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「オケバトル!」 15. 地獄のオルフェ ①
15.地獄のオルフェ ①
詩人で音楽家、竪琴の名手オルフェウスは、愛する妻エウリュディケを毒蛇にかまれて失うも、妻を取り戻すべく黄泉の国へと赴く。
竪琴を奏でながらの、奇跡とも言える美しき歌声で地獄の番人や冥界の王をなだめ、
「冥界を出るまで決して妻を振り返ってはならない」
という条件のもと、妻を生き返らせてもらえる許可を得る。
しかし地上への階段を登り切らないうちに、オルフェウスは不安に耐えきれず振り向いてしまう……
ギリシャ神話より
あと一曲。有出絃人は課題二曲目を終えた舞台から直接、地下のリハーサル会場に向かった。
夕食は今日のすべてが片付いてからにしよう。
ありがたいことに、ここでは夜遅くまで和洋の軽い夜食がいくらでも提供されるから、食いっぱぐれの心配もないし、二時間の休憩はパスだ。完全脱力は、一日が終わってベッドに倒れ込んでからで。
有志の中より五十音順で、晴れて回ってきたコンマスとしての責任もある。エキストラ不在の場合の助っ人の配分や、課題曲によっては書庫からスコアを余分に借りてくる必要もあるし、ボウイングも決めなきゃならないし、楽譜がいつ届くか知れないが、とにかく迅速に行動できるよう待機なのだ。
リハーサル室のドアを開けると、すぐ脇の机にスコアとパート譜が既に積んであった。スコアの表紙にはフランス語で〈地獄のオルフェ序曲〉と印刷されていた。
「いやっほほーう!」
絃人は誰もいないのをいいことに奇声を発し ── 固定カメラの存在は忘れていた ──、ヴァイオリンを高く掲げてくるりとピルエット。
実に楽しく、取り組み甲斐のある曲だし、何よりコンマスによる、協奏曲ばりの長く素敵なソロがある。
エキストラは、なし。とのメモ書きが添えてある。では、この曲に必要なハープはピアノで代用するか。弾ける人間はいくらでもいるだろう。パーカッションは更に一名追加が必要だし、今朝から助っ人をしてくれてるヴァイオリンの二人に、今日一日だけはエキストラ役を続けてもらうか。
自分がコンマスなら指揮者は不在でも大丈夫だから、総勢四名が弦楽器から外れることになるわけだ。優美なピアノのアルペジオや、威勢のいいパーカッションで華を添えましょう! とか何とかうまいこと言って説き伏せればいい。
メモ書きの追記事項に、
「今回、本番の観賞は互いに不可」
とある。どういうことか?
何か制作側の裏の意図がありそうだったが、こちらは再び先攻を選んだわけで客席にはどのみち審査員しかいないのだから、気にすることもないだろう、と絃人は判断する。
ヴァイオリンのソロにヤル気満々の姿勢を見せたAチームの有出絃人とは対照的に、有無を言わせぬアルファベット順でBチームのコンサートマスターが回ってきてしまった会津夕子は、ただでさえコンマスなんて自信がないのに長大なソロまでがあると知って、卒倒せんばかり。
「このままパスして後ろに回りますから、次の方、お願いします!」なんて言っている。
「やっといた方がいいですよ」
夕子の隣、アシスタントコンマスの席に座る男性が、年上らしく落ち着いた調子で彼女をなだめる。
「今のうちは良く知られた曲が課題になってるけど、次に順番が回ってきた時、全くなじみのない現代曲だったりしたら、それは厄介なんだから。こうした簡単な曲のうちに、少しでも慣れておいたほうが」
「簡単じゃないですよう!」
「簡単簡単。はちゃめちゃ風だけど、実はきっちりした曲なんだし、コンマスが躍起になってリードしなくても、何とか形になっちゃうものだから」
「指揮者ナシじゃ、無理です!」
「ミッキーさんはリズム感が良かったし、まあ、いないよりはマシだったけど、慣れてないド素人指揮者を下手に立てたりしたら、かえってやりにくいんですよ」
「でもこの曲、コンマスのとてつもなく長いソロが......」
彼は夕子をじっと見つめて言った。
「オケマイスターを目指すなら、ソロくらい率先して挑んでゆくくらいじゃないと」
「オケマイスターなんて、まさか」
「じゃあ、どうして参加したの?」
友人に誘われての応募で、度胸試しもかねてオーディションにちょっとつき合うだけのはずだったのに、友人は落ちて自分だけが受かってしまった。友情優先で辞退しようと思ったが、推薦状を書いてくれた恩師に「私の顔に泥を塗るつもりか」と叱られ、参加中の日々の出演料はいい収入にもなるし、まあ、挑戦も損ではないかとバイト気分での参加だった。と、夕子は打ち明けた。
「まさか自分がここに座る羽目になるなんて」
そういうヤル気ゼロの人もいたんだ! と彼は感心し、
「ソロっていうと緊張するかも知れないけど、楽譜をよく見て。難しいことなんて何ひとつ、ないでしょ」
