「オケバトル!」 69. 見習い青年の華麗なる変貌と序曲の謎解明
69.見習い青年の華麗なる変貌と序曲の謎解明
脱落が一度に4名ともなると、話は深刻だ。
管打の奏者が本番で大ぽかをやらかすといった、よほど明確な事情でもない限り、当面は弦楽器群から犠牲者を募るしかありませんねと、Aチームでは強引かつ非情な提案が管楽器側からなされた。
弦楽器陣はそれもやむなしと素直に応じ、本番で大ぽかをやらかす──パート内の皆が同じ音符を奏でる弦の場合、単独ミスなど通常はあり得ないが──、あるいはチームの士気を貶めるような身勝手な言動を日常的に取っている嫌われ者といった、よほどの事情がない限り、基本はパートごとの人数を見極めつつ公平なくじ引きにて脱落者を決めることにする。
人類皆平等なんだからと、既にリーダー格としてチームを牽引している者でも、逆にコンマスや各首席を未経験の名もなき者でも、特別扱いは一切ナシ。
ということで、今回2名の脱落を義務づけられたヴァイオリンのうち、オリジナルエクササイズも好評で男女問わず若い世代からの支持も得て、マドンナ的人気が定着していた「水かけマリア」こと安部真里亜が、まず貧乏くじを引いてしまう。
「それなら私も一緒に降ります!」
ルームメイトの山岸よしえが必死の形相で彼女の腕にしがみついた。
「初日に逃げだそうとした私に彼女が水をぶっかけてまで叱ってくれたからこそ、こんなバカバカしいバトルでも続けてこられたの。彼女が居てくれたからこそ、支えてくれたからこそ──」
例によって感極まって声を詰まらせながら訴えかける。
「真里亜さんが落ちるなら、私も道連れってことでお願いします!」
「こんなバカバカしい」のくだりは当然のごとくカットされるんだろうなと、その場に居合わせた誰もが思う。「水の妖魔」山岸よしえは、やはり最初から最後まで「ヤバいおばさん」であったかと。
当の真里亜は、この熱きルームメイトが「一緒に」ではなく「代わりに」降りると言ってくれなかったことに内心がっかりしつつも、そんなことしなくていいから、あなたは折に触れてチームを引っ張って来たんだし、これからも支えていかなきゃならないんだからと、穏やかながらも厳しい口調でよしえをいさめるのだった。
中年女性の熱き友情に感動し……、ではなく、実は「さっさと決めてしまわねば我が身が危ない」という目論みから静かに沸き起こった拍手や感謝、励ましの言葉。実は一同に引き止めてもらう展開を期待していた2人も、もはや諦めるしかなさそうだ。
となると続くヴィオラからの1名は、「ヤバおばトリオ」の3人目、普段はアルトの穏やか口調と優しい微笑みで、パート内だけでなくチーム全体の雰囲気を落ち着かせるムードメイカーも担っていた沢口江利奈が、道連れの名乗りを上げねばならない流れが自動的に作られてしまう。
しかし彼女にしてみれば、2人に対してそこまでの義理も友情も持ち合わせていなかった。
そもそもトリオと言われていること自体が理不尽な話で、熱血山岸よしえも、異色のダンサー安部真里亜も、間違いなくヤバおばさんには違いなかろうが、自分はヤバい2人と仲良くしているだけで、日常的にヤバい行動なんてしてないし、第一「おばさん」扱いはまだ早いはずなんだけどな、失礼しちゃうわよねと、知らんぷりを決め込んだ上で、恐怖のくじに挑戦するも……、
「やっぱりね。あたしも、落ちなきゃならない気がしてたのよね」
結局は悪運を引き寄せる結果を招いてしまう。
涼やかな表情を見せつつも、己の了見の狭さを暴露する形で番組を去る羽目になってしまった展開に、「よしえさんと一緒に最初から名乗りをあげといた方がかっこ良かったな。こうした一部始終も放送されちゃったりするのかしら」と、後悔する江利奈さん。
夜の審査後の脱落者は、当日もう一泊して仲間との楽しいラストナイトを満喫できる権利があったが、日中の脱落となると話は別で、早々に私物をまとめてバトル館を去りゆかねばならない。主力メンバーだったオバサマ方とチェロからの名もなき男性犠牲者に敬意を払うべく、チームメイトの多くが玄関口まで見送りに出ることにする。
要のあたしらが抜けたらAチームはもはや抜け殻、壊滅なんだからね。せいぜい頑張ってくださいな。なんて意地悪い捨て台詞は控え、今は幻の駅と化した「横川」の名物駅弁「峠の釜めし」を軽井沢駅の売店で入手して、新幹線でいただきましょうねえ~と、脱落チェロ青年も巻き込んで楽しい帰路をイメージづけ、オバサントリオは最後までにぎやかに去って行った。
ああ、うるさいのが行った行った。と、半ば寂しくも半ばせいせい気分で、午後の爽やかな森の空気に誘われて敷地内の散策にそぞろ繰り出したAの面々。うっそうとした木々越しの遠目に、彼らが目撃したのは……、
幻のごとく。タイムスリップしたかのごとく。
果たしてここは、二百年前のハイリゲンシュタットの、小川沿いの散歩道?
