「オケバトル!」 50. 鬼門を意識すべからず
50.鬼門を意識すべからず
「決してそうあってはならない」という強い思いは、逆に「そうなってしまう」事態を引き起こしかねないもの。
久々のソロリサイタルを1ヵ月後に控え、本番で暗譜が飛んでしまうのを極度に恐れていたピアニストがいた。
「大丈夫。あなたなら失敗したりしないわよ」
友人から気軽に励まされた彼は、
「『失敗』という言葉を使うこと自体がいけない。潜在意識ってものは、『失敗』のマイナスなイメージをストレートに感じとってしまい、その後に続く『(失敗)しない』という、肝心の意味合いなんて認識しちゃくれないんだから」
と、感謝するどころか猛然と反論した。
「そんな甘やかしの考えこそが自滅を招くんだわ!」
彼女は心底呆れて彼を叱りつけ、
「仮に自分や側近スタッフが気をつけてても、何も知らない共演者や、たまたま居合わせた誰かが、ふと負のイメージ言葉を口にしちゃうことだってあるでしょ!」
そこで彼女は過激な手段を彼に課す。
半紙と筆に朱の墨汁など、書道の道具を一式買ってこさせ、「失敗」という文字をでかでかと書いて家中の目立つ場所に何枚も何枚も、呪いのように貼り巡らせよ、と。
少なくとも1週間は、「失敗」の文字の呪縛に捕らわれるがいい。そのうちに完全無視できるようになるでしょう。というのが彼女の予測であったが、ピアニストは意外や、「3日で克服できた」そうだ。ピアノの脇で妻に「失敗の歌」を高らかに歌われようと、子どもらが「失敗半紙」をひらめかせながら周囲で原始的な踊りを繰り広げようと、己が奏でる音楽の世界のみに、何の乱れも見せずして完全集中できるようになったのだ。
そして何の不安も抱えず自信と意欲を持ってリサイタルに挑み、無事に成功させたという。
綱渡り的な危険も伴う荒療治による極端な成功例であろうが、日々の鍛錬で己の力に揺るぎない信頼を寄せている確かな根拠の伴う自信家や、よほど強靱な精神力の持ち主でない限りは、「してはいけない=何が何でも絶対に成功せねば」というプレッシャーは、下手すると「失敗を変に意識したせいで、失敗が招かれる」といった、思惑とは真逆の方向に導かれる恐れがある。
これが一般人であるならば、
「ねばならない=must」ではなく、
「できたらいいな=wish」くらいの感覚が、ほどよい加減。
しかしながら人類を絶滅へと導くボタンを押すか押さないかの選択を迫られるような、大国の大統領レベルなら話は別。そういった立場にある者は、何が何でも「must」であらねばならない。
そしてプロの音楽家たる者は、当然のごとく「must」が要求されるわけで、自然な呼吸で must もこなせる状態であって欲しいもの。とはいえ舞台でうっかりミスをやらかしたからといって、世界は滅亡しない。あまりに悲惨な演奏が毎度のこととなると、個人経営の音楽事務所がつぶれるくらいは、稀にあるかも知れないが。
万が一アクシデントが生じても、恥をかくか、かかないかは基本、己の問題。
正しい形で楽曲を伝えられなかったことを深く反省し、作曲家や共演仲間、支えてくれるスタッフ陣、心地よい音楽観賞の集中を妨げられた観客に対して心の底から謝罪し、過ちは未来の自分に向けての警告であり成長の過程なのだと真摯に受け止め、今後は気をつければ良いのだ。
同じ場面での過ちは二度と繰り返さない。
それができない者、つまり失敗から学び、成長できない者は、アーティストとして舞台に立つ資格はなかろう。失敗による苦汁は過去の経験に留めておき、悪夢が繰り返されることへの恐怖心から、己の未来までも支配させるべきではなかろう。
かつて王子系ピアニストの代名詞ともされていたデジュー・ラーンキの言葉を借りるなら、
「(演奏持に)偶然の失敗は稀に起こり得ようとも、偶然の成功など決してあり得ない」
つまり、演奏の仕上がり具合が、「あわよくば、うまくいくかも」程度の状態では、そもそも人前に出るべきではないのだ、と彼は言いたかったのである。
ついつい悪い考えにとりつかれてしまったり、準備不足で不安を拭いきれなかったりする状況は極力避け、芸術であれスポーツであれ、表舞台に立つ者は万全の準備と完全なる体調管理とともに、己の精神力をしっかりコントロールしていく必要がある。
──〈ボレロ〉の鬼門はトロンボーン──。
これは「オーケストラ七不思議」のひとつにも数えられる、オケ関連ではあまりに有名でありながら根拠の乏しい都市伝説ともいえようが、実際に一流プロオケの舞台でも、ラヴェルの〈ボレロ〉の演奏を終えた直後、トロンボーン奏者が周囲の仲間から、「良くやったね」、「無事にクリアできて何より」、「事故が起きなくて良かった! 頑張りましたね」といった具合に、さりげなく握手を求められたり、にこやかに肩を叩かれたりしている光景がしばしば見受けられる。
何故、トロンボーンが「鬼門」といわれてしまうのか?
