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「オケバトル!」 52. 教えなかった、お前が悪い


52.教えなかった、お前が悪い



 本番中の音楽家にとって最も恐るべき事態とは?

 それは穏やかな緩徐楽章に突如襲いくる盛大なくしゃみでも、配られたパンフレット類がバサリと床に落ちる音や、容赦なく鳴り響く携帯の呼び出し音でも、腕時計のピピッという鋭い電子音でもない。
 赤子の必死の泣き声や、演奏会に連れて来られたという状況をまったく分かっていない幼児が無邪気に話す声などは、まだ微笑ましい類い。
 遠慮がちに細々と続く苦しそうな咳。その咳を抑えるべく、バッグのどこかに紛れているノド飴を必死で探すガサゴソ音に、ようやく見つけた飴の袋を開けようとするカサカサ音といった、客席から聞こえてくる雑音の数々でもない。
 あからさまなミスタッチや演奏上の音割れ、勢いの止まらない大暴走でも、容赦のない大ブーイングでもなく、ただひとつ、誰もが恐れるべきは、

── 音楽の流れが途絶えること ── に、他ならない。

 ふとした拍子に暗譜が飛んでしまい、いきなり頭が真っ白で、慣れ親しんでいるはずの譜面が浮かんで来ず、続く音の動きの指令を脳から身体に送れず、本来ならば考えずとも完全に身についているはずの指や腕の運動能力も機能停止で当てにならず、正確な動きが見いだせない。そんな場合でも、プロの演奏家たる者は、兎にも角にも何らかの「音」を出し続ける習性が ── 本能、あるいは義務感からか── 身についているもの。
 それが正しい音でなかろうと、音楽の流れを途絶えさせてはいけないのだ。
 ソロであろうと室内楽や管弦楽曲であろうと、どんなアクシデントが起ころうとも、音楽は従来のテンポのまま進み続ける。「いったん止まって、少し前の小節に戻って、はい、やり直し」なんてことは、プロの世界では許されないし、まずありえない。

 モーリス・ラヴェルの〈ボレロ〉では、最初から最後まで叩き続ける小太鼓に他の楽器も交代で彩りを添えるため、たとえソロが落ちようと、小太鼓が落ちない限り、刻まれるリズムだけは絶え間なく続いてゆく。故に事実上、音が途切れることはないのだが、メロディーが続かないとなると、音楽家が最も恐れる「音楽が途絶える事態」に匹敵する恐怖の大失態には違いない。

 管楽器において、音を出す前の動作として、まずは、

①「位置について」で、おもむろに楽器を構え、
②「よお〜い」で、息を吸い込むのが通常の習わしである。そしていよいよの、
③「ドン!」のタイミングにて、完璧に調整された音が導き出される。

「鬼門のトロンボーンを意識してはならない」ことを極度に意識していたためか、Aチームの本番においてメンバーの殆どが、問題の彼が「位置について」どころか、「ドン!」直前の、「用意」の段階になっても楽器を構えていない事態に気づかなかった。
 ただ一人、二番手のトロンボーン奏者を除いては。

