「オケバトル!」 5. 素晴らしき靴箱型の難点
5、素晴らしき靴箱(シューボックス)型の難点
Bチーム一同はロビーに集まり、一時間後には始まる舞台リハーサル、続く本番に備えて着々と準備を整えていた。
楽器さえなければ身の軽さが売りのコントラバス青年が機転を利かせ、Aのリハーサルが始まる前に、舞台上手側の袖に並べられたBチーム用の譜面台からダッシュでかっさらってきた全員分の楽譜を、パートごとに渡していく。
「公平を期するために、席次は交代制にしましょう!」
誰かが声高に告げた提案に従い、管楽器における各パートごとの席次は、年功序列や早い者勝ちなどのあさましい駆け引きなしに、紳士的に丸く収まったようだ。
プロオケ入団時、ファーストかセカンドかが決定されての契約が常であるヴァイオリンにおいては、セカンドも充分おいしいという曲が曲だけに、ファースト12名、セカンド10名と、醜い争いもなく品良く二手に分かれることができた。
肝心のコンサートマスターは、ファーストの中で「できる人!」と募ったら、ほぼ全員が威勢良く手をあげたので、じゃんけんで決められた。勝者は主にアマチュアオケのコンマスを渡り歩いているという、すらりと長身の栄えるベテランの中年男性だった。
スコア(総譜)では必要とされながら、この場に人材が存在しないパートのハープとチューバ、及び人数が足りないフルートと打楽器については、今回は6名のエキストラに頼ることとなっており、彼らは目下、Aリハにつき合っているという流れも、指揮者は不在という恐ろしき事実も、身軽青年の情報により、Bチームはちゃっかり把握していた。
誰も指揮をやりたがらないので、指揮者なしでも順調に音楽が進められるかどうか、まずは確認してみようと、ローテーブルに広げたスコアを囲んで首席奏者のみが勢揃い。金管連中はソファを陣取り、木管の多くは床に座り込み、動きの大きい弦の首席陣は立ったままで、主にハミングや手拍子、場合によっては楽器も鳴らし、タイミングを合わせてみることにする。
音頭をとるのはもちろんコンマスの役目。同時にボウイングも決めていく。
ラ~ララ、ティ~ララ、ラァ~ラ~。そこここで、合わせのポイントをチェックしていく。
「何やら楽しそうですね」
遠巻きに様子を伺っていたリポーター宮永鈴音がそっと近づいていく。
「一見バカバカしそうに見えますが、皆さんの表情を見てください。真剣そのものではありませんか」
「アマオケ王」ことリーダー役の男性が、必要に応じてヴァイオリンを鳴らしつつ、自分のパート譜に鉛筆で手際よく小さな記号を書き込んでいる手元を、カメラがアップで映し出す。
すかさず鈴音による解説。
「これは運弓、つまりボウイングといって──」と、ヴァイオリンの弓を弾き下ろす。
「これがダウン、そしてこれが──」
今度は弓を上に向けて弾き上げる。
「アップですね。弦楽器の演奏では、全員の弓の動きを揃えることが大事なんです。微妙な音の加減だけでなく、見た目においても大切なんです。なので、コンサートマスターは効果的な音楽のために、あらかじめ皆のボウイングを決定しておく必要があるわけです」
そんな説明を添えてから、この後は目立った動きのなさそうなBチームを尻目に、リポーターは撮影クルーを引き連れて、そろそろ佳境に入った頃であろうAリハの様子を覗きに、再びホールへと戻って行った。
「ですから、もっと音量を下げてもらわないと」
指揮の有出絃人は総勢64名のオケ団員を相手に、まだ悪戦苦闘中であった。舞台上ではなく客席の中央辺りでダメダメと大きく手を振っている。
ここは五百人ほど収容可能の、靴箱(シューボックス)型の中規模ホール。
中型とはいえ、天井は高く、タイプとしてはウィーン楽友協会や、アムステルダム・コンセルトセボウに近い、残響の非常に豊かな、いわゆる響きの良いホールである。我が国では、東京オペラシティのコンサートホールに似た構造だ。
とりわけ美しい響きをもたらすホールとしては、府中の森芸術劇場のウィーンホールも定評がある。かつてここでピアニスト安斎航がリサイタルを行った際のこと。
プログラム前半のラストを飾るベートーヴェン《ワルトシュタイン》のクライマックス、最終章へと緩やかに導かれゆく最も崇高な瞬間、客席前方で携帯電話の着信音が突如鳴り響く事態が起きた。その音は靴箱型のホールの見事な音響効果にオルゴールのように溶け込み、煌めくダイヤモンドにも例えられる安斎氏の音色に優美なオブリガートのごとく美しく重なった。このウィーンホールが「天井の高い洞窟温泉で歌っているような響き」と評していたピアニストは、集中を妨げられるどころか何ら動じることもなく、内なる気合いに拍車がかかったという。