理由一、トロンボーンにとっては比較的難しいフレーズで、失敗率が他の楽器によるソロよりも高いこと。
理由二、演奏が始まってから184小節、出番が一切なく、ひたすらじっと待ち続けて7分ないし8分経過の後、楽器を温めるチャンスも得られぬままに、いきなりソロという試練。
理由三、熟練のプロ奏者ですら、オーケストラで重要なソロが回ってくる際はナーバスになりがちな者もおり、冒頭からずっと交代で続けられてきた各楽器によるソロのリレーの「トリ」をしっかり決めなければならないというプレッシャー。
故にトロンボーンの出番が回ってくる直前には、当の本人だけでなくオーケスト全体、はたまた客席の空気まで巻き込んで、会場の緊張感は極限状態に達してしまう。
ひと昔前までは、皆がチラチラ、コソコソと、当のトロンボーン首席に目線を投げかけたり、「ちゃんと吹いてよね」とばかりに、あからさまにじとっと見やってプレッシャーをかける意地悪な者もいたようだが、近年ではむしろ、皆が知らん顔を装って「気にしないであげる」風潮が主流らしい。しかし「知らんぷり」を決め込んで差し上げたとしても、ほぼ全員の意識は、どうしたってトロンボーンばかりに向いてしまうのが、悲しき人の性というもの。
当のトロンボーンにとっては大迷惑な話で、はたから見ていても、頼むから皆さん放っといてくださいよ~と言いたげなトロンボーン奏者の悲鳴が聞こえてきそう。加えて観客もそうした内部事情を知るにあたり、舞台の仲間のみならず、会場全体に、はらはらドキドキの波動が渦巻いてゆく。もはやそうなると、実際は「鬼門」なんかでなくとも、自動的に「鬼門」が生み出されゆく仕組みとなる。
ヨーロッパの某オーケストラのトロンボーン首席が〈ボレロ〉のソロでコケ、その後の周囲からのさりげなくも非難のまなざしや、「一流」といわれるオーケストラの看板に泥を塗ってしまったことに対する自責の念から自殺を図った、という悲しい噂もあるほどだ。幸いなことに、これは単なる噂にすぎず、当人は別な事情でそのオーケストラを辞めただけで、ちゃんと異なるオーケストラに移籍して首席として元気に活躍しているという。
彼らがどうやって「鬼門」の呪縛を克服するか? というと、日々の真面目な練習のみならず、「自分は大丈夫!」という強烈なイメージトレーニングも助けになろう。中には完全ゆとりで、譜面に記されていない絶妙グリッサンドを入れたりする強者もいるのだが、ともかく己との戦いや精神コントロールが重要とはいえ、何より「周囲が意識しない」配慮も大切ではなかろうか。
しかし無関心を装うのも結構タイヘン。「意識しない」ことを、あえて意識せなばならないわけなのだから。
いずれにせよ、奏者当人も周囲の仲間も客席の面々も、誰が失敗するか、上手い具合にこなせるか、なんてことは一切気にせずに、皆が自然体で音楽を楽しむべきであろう。
バトル5日目の昼下がり、ランチタイムというのに何故か人影もまばらなカフェテリアの出入り口付近で、AチームとBチームのトロンボーン奏者がすれ違った。
二人とも今回、首席の番が回ってきた者どうしである。
すれ違いざまにバチッと交わされた、彼らの緊張感に満ちた鋭い目線に気づいた者はいなかった。仮に気づいたとしても、その意味は、
「互いに頑張りましょう」とか、
「貧乏くじ、引いちゃいましたね」といった、同類相哀れむ的な意味合いか、あるいは逆に過激な、
「てめえには負けねえからな!」とか、
「吹けるもんなら吹いてみやがれ!」といった挑戦的なライバル心に満ちたものか?
