き合うことにする。
午後からはAチームの音出しが始まるし、腹ごなしで体力温存しなければね、と。
有出絃人の命令によって、午前中いっぱいは慣れない写譜に集中していたAチームの面々であったが、やれやれランチもしっかりとって、いざ、リハーサル室へ。
既にセミコンのピアノが中央付近に用意されており、有出絃人も当然の如くその場にいる。
どの面下げて我々の前に? 反抗心や敵意を剥き出しにする者もいれば、かつては仲間であった彼の姿を目にするや、写譜の恨みもどこへやらで、「わあ〜、有出さん、来てくれたのね」と、懐かしむ者も、心強く感謝する者も。
そんな複雑な空気の中、全員が揃ったところで、特に挨拶もせずに、絃人が口を開く。
「森脇さんがソロで入る前に、ある程度仕上げておきたいので、まずはメイン、a-moll のコンチェルトからやりますか?」
疑問形でも基本、命令であることはAの面々も承知していたので、意義を唱える者もおらず。
「全楽章、通してみましょう」
提案を装うほぼ命令形に、素直に従うことにする。
「どなたか指揮されますか?」
指揮して頂けますか? という尋ね方だったら、出番のない者が名乗りをあげる余地も残されてはいたろうが、本番では有出が振ると分かっていたので一同も、
「弾き振りでお願いします」
シューマン・プログラム中、最も知られたこの曲については、オケに説明することもなかろう。視聴者向けのメッセージさえ、後日明確に伝えられればいい、と絃人はまず、このチームがどのように森脇遊に応えられるか様子を見ていくことにする。
たとえ練習でも、オケと合わせられる機会など滅多にないのだ。心から愛する曲でもあるし、ピアノパートは自分自身がソリストに成り切って本気で奏でていく。
ピアノすっ飛びアクシデントさえなければ、バトル番組史上に残る名演になったであろうなんて、長岡審査委員長が感動していた〈道化師の朝の歌〉における有出絃人の名演が、単なる序章に過ぎなかったと思われるほど今回も素晴らしい演奏で、Bチームの味方だとか裏切り者だとか、写譜のわだかまりなんかも、もはやすっかり消え去ってしまう。
当の絃人も古巣のチームとの一体感も得られ、指揮を担う手応えも掴め、何よりなんて素晴らしい音楽なんだ! と、心から感動し、この曲でピアノを奏せた幸せを噛みしめるのであったが ———、
「無難なんだよね」
はい?
背後からの容赦なきセリフは、紛れもない森脇遊、その人の声であった。
ここで初めて、有出絃人は自分に課された試練としての、バトルならではの陰謀と、先輩ピアニストの態度のからくりを理解し、謎に包まれていた不穏のヴェールが拭い去られたのであった。
90.「シューマニアーナの正義」に続く...
♪ ♪ ♪ 有出絃人が弾いたなら...(音声のみ) ♪ ♪ ♪
Dezso Ránki plays Schumann
Concerto Op.54 a-moll (1970)
the Hungarian Radio and Television
Gyorgy Lehel
https://youtu.be/RBgTvZe9m-c?si=x6ewaRjb50Pccr7v
シューマンのピアノ協奏曲Op.54。
前回の森脇遊が奏したイメージ動画に引き続き、有出絃人版も♪とのリクエストにお応えして。
第3楽章のラストのチラ聴き(30:35〜)2分40秒だけでも、ぜひチェックして頂けますと幸いです。
※ コメント欄に個人的補足アリ