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「オケバトル!」 84. おさらばすべき? 現実世界
84.おさらばすべき? 現実世界
演奏会における拍手のタイミング。
室内楽やソロ・リサイタルなどでは、さほど問題なくも、オーケストラの演奏会では観客のマナーやセンスが気になるところ。
熱狂と共に激しく終わるのか、染み入るように静かに消えゆくのか、曲の終わり方にも左右されるものの、最後の音の残響や、曲の余韻を味わう間も与えずの、速攻狂乱のブラヴォーを伴う拍手喝采は、勘弁して下さ〜い。と、当の奏者や、一瞬でも余韻を楽しみたい聴衆は心から願うもの。
ある夜の某オーケストラの演奏会では、開演前の事前アナウンスにて、
「演奏が終わっても、すぐに拍手はしないで下さい。最後の音の響きが消えるまでは、どうか拍手はお控え下さいませ」
なんて、お客様にご丁寧にお願いしていたり。
気軽なファミリーコンサートの場などではなく、サントリー・ホールでのソワレのコンサートで、である。
メインはチャイコフスキーの交響曲第4番。最後の音が鳴り止まぬうちに、狂乱の大喝采が巻き起こる。大興奮の聴衆は、主催者が事前に促した注意など完全無視であった。
演奏を終え、半ば放心状態の指揮者が我に返り、ゆっくりと腕を下ろし、深い安堵のため息と同時に肩の力を抜く......。そんなタイミングで、——— 但し遅すぎても間が悪い ———、いきなり「わあーっ!」と来るか、あるいは静かな拍手が沸き起こり、やがては歓声を伴う大喝采となってゆくのが理想であろう。
Bチーム率いる有出絃人にとっては、ヴァイオリンもピアノも指揮も、呼吸と同じく自然に奏せるので、〈田園〉を振り終えた際も、放心状態から目覚めたり、ため息をつくなんて仕草は見られなかった。
絃人が腕をそっと下ろし、感謝のうなずきと共に仲間を見渡し、コンサートマスター浜野亨と信頼の目線を交わし合った辺りで、客席から静かな拍手が湧き起こる。それは挨拶を終えた指揮者が下手側に下がっても、立ち上がっていたオケのメンバーが着席しても鳴り止まなかった。
演奏直後のBオケ全員にも、番組スタッフにも、かつてのリーダーとその配下を賞賛する客席のAチームや、審査員陣、居合わせた全ての面々に深く静かな感動が呼び起こされていた。
ステージマネージャーの岩谷が頃合いを見計らい、司会を舞台へと促すと同時に客席の照明を明るくすることで、ようやく拍手は収まりゆく。
通常の流れでは、ここで宮永鈴音が司会者として何かしら気の利いた感想を述べる手筈となっていたが、ここは機転を利かせ清く身を引き、その役目は審査員らに譲ることにする。状況次第では審査員が先に口を切っても良いとされているので。
「それでは審査員の方々、感想をお願いします!」なんて促すだけでも、この崇高な空気が損なわれそうなので、鈴音はマイクを口元に持っていかない仕草にて、私は喋りませんからお願いしますと、審査員らに暗黙の了解を促すのだった。
三人の審査員陣。アントーニアは目頭を抑えたままうつむくばかりで、長岡幹と青井杏香は互いに顔を見合わせて、いや、すごすぎでしょうとばかりに首を傾げたりのけぞったり、感心することしきりの様子。
私はまだ言葉もありません、だからお願いしますよ、と長岡にジェスチャーで促され、青井杏香がようやく口を開いた。
「ご覧のとおり、アントーニアは感極まって泣き伏してますし、長岡委員長も、感動のあまり言葉がでないご様子で」
と述べてから、まずは両チーム共に素晴らしい演奏でしたねと、奏者を優しく丁寧にねぎらった上で、話を進めていく。
