[漫画&ブログ] 闇子ちゃん 第31話 ~幸せちゃん~
私は時々、ネームの段階ではオチがうまく思いつかなくて、まあいいかということで描き始めて、描きながらオチも考えるというふうにしています。オチとは、漫画の結末の展開や締めのセリフの事です。今回の漫画もそうでした。最後のコマで闇子ちゃんが自然体になって、ヘラえもんが「幸せとは自然(ナチュラル)の状態かもしれませんね」と言っているのがオチです。幸せとはナチュラルな状態である事、これは我ながらすごくしっくりきました。1ページめを描き始めた時は、自分でもこんなにシンプルな結論を出せるとは思っていませんでした。私にとって漫画を描く事は自己カウンセリングだとよくブログに書いていましたが、まさにこういう事なのです。
最後のコマ、闇子ちゃんがノーメイクで部屋着で公園にいる姿は「自然」です。でも、それを不自然とみなす空気がありますよね。「ノーメイクで外なんか行けない!」とか「部屋着とか恥ずかしい!」みたいな事です。むしろそのほうが多数派ですよね。でもそれっておかしいと思いませんか?素顔のほうが不自然で、作った顔のほうが自然、らくちんな服のほうが不自然で、上下の組み合わせとかイエベ/ブルベとかを考えた服のほうが自然という、不自然な状態のほうが自然という逆転が起きているのです。そしてその逆転している状態が日常だとしたら、それは普段暮らしているだけで薄~くストレスがかかっている状態になってしまいますよね。自分が自然だと何か良くない状態だという事なのですから。これも日本人が慢性的に疲れ、生きづらさを感じ、幸福度が低い原因の一つだと思います。
なぜ自然でいる事が不自然になってしまったか、↑↑で書いた例の場合だと、よく言われるのは、メディアの誘導と男性からの評価的な目線です。メディアの誘導は自分もすごく感じていました。例えば、私は20代の頃から漫画の絵の参考用に、女性向けファッション誌を時々買っていました。今から25年くらい前の事です。さらにアパレルのバイトをしていた時期もあったので、会社に女性ファッション誌も置いてあって、お昼ごはんを食べながらよくそれを読んでいました。読んでいると、面白いんだけど時々ひっかかることも多かったんですよね。例えば当時流行っていた「愛されヘア」というような単語です。ちょっと巻いてふわっとさせた髪型の事です。「愛され」とは男性に愛されるという意味です。つまりこういう髪型が男性は好きだよという事です。でも別に女性ファッション誌の編集部から我々男性に「どんな髪型が好きですか?」というアンケートが来た事はありません。好みも人それぞれなので、ふわっと巻いた髪が好きな人もいれば日本人形みたいな髪型が好きな人もいるはずです。なので極端に言えば、愛されヘアは嘘です。以前のブログにも書いたように、私が男性向けファッション誌に載った時、一緒に載っていた恋愛体験談はライターの書いた嘘だったわけです。他にも、ストリートスナップに載ったり、スタイリストにファッションチェックされる企画に出たり、何かのアイドルが池袋で絵が描ける人を探して彼に似顔絵を描いてもらおう、あっ偶然通りがかったあの人に声をかけてみよう、みたいな番組に出た時も、それは私が在籍していた事務所とかアパレルのバイトのコネであって、要は「仕込み」だったんです。つまり嘘という事です。なので、まあ雑誌とかテレビとかはそういうもんだよね~と思っていました。愛されヘアで言えば、「こうすると良いよ!」と言うことでそこに関わってくる商品、コテとかヘアスプレーとかを作っている会社の利益になるんだろうな~、スポンサーだしね~、という事です。…が、普通はそんなひねくれ思考じゃなくて、真に受けるほうが多数派ですよね。その愛されヘアをすれば自分も同じクラスのナントカ君から愛されるかもしれないという。それが恋を実らせるための1要素であるだけならまだいいと思うんです。メディアの誘導の怖い所って、本来の「愛され」から飛躍して「こうしないとまずい」になる所だと思うんです。同じ女性同士で、愛されヘアがきまっている人のほうが何か格上な感じがして、そうじゃない人、日本人形みたいな髪型の人が、本来持たなくてもいい劣等感を持ってしまうような事です。可哀そうですよね。さらに嘘記事が世の中の空気を作ってしまい、男性までが愛されヘアの女の子のほうが格上なイメージを持ってしまったら最悪です。そもそも愛されヘアは男性にアンケートをとったものじゃない嘘記事なのに、愛されヘアが格上という世の中の空気が出来上がると、それが本当に愛されるヘアになってしまうんです。どんどん不自然になっていくんです。本当は日本人形が好きな男性ですら、愛されヘアのほうがいいなとなってしまうんです。そしてもう一つのストレスの原因である、男性からの評価的な目線、それもどんどん不自然になっていきます。むしろ愛されヘアという概念自体が、不特定多数の男性に愛されることが格上だよという意識を広めてしまったのかもしれません。そしてそれが、女性同士の格上/格下という概念にも発展して、そして自然でいる事が不自然になってしまい、普通に暮らしているだけで薄~くストレスがかかる状態になっていったのではないでしょうか。