二人とも三十代半ばと年代も近く、金管族ながら羽目を外したり声を大に意見を述べたりすることなく、穏やかな態度を貫いてきているので、どちらかというと、前者の和やか目線と推測されようが、彼らの心の中で語られた本当の意味など、チームメイトの誰も決して知る由はなかったはず。
そもそも〈ボレロ〉のソロを順繰りに受け持つことになった管楽器の首席らは、ランチもそこそこ、どころか朝の課題曲の審議が終わるや否や、ソロパートを周到にさらっておくべく皆がリハーサル室に一直線だったというのに、肝心要のトロンボーン首席らが呑気に食事とは? ゆとりなのか、開き直っているのかと、首を傾げる者もいたほどだ。
裸の調律師はAチームの本番前にも目撃されており、あえて我々に奇怪な姿をさらし、謎を仕掛けてくることで、両チームに対して公平に午後の課題曲へのヒントを与えていた。
午後のリハーサルは二時間。この厄介な名曲を、寄せ集めのオケで指揮者を立てずに完璧に仕上げねばならないとすると、持ち時間では到底足りなかろう。というわけで、老人のありがたきヒントに気づいた面々は、少なくともソロパートにおいては、リハーサル開始前の自主練にてしっかり仕上げ、準備を整えることができたのだった。
呑気な両トロンボーン首席以外は。
管楽器奏者は、これまでも折に触れて重要なソロが回ってきてはいたが、相手が〈ボレロ〉となると話は別。なぜならば、小太鼓のボレロのリズムに乗って、スペイン、アラビア調のエキゾチックな「主題提示」と「応答」のメロディー、その二種類のみが楽器を違えて交互に繰り返される構成ゆえに、ソロの瞬間は一人注目されながらも、目立ちすぎは禁物なのだ。一人だけ、「歌い方が、どこか違う?」なんてソロがあってはならない。全体リハーサルの段階で皆に歩調を合わせられるよう、完全にコントロールできている必要がある。奏者個人の個性ではなく楽器の個性、まずはラヴェルの意図に従い、楽器特有の音色を充分に活かした豊かな響きの音楽を伝えていくのが使命なのだから。
Bチームのリハーサル室では、そうしたソロのメロディー応酬の中、小柄の可愛いパーカッション奏者が、〈ボレロ〉特有の一定のリズムを小太鼓で叩き続ける特訓を延々続けていた。誰かに話しかけられようと無視して、ペースをまったく乱さずに繰り返すばかり。
〈ボレロ〉は指揮者が不在でも、約15分間、この二小節周期のリズムさえ揺るがなければ、ほぼ安泰だ。故に彼女は、脇で誰かに騒がれようが踊られようが、違うリズムで歌われようが、何ら動揺することなく己の呼吸を乱さない訓練を自らに課しているのである。
彼女の呼吸はこのリズムに完全に整っており、
「ラヴェルによる指定の17分より、ずっと速めですよね」、
「これだと15分で終わってしまいそうだけど?」
などと誰かが指摘しても、もはや彼女に変える気はなかった。とはいえ、指揮者もいないとなると、このくらい速めのテンポの方が無難にまとめられるには違いない。実際、今日では速め、15分のペースが主流となっている。
一方、Aチームのほうは作曲者の舞踏曲としての「17分指定」を守るべく、気持ち遅めの姿勢を貫くことにする。要の小太鼓青年にも、管のソロ奏者らにも、緊張の持続をより強いることになる遅めのテンポは負担となろうし、これはある意味、意欲的な挑戦ともいえよう。
51.「見てはならない狂乱ボレロ」に続く...。