── メロディーが? ──

 チームの誰もが自分の耳を疑った。
 トロンボーンが落ちた!
 有出絃人はトロンボーン首席が楽器を構えておらず、頼みの綱の二番手奏者もおろおろするばかりで代わりに吹く気配ゼロの様子を瞬時に見極め、ヴァイオリンを構えるや応答のメロディーをとっさに弾き出した。頭の一小節が抜けてしまった不自然さを曖昧にするために、所々あえて音を抜かし、ちょっと洒落たアレンジのように。トロンボーンの音色に近い中太の音色を心がけつつ。
 幸いなことにファーストヴァイオリンは長い休みの最中で、コンサートマスターの動きにつられて一緒に弾きだす間抜けな輩はいなかった。
 しかしこのまま続けようにもこのメロディー、ヴァイオリンでは下の音域が足りなくなる。弦であれ管であれ、楽器本来の音域を超えた高音を作り出す技はあれど、範囲外の低音を出すことは、調弦を低く設定するという定律破りをしない限り、どんな名人だって物理的に不可能なのだ。
 低音域を充分にカバーできる楽器で、ヴァイオリンに続けて違和感もなく、状況を完全に理解していて目配せだけで正確にバトンタッチできそうな相手といえば……? 正面でチェロのピッツィカートを続ける首席の白城貴明のみ。
 そして彼は絃人からの念をしっかと受け取り、膝に置いていた弓を持つことで、「お任せあれ」の意思表示。きりの良いところでメロディーを引き継ぎ、トロンボーンの代理を上手く果たしていった。絃人のやり方に従い、僅かに音を抜く粋なアレンジのスタイルは崩さずに。チェロのフォアシュピーラーも含めて、ピッツィカート陣の中で首席に習ってメロディーを奏でようとする間抜けな輩は、幸いなことにやはり皆無であった。

 こうして奈落の底に舞台ごと落ちるのは何とか避けたAチームであったが、曲が終わるや当のトロンボーン首席は謝罪もせずに姿をくらまし、一同、後攻Bチームの演奏を拝聴すべく憤懣やるかたない思いで客席に着くのだった。
 彼がBに金を積まれ、俺たちを裏切り、自らのキャリアを棒に振ってまで八百長舞台に身を投じるなんてことは、温厚そうな人柄を考えてもあり得ないとは思うのだが……。と、疑心暗鬼に陥ってしまう。
 そしてBの舞台、問題の「鬼門」のシーンでも、似たような場面が起こりつつあることに愕然とする。

 これって、まさか……。
 またしても番組仕掛けの陰謀?
 最初から、トロンボーンは落ちる指令でも受けてたってこと?
 でも、誰が? 何の目的でそんなことやらせるわけ?
 落ちる者の身にもなってみろってんだ!
 おいおい、まさか本気で落ちるのか?

 Aの全員が固唾を呑んで見守る中、Bのトロンボーン二番手が大げさな身振りで楽器を構え、「私が吹いて差し上げましょうか?」とばかりに首席を見やった。
 それまではAの首席同様、ぽう~っと宙を見るばかりだった彼が急に生き返り、いきなりの「ドン!」で、一拍の遅れも見せずに「応答」のメロディーを完璧に吹き始めたので、客席Aの面々は、ほうっと胸をなで下ろす。ライバルチームのこととはいえ、名曲に穴など空けて欲しくないのは演奏家であれ聴衆であれ、誰だって同じなのだ。
 しかし食事が喉を通らない状態と同様、そこから先はAチームも聴いた気がしない。やはり悪質な陰謀が絡んでいる。我らの首席トロンボーンが消えたことにも裏がありそうだ。この演奏が終わればすべてが明らかになるだろう。とのAのメンバーの予測どおり、

「はあい、皆さん! どうなることやら? と、はらはらしましたねえ!」

 司会の宮永鈴音が明るい調子でAのトロンボーン首席と仲良く腕を組んで下手から登場。舞台上のBのトロンボーン首席にも前に出るよう促し、両チームの首席が二人揃ったところで、

「改めて皆さんにご紹介します。本日の舞台で首席を務めていただくために五日間の約束で、この番組、『バトル・オブ・オーケストラ』に参加して下さった、音楽愛好家の丸山和宏さんと、篠原洋二さんです!」

 Aチームに在籍いただいた丸山さんは、ボストンで音楽スタジオを経営されておられます。そしてBの篠原さんは、パリの楽器店にお勤めです。番組では、プロの奏者並み、どころかプロ顔負けの「上手すぎる音楽愛好家の方」をスカウトして参りました。それもこれも〈ボレロ〉のソロで、落ちていただくためです。ああ、そうそう、ご安心なさって下さいね。今の両チームの演奏ですが、番組放送時には、「この方は番組の指令で、ここでわざと落ちてもらうことになっています」と、大きくテロップが流れる手はずとなっていますので。
 といった説明を鈴音が明るく続ける中、両チームのメンバーとも、