絶妙過ぎるタイミングでの、とんだハプニングではあったが、ヴェールがかかったような響きのホールだからこそ事なきを得たとはいえ、これがクリア過ぎる音響のホールであったなら、着信音は許されざる大迷惑雑音に他ならなかったであろう。
サントリーホールやミューザ川崎、かのドイツはライプツィヒ・ゲヴァントハウスや、ベルリンフィル本拠地など、客席が舞台を囲むスタイルの、奏者と聴衆の一体感が得られる葡萄畑(ヴィンヤード)型のホールでは、残響が短く、音はクリアに全方向に広がりゆく。そのため奏者には、より迫力の音量も必要とされることになる。
葡萄畑型タイプのホールのイメージで、「フォルテシモだあー!」とばかりにガンガン奏されてしまうと、ここのような残響の長い靴箱型ホールでは大音量は響きすぎて、特に太い低音域の音は割れてしまう危険がある。はっきりとした音を意識して、大いに盛り上がる場面でも音量を抑えつつ、丁寧に、ゆっくりめを意識するくらいに演奏しないと、細部は聞こえにくくなってしまうのも難点だ。
それでも皆が〈人生の嵐〉のシーンを目いっぱい張り切って高らかに歌い上げるので、指揮者は、
「ちょっと、金管のどなたかと、コンバスの代表、ここに降りてきて実際に聴いてみてくださいよ」
面倒な注文をつける強行手段。
素直そうなトランペットの二番手がさっと立ち上がり、コントラバスの強面首席がしぶしぶ楽器を置いて舞台から降り、客席で周到に音響を確かめる指揮者の元にやってくる。
「それに、ど派手なお祭り騒ぎにはしたくないんですよね」
と皮肉を言ってから、
「140小節目、モルト・アジタートからお願いします」
絃人の合図で一斉に嵐の音楽が開始された。
トランペットとコントラバス、二人の男性が顔を見合わせる。
「確かに、どんちゃん騒ぎっぽいかも、ですね」
「ですが、音割れは大丈夫そうじゃないですか?」
あいつら、知らん顔しておきながら、こっそり音量ダウンさせやがったな。絃人は腹を立てるが、いちいち苛ついていては身が持たないので、
「落としてくれたみたいですね」
と二人に向かって肩をすくめ、舞台に向かって
「オーケイ、今くらいの感覚を忘れないで」
と言いながら足早に指揮台に戻りゆく。
嵐は過ぎ去り、次に訪れるは〈愛のやすらぎに、平和な牧歌〉。
靴箱型ホールの音響効果もあって、弦楽器は夢のように美しく響き、エキストラのハープは、まさに天上の音楽。さすがに熾烈なオーディションを突破してきた精鋭部隊だけあって、ホルン、オーボエ、クラリネットと続く、短くもうららかなソロの牧歌、フルートやトランペットのさらなるソロも、透明な美しい音色に、決してやりすぎることのない品の良い歌いっぷりで聴かせてくれる。
こうした部分では指揮者は余計な注文をつけず、ソリストを信頼し、彼らの自由に任せるのが最善であることを、絃人も充分に心得ていた。
夢心地の曲想は再び勢いをつけてゆき、激しい戦いの末の高らかな勝利の大合奏が展開される。あとは焦らず走らず、熱くなりすぎず、理性を保つのみ。己の感情を爆発させずとも、大作曲家の書いた曲そのものが、めでたい大団円を迎えてくれるから。
最初の音出しから皆に嫌がられながらも辛抱強く丁寧に仕上げていったので、終盤で指揮者がこだわったのは、一カ所くらいであった。ヴァイオリンの、ファーストとセカンド、二つのパートが交互に駆け巡る感動的かつ劇的なクライマックス。
「ひとつのパートが弾き続けているように聞こえないと。ファーストからセカンド、セカンドからファーストへ、全く隙がないように。よどみなく流れるように」
中々うまくいかないので、一度テンポを落としてから、徐々にテンポアップ。
「心をひとつに揃えて」
プロオケのリハとはとうてい思えない、まるで初心者向けのやり方であったが、短時間で、効果はてきめん。
時間だ。
「お疲れ様でした」
あと1、2分は残っていそうだったが、時間ですよー、とタイムキーパーから急かされるのは性に合わなかった。
あちこちで、ほうっと深いため息の後、パラパラと拍手がわき起こる。
しかし本番はまだこれからなのだ。
「まだまだ足りないけれど、あとはパートごとの相談でいいですね」
と絃人は締めくくる。本番直前、ロビーかどこかに集まり、最後の一瞬までの周到な打ち合わせも可能ではあったが、皆の集中力も保持する必要があった。
番組スタッフが配置の最終確認をする。ありがたいことに、本番では裏方が舞台セッティングをしてくれるとのこと。
「指揮者用の譜面台はいりませんので」
スタッフにさらりと告げられた有出絃人のこの言葉を聞いたAチームのメンバーは、暗譜かよ! と、一様に真っ青になったが、本人はどこ吹く風であった。
6.「破滅への前奏曲」に続く…
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