ちょっと一緒に弾いてみましょう。と誘われて、二人はソロパートを弾きだした。
「たっぷり歌って自由に弾いていいんですからね」
途中から彼がそっと後打ちに回ったが、夕子は何ら怖がることなくすっかり音楽に入ってしまい、ソロのラストまですんなり弾ききることができた。
「ほら、できたでしょ。楽勝楽勝。素敵でしたよ」
と、彼がにっこり笑ったので、夕子は完全にノックアウトされた。曲ではなく、隣の彼に、である。
「ありがとうございました。あの……」
夕子、頬を染めつつ、
「あの、すみません。お名前を」
「別所です」
「私は、会津です。会津夕子」
言いながら、この人が隣に居てくれさえすれば、大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせる。
それから別所は、音出しが始まる前に決めてしまいましょうと、ボウイングのチェックや呼吸を合わせるポイントなども丁寧に助言し、おかげで夕子の初コンミスによるリハーサルも何とか無事に進めることができた。
バトルのはずなのに、こんなに優しい人がいたなんて。彼に感心してもらえるような、彼のおかげでソロをこなせたのだと納得してもらえるような、素敵なソロを頑張ろうっと! と、単純夕子はすっかりその気にさせられてしまう。
「ところでだけど」
別所が改まって夕子に言った。
「リハも早めに終わったし、着替えてきた方がいいかも。我々は後攻で時間もあるから」
「えっ? 私、変ですか?」
夕子は飛び上がり、とたんに不安に陥った。
「コンマスらしくない?」
「いや、どうでもいいことなんだけど」
と別所は笑う。
「このヴァイオリンのソロって、劇中でオルフェが愛を奏でるものだから。『ぼくのこんなに素敵なヴァイオリンの音さえも、きみは愛せないのかい?』って。まあ、愛してもいない妻に愛を訴える冗談めいたシーンでもあるのだけどね。なので、せっかくだからオルフェ役に徹して男装っぽい方がいいのかも、なんて思ってしまったわけですよ」
まず、華々しい全合奏があるでしょ。それからクラリネットに導かれてのオーボエの、もの哀しいソロ。これは羊飼いに扮した冥界の王がオルフェの妻を口説いているアリアで、続くチェロのソロは、その妻によるアリア。
今回の首席、オーボエは男性、チェロも女性と、ちょうど役柄に合ってるわけだし、いっそのことあなたもオルフェ役に扮してはどうかと……との、別所の愉快な提案に、そうだそうだ、と周囲も面白がって賛同する。
「オーボエは冥界の王らしく、黒マントでも羽織りましょうよ」
「頭に角とか?」
「でも、アリアの時は羊飼いに化けてるんだから、羊飼い風でないと」
「無理だよ!」と、オーボエ奏者が皆の勝手な意見に悲鳴をあげる。
順当にいけば倉本香苗が首席の番であったが、木管全員で相談の末、トラブルメイカーは当分の間は二番手で大人しくするようにとの命を受けていた。
「内面は地獄の大魔王なんだから、やはり黒マントでいいんじゃないですかね」
魔王の黒マントは、どこからか暗幕でも拝借してこよう、ということになる。
「オルフェの美しい妻は、皆が黒系の中で一人だけ白っぽいロングドレスとかは?」
「嫌です。そんなことして目立ちたくありません、私」と、チェロの首席。
「わざわざ着替えなくても、今のワンピースに透け感のあるショールを合わせるだけでも、どうしてどうして、美しいエウリュディケっぽいですよ」
ちょうどいいゴージャスな大判ショール、私、持ってます! と誰かが自室にすっ飛んでいった。
「主人公のオルフェウスは、パンツスーツに髪をアップにさえすれば」
「いわゆる、オペラなんかのズボン役ですね。若い女性が美少年役を演じたりする」
「では吟遊詩人らしく月桂樹の冠でも用意しますかね」
「いやいや、オッフェンバックのオペレッタでは、オルフェは音楽学校の教授らしいから、スーツで充分なんじゃないかな」
皆に勝手なことを言われている間に、
「こんな感じでどうでしょう」
夕子はロングに流していたサラサラヘアをまとめてねじり上げ、ヘアピンでささっとアップスタイルにしてしまう。
「このスーツってツーウェイなんで、ジャケットとおそろいのパンツも、実はあるんです。だからスカートをパンツにはき替えるだけでオーケーです」
別所の冗談に首席らが乗せられてしまう形になったが、こうしたばかばかしい大まじめさって、我々Bチームのいいところかもね、と皆で笑い合うのだった。
その時点では、夕子はすっかり忘れていた。この呪われた席に座る者は全員が脱落のギセイとなっていることを。初回の鶴川に始まり、アルファベット順になってからは、阿立、安方が。そして……?
「地獄のオルフェ」② に続く...
♪ ♪ ♪ 今回初登場の人物 ♪ ♪ ♪
別所 正道 Violin Bチーム 弦のリーダー格