「それにしても、実に心憎い演出ではありませんか! 冒頭にベートーヴェンの素敵な言葉を持って来るなんて。そして紺埜怜美さんのナレーション、本当に素敵でしたよ。聴き手は一気に、否応なしに、ベートーヴェンの、田園の世界に引き込まれてしまいました」
ここで怜美さんへ拍手が送られる。
「そもそも、それに先立って舞台リハの直前にも有出絃人さんが素晴らしい演説をされたそうですね。壮絶な嵐と、自然への感謝への想いについて」
「そうなんだよね。曲の背景を知ることは、作曲家の魂に近づく為にも、非常に大切と思うんだ」
ここでようやく長岡が口を開く。
「真逆、演奏家によっては、まず楽譜ありき、楽譜から全てを読み取りさえすればいいのであって、作曲当時の事情だとか、作曲者の想いだとかは、かえって解釈の妨げになるなんて言う方々もいるんだがね」
青井杏香も大きくうなずく。
「音楽を純粋に音楽として捉えるか、背景も含めた芸術作品として尊重するか。意見は分かれるかも知れませんが、演奏する側も、聴き手も、作曲家の想いに寄り添う姿勢は大切だと思います」
と、きっぱり。
「そして今回、解説トークではなく、淡々としたナレーションスタイルを起用したセンスもバツグンでしたね!」
それが仕掛人、有出絃人の提案によるものと、誰もが分かってはいたが、今更何ですかと、ここでは軽くスルーされる。どのみち彼はこの後の話の流れで神レベルに祭り上げられることになるのだから。
「アントーニア嬢は、そろそろ落ち着かれましたかね?」
涙で乱れたであろう彼女のメイクを、フェイスパウダーでささっとカバーしていたヘアメイク担当が離れたところで長岡が優しげに尋ねた。青井杏香同様、元々アイラインやマスカラは使用しない、極薄化粧派のアントーニアなので、泣いてパンダ目になる心配もないのだが。
「つい、思い出しちゃって......。ごめんなさい。子どもの頃の思い出が、あまりに鮮明によみがえってきちゃったので」
まだ震える声で、ようやく語り出す。
「シルクハットに燕尾服、髪型まですっかりベートーヴェンに扮した祖父が、オーケストラと一緒に幼稚園にやって来て、そのままのスタイルで〈田園〉を指揮したんです」
うっわー。身内にそんなことされたら、あたしだったら恥ずかしくて逃げ出しちゃうかも。
と思ったのは司会の宮永鈴音他、幾人かの女性バトラーたち。
「その後、祖父はハイリゲンシュタットの田園地帯にも連れてってくれて......。おんなじベートーヴェンの扮装で」
ふっと微笑んでからアントーニアは懐かしい思い出を語った。
「〈田園〉に出てくる色んなメロディーを歌いながらお散歩して、小川のせせらぎや、木々の語らい、小鳥たちの鳴き声をマネして、陽の光に、風がそよぐ声。その時の光景が、祖父との懐かしい思いが、わーっと思い出されて」
再びあふれる涙を拭いながらアントーニアはしんみりと続けた。
「それが私にとっての音楽人生の原点でもあったので」
おじいさんとの大切な思い出なんですね?
〈田園〉は、幼い頃からの思い出の曲で、原点でもあると......。
そしてあんなに泣いているのは、もしかして?
今は亡きおじいさん?
誰もが、きっと視聴者も皆が、亡くなったおじいさんとの思い出話なんだろうと思い込むに違いなかろうが、中には、おや? と気づく者も。
まるで我々がここの庭で目撃した、砂男こと楽器庫のじいさんが扮したベートーヴェンみたいではないの?
砂男=アントーニアの祖父。
という関係を知るのは、恋するマエストロ浜野亨と、一部の番組スタッフ、及び施設スタッフのみであり、彼らは確信する。
まさしく地下の楽器マイスターのことに違いない!