濃紺の燕尾服にシルクハットをまぶかに被り、腕を後ろに回してうつむき加減にゆったりと、しかし確かな足取りで森の小径を歩いてゆく楽聖ベートーヴェンの姿であった。
「序曲〈レオノーレ〉第三番は、大変ポピュラーな名曲で、プロ、アマ問わず演奏会のレパートリーとしても重要な作品ではありますが……」
裏方スタッフらによって次回の後攻Aチーム用のセッティングが行われている舞台にて、ステージマネージャーの指示に従い、せっせと椅子を並べたり譜面台の位置を調整していた見習い風の華奢な美青年。彼はおもむろに動きを止め、背後で待機していた撮影カメラに改まった様子で向き直って、低めに抑えながらも凜とした声で語り出した。
「ですが、ちょっと謎ですよねえ」
腰に手を当てた決めポーズで立ち、軽く首を傾げ青年は視聴者に疑問を投げかける。
「序曲なのに『第三番』って何? それにベートーヴェン作曲による《レオノーレ》なんて歌劇、この世に存在してないんですよ?」
この辺りで美青年の正体が視聴者にも明らかになってくる。
なあんだ。彼、じゃなくて彼女だったか。解説の宮永鈴音さんでないの。いつものゴージャスドレスやスタイリッシュなスーツ姿も素敵だけど、ハンチングタイプの制帽を粋に被りこなした見習い風のボーイッシュなスタイルだって、かなり様になっているではありませんか。
先のビゼー交響曲においては、青井杏香と共に丁寧に準備した楽曲解説の場をAチームのトロンボーン奏者らに奪われてしまったこともあり、今回は課題曲が発表されるや、すぐさま先手を打って解説を収録している次第である。
課題曲の殆どはあらかじめ決められているのだし、解説は写真やCGといった視覚媒体にナレーションを乗せて紹介する形が視聴者には分かりやすかろうが、リアルタイムで事が進行してゆく緊迫感が売りのドキュメンタリー番組としては、解説の別撮りなど、できる限り避けたいところ。制限時間内での必死のリハーサル風景や迅速な舞台準備などに臨場しつつ、司会が落ち着いた口調で解説を入れる演出を基本としていた。
「まずはベートーヴェンが残した唯一の歌劇、《フィデリオ》のあらすじをお話しましょうか」
宮永鈴音が説明を続ける。
「セビリアにほど近い監獄が、このオペラの舞台です」
政敵の監獄所長による陰謀で政治犯として不当に投獄され、人知れず二年間も幽閉されているフロレスタン。そんな夫の消息を辿り、妻のレオノーレは「フィデリオ」と名乗り男装し、看守見習いとして獄中に潜入しておりました。
「つまりフィデリオとレオノーレは、同一人物なんですね!」
淡々とした語り口ながらも肝心のところではしっかり抑揚をつけた上で、説明の合間に口調や声色も変えて自身の見解を挟み込むスタイルで、聴き手の興味を促していく。少々ややこしい内容であっても、あくまで気軽な感じで親しみやすく。
更に、伝えたいことを三分の一に抑えると、逆に三倍の効果で相手に理解してもらえるもの。余分な言葉を極力減らすことで、かえってストーリーは明確に伝わりやすくなるはずだ。
「オケバトル!」の顔として起用されたヴァイオリニスト宮永鈴音の、プロのタレントとしても活躍する多彩なキャラクターを ── 彼女の少々滑稽とも思える言動や、さほど上手くない演奏すらも、親しみをもたらす魅力でもあると計算して ── 折に触れてアピールしてゆくのも狙い。
今回の大役が成功した暁には、今後クラシック音楽に関係ないテーマであろうとも、バトルシリーズの看板娘として採用され続ける可能性も高く、本人もしっかり務めを果たすべく張り切っているのだった。
レオノーレ=フィデリオは看守の娘に恋心を抱かれてしまい戸惑いつつも、周囲に溶け込んで男装を貫き通し、夫救出のチャンスを伺う日々でした。
そんな折、フロレスタンの同志にして親友でもあった司法大臣が、臨時の査察で監獄を訪れるという知らせが入ります。
フロレスタンの不当監禁が公になってしまう!?