 丸山って誰だよ? 
 篠原なんて知らないよ。
 聞いてた名前と違うじゃないの。偽名だったわけ?
 この五日間、すっかり心を許して互いに熱く夢を語り合ったり励まし合ったりしてたのに?
 あの穏やかな微笑みも、こちらに何もかも喋らせて主催者に密告するための、巧妙な罠だったと?
 大切な仲間として絆を深めた気になってたのに、番組側の回し者だったなんて、うちら悲しいですよ。

 といった具合。とりわけ仲良し組の金管の面々はショックを隠しきれない様子。

「トロンボーンが『落ちた』際、周囲の仲間がどうフォローしていくかが、今回の審査の焦点でした」
 一同を優しく慰めるように落ち着いた口調で語る鈴音。
「ですが、落ちそうな寸前に、周囲の誰かから『出番ですよ』と警告がなされた場合は、素直に従って演奏しても良いという決まりでした。ということは、つまり?」
 と、ここでようやく審査員に話を振る。

「つまりだね、仲間がジェスチャーで出番を知らせたBチームの勝ちになるわけですよ」

 長岡委員長の淡々とした言葉に、当のBチームから「わあっ!」と、初勝利への歓声と拍手が沸き起こる。どうやら彼らは裏切りスパイへの恨み辛みはこれで解消のようだ。
 真っ青になったのはAの二番手トロンボーン氏。見ちゃいけないしきたりだから隣の様子も覗えず、何か理由か策でもあるのだろうか、楽器の支障で急に吹けなくなったから歌うとか? って。ならばこちらに振ってくれてもいいんだけどな、と思いつつ警告も遠慮してたっていうのに、自分のせいでAの初敗北だなんて!

「ああ、僕は終わりだ。チームの皆に申し訳が立たない」
 頭を抱え込んでしまう。

「そうだ。お前が悪い」とあからさまに非難する者はいなかったが、皆がそう感じているのは冷ややかな空気から否応なしに伝わってくる。

「ですがコンマスのとっさの機転と、何の伝達も介さずに彼の意図をくみ取って低音メロディーをつないだチェロの首席、お二人のチームワークは実にお見事でしたね!」
 感心する青井杏香。
「これって、充分な勝利に値する気もしますけど?」
「そうですよ。ソロの出だしの音が僅かに抜けてしまったのも、お二人の絶妙なカバーのおかげで不自然になりませんでしたしね」
 アントーニア嬢も賛同する。
「残念だが、ラヴェルは無用なアレンジなど歓迎しないだろう」
「だけどAの方が、遙かに演奏の質が高かったのは明らかですよ。一歩間違えば、前衛っぽく奇妙に響きがちな不協和音のバランスなんかも、絶妙で」
「トロンボーンが抜けた云々よりも、全体の演奏レベルこそ、評価の対象とすべきでは?」
 女性審査員二人がかりで長岡委員長に食い下がる。
「この曲の、たったひとつの長い長ーいクレッシェンド。Aチームは、息も殺さなきゃならないほど緊張感に満ちた冒頭から、すべてが解き放たれる激動のクライマックスまで、完全にまっすぐな一本の直線のように正確で、もう、鳥肌ものだったじゃないですか。ミスしないことばかりに審査の重きを置くなんて、ナンセンスですよ」
 という説得力のある杏香の意見も、長岡はばっさり切り捨てる。
「今回の課題は、まず第一に、落ちるか否か。次が、落ちた際の周りのフォローの仕方。この優先順位による勝敗決定だったんで、演奏の出来の善し悪し云々は、考慮の余地はないのだよ」
「〈ボレロ〉って、そうした『ミスするか、しないか』といった観念に捕らわれすぎるあまりか、『失敗さえなければご安泰』みたいな風潮で、皆が右へならえのステレオタイプの演奏を目指しがち。こうした流れは、クラシックの音楽界においても憂慮すべき事態と思いますけどね」
「今ここで、〈ボレロ〉の演奏における世界的傾向について議論の余地は、ありません」
 長岡が面倒くさそうに言った。
「今回のテーマは、あくまで『チームワーク』であって、そのためにわざわざ『落ちてくれる奏者』に出演してもらったわけで、きみだって企画の段階で、そうしたことは承知してたじゃないか」
 審査員どうしの醜い言い争いが始まってしまったので、司会の鈴音が機転を利かせ、
「それでは審査員の先生方には審議に入っていただくとして──」
 と言いかけるが、
「負けはAチームで、脱落は二名ね」
 と、長岡が結論を出してしまう。
「ただし、Aのコンマス有出くんとチェロの白城くんは、今回の脱落は免除としよう」
 はあ~と顔を見合わせる心優しき女性審査員ら。
 司会としては、明るい雰囲気でこの場を締めくくる責任があったので、空気を変えるべく二人の潜入工作員に、
「素性を隠し通すのは大変でしたか?」
 といった予定どおりのインタヴューを試みる。
 彼らの答えは、プロの音楽家の方々と寝食を共にしながら意欲的に活動できたのは、大変貴重な体験でした、といった無難なものに留められた。この辺りは台本どおり。