「亡くなったおじいさんとの大切な思い出なんですね?」
なんて言わなくて良かった。と、鈴音も沈黙を守ることにする。
「それなんだよ!」
長岡が心から感激した様子で言った。
「聴いた者それぞれが、個人の深い想いを馳せられる。そうした演奏こそが最高なんですよ。演奏する側の強烈な個性や特徴、際立った解釈なんかが印象に残りすぎる、いわゆる強烈演奏の押し付けではなく、原曲の魅力が最大限に引き出されることで、聴き手自身の世界が広がりゆく。
有出絃人の〈田園〉って素晴らしいね! の前に、ベートーヴェンの〈田園〉が素晴らしい曲なのだと」
「そして、アントーニアのように、おじいさんや自身の音楽人生にまで想いを馳せられる」
杏香がアントーニアの肩をぎゅっと抱きしめながら言い、再び長岡がまとめた。
「それから初めて、有出絃人は素晴らしい音楽家で、コンマスの浜野亨も、Bチームも素晴らしい! ということになるのだよ」
「それでは、どういったところが評価されたのか、視聴者の皆さんにも分かりやすくお伝え願えますでしょうか」
ここで初めて司会の登場となる。宮永鈴音としては、審査員陣の感動の語らいに割って入りたくはなかったのだが、イヤーレシーバーに鬼ディレクターから、さっさと講評に進めるよう指示が入った為、感動シーンから具体的な流れへと進めてゆく。
まずはアントーニアが、うっとりと述べてゆく。
「私たちウィーンっ子にとって、ベートーヴェンの音楽は、とりわけこの〈田園〉なんかは呼吸のように慣れ親しんできた曲ですが、有出さんの指揮はまさにベートーヴェン〈田園〉の音楽そのもので、この曲を最高の形で伝えてくれる演奏と言っても過言ではない気がします。
ひと言で言えば、明るく爽やか。でも深く、格調高く、気品がある。ああ、ひと言じゃないですね。でも、そんな感じ。
第1楽章は、緩やかに通り過ぎゆくそよ風のよう。絃人さん、本当に風のように自然な指揮なんですよね。作っているところが微塵もなくて。
第2楽章は小川の流れ、そのもの。緩やかで自由でありながら、水源も、流れゆく先もしっかり見据えている。各楽器が伸び伸びと解放的に歌っていながら、アンサンブルは見事に統一されている。
第3楽章。これってホントにBチーム? ってくらい、一生懸命しゃかりきになるところが全然なくて毅然としてる。でも、喜びに満ちあふれた幸せな楽しい踊りで、雲行きが怪しくなるところからは、それだけに不安感もいっそう増して、第4楽章は否応なし。素朴で善良な人々に、自然が容赦なく襲いかかってくる。懸命に働いてきた全てが台無しになってしまう、とてつもない不安。舞台リハの前に絃人さんが語られていたように、本気の不安。
そこに射す、ひとすじの光。嵐が途切れて、雲の間から神々しい輝きが降りて来て、全てを包み込むような。雨が明けゆくことをフルートがそっと告げる瞬間の、あまりの崇高さ。怜美さんにしか出せない絶妙な女神フルートが素晴らしすぎて、出だしのしっとりしたナレーションとも被って、もう、涙が———」
そこまで語ってアントーニアが声を詰まらせてしまったので、杏香が手を添えて慰めながらさっと続きを引き取る。
「涙、出ちゃいますよね。長岡さんですら涙ぐまれてましたし、私も。本当に崇高な瞬間でした」
「バトル番組史上、最高レベルのね」
長岡も素直に認める。
「終楽章、私はただただ満足していたんだよね。この番組の企画そのものを立ち上げて本当に良かったと。心から感動してね。
確かに有出くんが前に言ってたように、部分的な見方でなく、演奏全体、曲全体を捉えて聴いて欲しいと。だから演奏に関する細かなことは置いておこう。ただ、最初と最後だけ」
長岡はいったん言葉を切って、改まって指揮者に告げた。
「リハーサルの初っぱな、最初の4小節で散々苦心してたと聞いたんだがね。まさしく、この冒頭。自然で爽やかで、最高の出だしになりましたな。ここが決まれば全てが定まる。羅針盤が示す彼方の方向が、見事にね。忍耐の勝利とも言えようね。
それからラスト。はっきりタクトを切らずに、流れる感じで自然に音が消えていったよね? どこで最後の音が終わったか、分からない感じで。そこんとこが、やけに腑に落ちてね。ラストの音を切らない指揮なんて、見たことなかったんだが」
有出絃人のすぐ傍にいた宮永鈴音が、マイクを向けて答えを促す。