焦った悪徳所長は、大臣の訪問を前にフロレスタンを亡き者にしようと企みます。
そこで宮永鈴音=フィデリオが、アリアの一節を口ずさんでみせる。
「♪〜遙か彼方の希望の星よ。愛の力で到達すべく、最後の輝き放ちたまえ」
これは絶望の中でもくじけないレオノーレの力強いアリアだが、プロのオペラ歌手に負けじと下手に張り切って歌おうものなら自滅しかねないと、己の力量をわきまえ、あえて浪々とは歌わずボーイソプラノ調の軽やかな声色でさらりと紹介する。
美声ではあるが、彼女のヴァイオリン演奏同様、ちょっと残念な音程なのは、ご愛敬。
あわやのところで彼女は「殺すなら先に妻の私を!」と、夫をかばうべく、短剣を振りかざす所長の前に、拳銃片手に飛び出します。
そこまで語ったところで、見習い青年=フィデリオは被っていた帽子をさっと外し、しなやかに頭を振って豊かなロングヘアをなびかせ、一気にレオノーレ=リポーター宮永鈴音へと鮮やかな変貌を遂げた。まるでシャンプーのCMのごとく、あまりの優美さにヘアコロンの香りまでが漂ってきそう。
「看守の制帽を外したレオノーレは、ご覧のとおり自分は実は女性で、この囚人フロレスタンの紛れもない妻であることを明かします」
話しぶりだけでなく、声色も澄んだボーイソプラノ調から艶やかな女性らしいトーンに変えてくる。
この番組の収録にあたり、これまでも課題曲を意識した上での気の利いた装い、極めつけ、オーストリア皇妃の扮装なんかにもチャレンジしてきた鈴音であったが、先に森の小径で目撃された散歩姿のベートーヴェンもどきの、変装の達人である楽器庫番の老人にも負けない熱心な扮装ぶりではないか。
いつものビビッドカラーの華やかルージュはつけずとも、元々目鼻立ちのはっきりした派手な顔立ちゆえ、印象が平凡で地味になる心配もなく、ボーイッシュなスタイルだからこそ、むしろ女性らしさが際立つことも計算済み。肌艶には自信があるので、「アップで撮らないで」などとごねたりもしない。
唯一、気をつけているのは、ヴァイオリニストの勲章ともいえる、長年ヴァイオリンを挟み続けることでくっきり染みついた左あごのあざがカメラに映らぬよう、立ち位置や角度をさりげなく調整しているくらいであった。
青年フィデリオの意外な正体!