 彼らはこの五日間、仲間の動向を番組の担当スタッフに逐一伝えており、この後も、各チームの内部事情、誰がどういった話をしていたか、不平不満やいざこざ、足の引っ張り合い、逆に互いを信頼し、褒め称えたり、励まし合ったり支え合っていたか、誰がトラブルメーカーで、誰がまとめ役で陰の立て役者か、といった細々とした最終報告が義務づけられていたのだが、そうした陰湿な裏事情は当然のごとく明かされず。

 なので司会の鈴音も、マズそうな内容は避けるよう気をつけながら、皆の疑問や不満が和やかになりゆくよう、あくまでも明るく楽しい口調で話を進めるよう努めていた。
 そうとは知らない仲間たちは腹の中で、

 だから彼はいつも黙して語らなかったんだ。
 経歴の話題になると、さりげなくスルーしてたし。
 重要な意見は述べず、番組に対しても仲間に対しても不満や悪口、言わなかったしな。
 上手いと思ってたけど、今にしてみればアマチュアの域を出てないレベルだったかも。
 などと勝手なことを考えていた。

「そして残念ながら」と司会。
「こちらのトロンボーン、お二方には今回限りで抜けていただくことになるんです」

 番組側の潜入工作員と正体がバラされた以上、これまでどおりに続けられないとは分かってはいても、ええー? トリオで成立のトロンボーン部隊が二管になっちゃうのー? と、混乱の両チーム。

「みなさーん、ちょっと酷な『落ちるトロンボーン役』を快く引き受け、番組に協力して下さった、丸山さん、篠原さんの両氏に、温かい感謝と励ましの拍手を! お二人とも海外で、どうぞ益々のご活躍を!」

 狐につままれた気分ながらも番組スタッフに促され、しぶしぶ拍手で二人を見送る両チームの面々であったが、複雑なのは、Aチームの「教えてあげなかったトロンボーン氏」当人に加えて、彼に責任を負わせるとなるとバストロンボーン一台にしか残らないよ。テナーがいなくなっちゃう? なら我々破滅じゃないの! と、いけにえの罰を執行したくても出来そうにない仲間たち。

 さてさて、どうしてくれようものか。




53.「教えなかった、みんなが悪い」に続く...


★ ⭐︎ ★ 今回名前が初登場 & 離脱の人物 ★ ⭐︎ ★

丸山 和宏 Tb. Aチームに潜入していたスパイ
篠原 洋二 Tb. Bチームに潜入していたスパイ








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