絃人は今更何か話したくもなかったのだが、仕方あるまいと、雰囲気を壊さないようさらっと答えた。
「風でしたから。風はすうっと通り過ぎゆくものでしょう? そんな感じに自然に音が消える感じにしたかったので。むしろ全員の呼吸をぴったり合わせるのではなく、ミクロのレベルではありますが、ピタっと止まるのは自然でない気がして」
「そうですね! コンマスの弓の動きも曖昧に切られてましたし、ちょっとふしぎだったんです」
と鈴音も納得しつつ、一応確認する。陳腐な質問とは分かっていても、視聴者の為に。
「それはリハーサルの段階でも? チームの皆さんに事前に知らせてあってのことでしたか?」
「リハの段階からやってましたが、何も言わずとも皆さん暗黙の了解で分かってくれましたよ」と、絃人はさらり。
実のところ、コンサートマスターの浜野亨には、指揮者の意図を皆の前で確認しておく義務があった。しかしリハーサルの段階でさえ鳥肌ものだったのだ。言葉に出すと崇高な雰囲気が失われてしまいそうで、首席どうし、仲間内でそっとうなずき合うことで済ませることに。
そして本番では凄い演奏になりそうだと予感する。
これがAチームであったなら、分かりやすく、はっきり止めて下さいよ。か、止めないんですね? と確認するか、白黒つけたいところであったろう。
固定観念にさほど捉われない面々の多いBチームの感性だからこそ、有出の意図を素直に汲み取れるのだ。
「後攻Bチームについては、アントーニアが的確に全体的感想を述べてくれたし、この感動を抱いたままお開きといきたいところだが......、先攻Aチームの7番の話がまだだったね」
長岡委員長が、ふうーっと肩をすくめながら言った。
あー、やっと我々の講評か。完全ムシで終わりにされるかと思ってましたよ。とはAの面々。
しかしどう考えてもB以上の評価は得られまい。あわよくば引き分けか? と、誰もが既に諦めモードであった。
「まずは今回の課題、3曲中いずれを選ぶか? という点だがね。選曲話し合いの報告を聞く限りでは」
長岡が切り出す。
「Aは皆で協力し合って一致団結の無難路線。Bは独裁リーダー1人に丸投げしつつ難曲に果敢に挑戦ってイメージだったけど、演奏もまさにその通りでしたね。
つまり演奏を聴かずとも、軍配はBに? といきたくもあるが、リーダーはコンマスのみ、指揮者ナシでの一致団結は、1人舞台のBより、評価に値するという見方もある」
司会が確認する。
「ということは、勝敗のポイントは、やはり演奏ってことになりますか?」
「私はね、第7番も大好きでね。何かしら愛称でも付いていれば、もっと人気も高まっていたと思えるほどの名曲だと。〈栄光〉だとか〈勝利〉だとか」
「Aチームの演奏は、まさに〈栄光〉にふさわしい勇壮さや、輝かしさが感じられましたよね」
青井杏香が話を先に進めていく。
「第1楽章、冒頭の序奏は本当に気高くて、心が高揚し喜びにあふれてゆく感じでした」
それからアントーニアを見て、
「オーストリアやドイツ系のオーケストラがこの曲を演奏している姿って、心の底から嬉しそうなんですよね」
「本当に。異国のオーケストラの演奏とは空気が違うというか、自分たちの音楽を奏でているんだ! って、幸せに満ち足りているというか。そうですね。この7番の長大な序奏は、とりわけ伝わってきますよね。そんな喜びがAチームの演奏からも感じられて」
アントーニアが答えるや、長岡が嬉しそうにまとめた。
「コンマスの浅田氏は、始終冷静で実に良くリードしながらも、燃えるところは熱く語り、我々をすっかり引き込んでくれましたね。いやあ、楽しかった!」
意外や簡単に、講評はこれで終わりかと、司会が確認する。
「つまり、両チームとも満点で、勝敗もつけようがない、ということになりますか?」
「いやあ、全体的には好印象なんだがね」
そらきた。また細かなことを掘り下げてくるんだろうかと、客席のAチームはちょっとドキドキ。
「それこそ指揮者ナシで、あそこまで一糸乱れぬ統一感、気迫は素晴らしかったんだが、逆にBチームの随所で見られたような、ふわっとした遊び心みたいな感覚が全く感じられなくて、聴いてて呼吸ができなくなるような、気がついたら息を止めてた、なんて感じもありましてね。