夫も含め一同が驚愕する中、大臣到着を知らせる救いのファンファーレが高らかに鳴り渡ります。
大臣は、亡くなったと聞かされていた同志フロレスタンの生存に大喜び。不当に投獄されていた他の囚人らも解放し、悪徳所長を逮捕します。
再会した夫婦は感激の涙にむせび、一同がレオノーレの勇気と献身を讃える大合唱の中、幕は閉じられます。
「めでたしめでたし、バンザーイ! といったお祭り騒ぎの大団円ではなく、深く静かな感動を呼び起こしての壮麗な閉幕。いかにもベートーヴェンらしい手腕と言えましょう」
ここで鈴音はゆったりと流れるような動作で舞台の椅子の一つに腰をかけ、さりげなく動きに変化をつけた。
「実はこの物語、実際に起きた事件を元に描かれておりました」
これまでは歌劇のストーリー紹介で、この先は作曲の経緯も含む楽曲解説になりますよ、と空気を変えていく。
「スリルやサスペンスが盛り込まれ、フランス革命以来人気を博していた『救出オペラ』ではありますが、この作品のヒロインは女性歌手が青年の役を演じる、いわゆるズボン役ではなく、あくまでも女性。勇敢で愛情深きレオノーレは、ベートーヴェンにとっては理想の女性像だったようです。
歌劇のタイトルとしては、男装時のフィデリオ名よりも、是非とも彼女の本名、レオノーレの名を掲げたいとベートーヴェンは主張していたのですが、既に他の作曲家らによる同名の歌劇が二作も作られていたことを受け、混同を避けるべく、ベートーヴェンの本作は《フィデリオ》と題されたわけなのでした」
ひと呼吸おいて再びの問いかけ。
「序曲のタイトルとしての、レオノーレとフィデリオの謎。これでお分かりになられましたでしょうか?」
視聴者がポイントを聞き逃さないようにと、要所要所での確認も怠らない。
「折しもナポレオン軍に占領された直後の、異常なまでの緊張状態に包まれていた戦乱のウィーンで、作曲者自身の指揮により初演は強行されました。ベートーヴェンにとって、意欲はあれども初オペラという不慣れな分野。あまり洗練されていない作品全体の冗長さに加え、観客には占領軍のフランス兵士も多く、言葉による理解不足の影響もあってか、世間からの評価は残念ながら得られなかったようです。
上演は僅か三日のみ。
そもそも作品自体の仕上がりに満足していなかったベートーヴェンは、すぐさま序曲も含めて改訂に取り組みます。そして翌年の再演では見事に成功を収めるも、今度は金銭トラブルを理由に作者本人の意思で打ち切り。その時、新たに披露された序曲が、今回バトルの課題ともなっている最も有名な第三番でした。
そして九年後。上昇しつつあったベートーヴェン熱にあやかって、再再演の話が持ちかけられた際、ベートーヴェンは大いに意欲を燃やし、台本、及び音楽の大幅改訂がなされます。結果、ウィーンっ子のみならず、当時のウィーン会議に出席していた諸侯たちからも絶賛され、大変な人気を博すことができました。ここで新たな〈フィデリオ序曲〉が作曲され、この歌劇の序曲として最終的に定着することになります。
当時ヨーロッパに広まりつつあった自由主義への熱き想いに、理想のヒロイン。ベートーヴェンにとっては音楽だけでなく自身の思想や想いも反映しつつ、長きに渡って入念に取り組み続けた大切な作品だったと考えられます。
序曲として書き下ろしたものだけでも、後年発見された稿も含めて〈レオノーレ〉が第一番から第三番、そして最終版の〈フィデリオ〉と、全部で四つもあるわけですし、本人の思い入れも相当だったことがうかがえます。
とりわけ今回の課題曲、この第三番は、短い序曲の中に、大臣の到着を告げるファンファーレまでも含まれるなど、オペラの大筋が見事なまでに集約されていて、これを聴いただけでもう大満足になってしまいそう。若さや活力がみなぎり、単独の楽曲としての完成度も高く、オペラ本編の前に演奏されるには重すぎるという理由もあり、今日では序曲としてはあまり使われず、幕間に挿入する効果的な演出が主流となっています」
宮永鈴音は長い説明を締めくくる。
この語りの背後には、今回バトルの演奏をBGMに、楽器庫番の翁がバトル参加者をおちょくるための、いつもの冗談としての勝手な変装ながら、あまりに似すぎ、雰囲気も完璧だったベートーヴェンの散策姿の映像も、チラリと挿入されることになっていた。
70.「足りない奏者の調達術」に続く...
★ ★ ★ 今回の脱落者 ★ ★ ★ Aチーム
ヤバおばトリオ
安部 真里亜 Vn. 異色のダンサー「水かけマリア」
山岸 よしえ Vn. 哀しき過去を持つ「水の妖魔」
沢口 江利奈 Va. アルト美声のムードメイカー
ヤバおばの道連れとされた、名もなきチェロ青年