ちなみにこの当時は愛されヘア的な雑誌だけでなく、個性派向けの雑誌も結構ありました。ケラ!とかキューティーなどがそれです。ポップティーンなんかのギャル雑誌も全盛でした。なので愛されヘア的なキャラだけでなくいろいろ選択肢がありました。…が、いろいろ選択肢があるくらいおしゃれブームでもあったので、そもそもおしゃれじゃないと格下みたいな空気もあったんですよね。そういうところからも、ノーメイクや部屋着で外に出るなんて無理無理というような意識が根付いてしまったんだと思います。なんだかんだ日本人は自分に自信が無く、自然の状態に何かプラスしたくなっちゃうのかもしれません。「見栄」「武士は食わねど高楊枝」みたいな言葉が昔からありますもんね。ちなみに私の妻ちゃんはバンギャ性を持っていたので、ケラ!とジッパーをよく買っていました。これらには愛されヘア的な男性を絡ませる記事は少なかったです。…が、それでも妻ちゃんは自分はださくてきもいに違いないという意識が抜けませんでした。これも男性からの評価ではなく、何か世の中にある格上/格下の概念による意識からなんですよね。
これって女性のほうが強いと思うんです。私は男性向けファッション誌は、高校生の頃からよく読んでいました。でも男性版愛されヘアはそんなにゴリ押しされていなかった印象があります。たぶん現実でもそうですよね、女性は男性の見た目よりも、生活力というか、人としてどうかのほうを重視する傾向がある気がします。ちなみに、私は「杉村くん」でも描いていたとおり、小さい頃から世の中と何かずれている人でした。だからこの愛されヘアにもひっかかりを感じたんだと思います。正直なところ、そういうキメキメの人よりも、ノーメイク&ジャージでコンビニに来るヤンキーの女の子のほうが可愛く見えていました。当時の郊外だとそういう人も結構多くて、それはその世の中の「こうじゃなきゃ格下だぞ!」の雰囲気に嫌気が差している人達だったんだと思います。端的に言えば私と同じく世の中からずれている人達です。なので、可愛いというか親近感があったというほうが正しいかもしれません。本来こういうふうに世の中からずれている人ってもっといっぱいいるはずなんです。感性は人それぞれですもんね。そもそもその「世の中」だって、誘導されて作り出されたものである可能性が高いんです。それは不自然なものですよね。それよりも自然でいたいですし、自然さにはポジティブなイメージがあります。美意識とはポジティブイメージの1要素というだけなので、ノーメイクでまゆげの無い自然な女の子に可愛さや親近感を感じていたわけですね。今でも、妻ちゃんが家でノーメイクで首がビロビロのTシャツで大股M字開脚でソファに座って、よく知らないお笑い芸人のTVを見ながらブヒャヒャヒャと言っているのを心の底から可愛いと思います。不自然だらけだった妻ちゃんの人生で、こんなに自然でいる時間があるのですから。究極にポジティブなイメージというわけです。実に美しいです。
そんなふうに世の中が、自分や他人の「自然」に寛容になればもっと幸せ度が増えると思います。自然とは今回のブログで例に出した見た目の事だけでなく、ふるまいや考え方、生活様式全てです。今は子供ですら妙に礼儀正しかったり、親にむかついて心の中で「うるせーなこのババア」と考えただけで罪悪感が出て来たり、あらゆる動詞の最後に「させていただきます」をつけたり、いろいろ不自然になってしまいましたよね。それと幸福度の高低は関連が強いと思っています。
[おまけ]
私がバイトしていたアパレルの会社は結構面白くて、例えばスーパーイケメンが何人かいたんですが、女子からは結構嫌われていたんです。逆に男性に一番もてていた女の子は、常にノーメイクの中国人ハーフの子でした。八王子からノーメイクで六本木まで来るのです。結局、愛されヘアも何も存在しないんですよね。今よく言われるルッキズムも、異性の目を意識してというよりは、やっぱ格上/格下の意識のほうが強いと思います。そういう対立を煽るのもメディアが仕掛けてきた事なのかもしれません。雑誌やTVは「楽しい」を発信する装置としては非常に優秀でした。今の日本の「楽しい」の底にある意識は、それらがもたらしてくれたものだと思います。それだけに、それらはあくまで「楽しむ」ものであって、「幸せ」、つまり自分の自然さ/不自然さ、自分がどうあるべきかについては影響を受けすぎないよう注意するべきだったんだと思います。
[おまけ2]
私も↑↑に書いたような「不自然」にとらわれていた時期がありました。高校生の頃です。地元のジーンズメイト的なお店からは卒業して、渋谷・原宿・代官山で買い物しないとな!という意識が出て来た頃です。背伸びというか、ありもしないコンプレックスを意識して、格上になろうとしていました。今思えばヤンキー中学から体育会系高校に入って、全然なじめず超・問題生徒になってしまったという不自然さを毎日意識していたのも、大きな理由だったと思います。ファッション雑誌を読んでは、ださい髪型しかできない自分(校則が体育会系なので超厳しい)が嫌になったり、髪型が変だと渋谷だなんだで買った服も似合わないしで完全に見た目に自意識&人生が引っ張られていました。しょっちゅうガッカリしていました。なので逆に高校を卒業して自由にロン毛にし始めてからは、そんなにいろいろ悩む事がなくなりました。どこかで自然になれると心に余裕が出てくるんですよね。ファッション雑誌に対しても「こうならなきゃ!」ではなく、ファッションの背景にある文化のほうに興味がいくようになりました。そして何より、漫画を描き始めたわけです。ジャンプ黄金期を通ってきた世代ですし、美大受験で絵も描いていました。それが組み合わさるのはすごく「自然」でした。これがもし引き続き不自然さにとらわれたままだったら、その組み合わせにたどり着けなかったと思います。この時代の私ネタも結構面白そうなので、そのうち漫画にしますね。