後は符点のリズムが甘めにしては、アクセントは鋭くてきついとか、やはり詰めが甘いというか、足りない。もっと極めることができたのではないかな?」
長岡幹の感想に、青井杏香も補足する。
「やはり誰かが率先して音作りをしてゆく過程は必要ですよね。ただ上手に合わせて通してゆくだけでなく、最高の表現やアンサンブルの響きを磨いてゆくとか。皆さん良い方々ばかりだから尚更、互いに遠慮してあまり言い合えないのでしょうけれど、ある意味、嫌われ役の存在も必要じゃないでしょうかね。バトルなんですし」
そこでアントーニアが少しだけ助け船を出す。
「それでも、肝心要の山場で弦がものすごく美しく響いていたり、心に響くシーン、随所にありましたし、私、優等生的演奏、とても好きです」
「私も好きには違いないですし、やはり勝敗はつけられません」
女性審査員2人の意見を受けて、委員長が結論を下す。
「チームの勝敗はナシとしよう。だが、短時間で偉業を成し遂げた有出絃人くんには特別賞を贈りたいね」
わあっと、少々複雑な拍手が起こるも、長岡が手を上げて静止し、
「だがね、脱落者は決まってるので」
しいん。
「まあ、素晴らしい演奏の後に釘を刺したくないんで、名指しはしませんが、まあ、Aのリハーサル時のあり得ないハプニングの件は、聞いてますからね。飛び出し魔のお二方には去って頂きますよ。私がその場に居なくて良かったね。何だ、どころじゃすまされなかっただろうからね」
しいん。
「Bの皆さんには、何のことやら? でしょうが、詳しくは、去りゆくお二方の独白謝罪でも収録されると思いますので、そちらをどうぞ」
鈴音は明るくさらっと説明し、嬉しい発表を促した。
「皆さん、本日のベートーヴェン・バトルも含めて、この1週間、本当にお疲れさまでした! ここで長岡審査委員長から、嬉しいお知らせがありまーす」
長岡が、勿体ぶって姿勢を正してから告げた。
「明日は丸一日、休みとします」
わあっ! とバトラーのほぼ全員から歓声が上がる。
「屋敷を出て、街や観光に繰り出すのも自由。好きに過ごしてくれたまえ。但し、門限は明日の夜10時ね」
「ここに到着時、容赦なく没収された、スマホやパソコン類も、いったん皆さんに返却されます。こちらも明日の夜10時には、再び回収ですからね」
宮永鈴音の言葉に、完全に忘れていた電子機器の存在を思い出す一同であったが、多くの者が、喜ぶどころか、少々憂鬱になる。
このバトルに参加するにあたり、周囲には、夏の間中、世間から隔離されるので連絡は取れない旨を告げてあり、SNSでも表明し、家族やマネージャー、所属の音楽事務所など、いざという時の連絡の代行も頼んであり、緊急時には施設に連絡が届く手筈と、万端の準備を整えてきたものの、電子機器がいったん返却されるとなると、厄介な連絡が大量に待ち構えているのではないかと。休暇どころではないかと。
ああ面倒くさい。
丸々1週間、音楽漬けで、現実世界の様々な交流からすっかり離れていたのだから。
最初は不安も感じ、大切な連絡が来てやしないかと落ち着かなかったが、やがては解放気分で音楽のみに没頭でき、仲間の脱落や理不尽な攻撃など、辛い体験もあれど、これが自分の生きる道と、これまでになく充実した時を過ごすことができたと、誰もが実感していたのだから。
それがどれだけ幸せなことだったか、電子機器による現実世界との交流に、いかに縛られていたかを、バトラーらは実感することになる。
電子機器の返却を喜ぶどころか、神妙な皆の反応に多少の違和感を抱きつつも、鈴音はお決まりのセリフで高らかに締め括る。
「司会は私、宮永鈴音でした! そして審査員は、制作総指揮にして委員長の長岡幹。作家で音楽ライター、青井杏香。歌って踊れる可憐なアントーニア・リーバーでしたー!」
司会の紹介に手を振って応える3人であったが、アントーニアはまた感激して涙ぐんでおり、杏香が肩を抱きしめている様子に、舞台に残るBチームコンマスの浜野亨だけは、不安を感じてしまう。
そう。アントーニア嬢があんなに感慨深げに泣いているのには理由があった。それは次の課題が発表されるに至って、一同も知ることになるのだった。
85.「思い思いに感謝の休日」に続く...
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