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[漫画&ブログ] オッサンの気づき 第40話 ~終わりに気づいた!~


私はここ何年か毎日、10年後や20年後の事を考えてしまいます。10年後は私の両親は80代です。もう死んじゃっているかもしれません。完全なるおじいさんおばあさんですもんね。私と妻ちゃんのお店が営業を始めてから10年くらいなので、10年後なんてあっというまです。さらに20年後はもう自分がおじいさんです。67歳です。今より体も心も弱っていたらどうなってしまうのかと考えてしまいます。体が弱るぶんにはまあ我慢すればいいだけですが、心の弱りは本当に参ります。これは身を持って感じています。私は今年47歳ですが、こう中年になって人生の折り返し地点を過ぎると、死について意識しだすとよく言いますよね。私が死を考えてどんよりしてしまう理由は、そういう中年あるあるのせいもありますが、何よりここ10年で身近な人を3人亡くしてしまった事が大きいです。3人とも50代で、まだ死んじゃうような歳じゃなかったんですよね。1人は妻ちゃんの父ちゃんで、急に倒れて1年後亡くなってしまうまで毎日介護もしていました。日に日に弱っていく様子を見続けていたんですよね。彼の息子(妻ちゃんから見ると毒兄です)は何のお手伝いもしなかったので、実の息子よりもこの父ちゃんをずっと見ていました。

もう1人は大人になってからの友人で、毎週長いメールを何年も続けていました。時々飲みにも行っていました。10年くらいのつきあいで、急死してしまう2日前もメールをしていました。以前にブログ&漫画にも書きました。

もう1人はそのよく飲みに行っていた居酒屋の店主です。居酒屋を始めて数年でALS(体がだんだん動かなくなる病気)になってしまい、ギリギリまでお店は頑張っていたんですが、結局閉める事になってしまいました。長い事TV番組制作の会社をやっていて、おそらく自分のお店を持つ事が第二の夢だったんじゃないかなと想像しています。それがたった数年で病気でだめになってしまったのです。お客さんと一緒に飲んだりもしていて、一度私の所に来て「なんかもうダメなんだよ…」みたいに言っていた事がありました。私は何のなぐさめも言えませんでした。もっと何か言いようがあったんじゃないかと今でも思い出します。Twitterでもフォローし合っていて、体が動かないのでおそらく音声入力or身近な人に頼んでいたのでしょう、結構まめにツイートをしていました。2022年の10月のツイートが最後でした。

また、以前に漫画に描いた毒島くんのモデルになった友人が、今年母親を亡くしました。やっぱり明らかに元気レベルが下がっていました。身近な幼なじみでそういう事があると、親の死にリアリティが出て来ますよね。それ以外でも、47歳にもなると年齢的に親戚が亡くなってしまう事も多くなりました。若い頃は、ヤンキー地元だったせいで16歳前後で毎年友達の誰かが死んじゃっていました。16歳でオートバイの免許がとれますからね。また、小学校から一緒の女の子が、高校の体育の授業中に急死してしまった事もありました。それこそ1時間前まで普通に斜め後ろの席にいたのに、次の授業の終わりには急死してしまったのです。そういう積み重ねもあってか、死に敏感なのかもしれません。「人は死ぬ」にリアリティを感じるんですよね。

死は基本的に多くの人にとって、悲しかったり恐ろしかったりする事です。それの救いになりえる事は2つあると思います。一つは宗教で、もう一つは子孫です。1つめの宗教は、そもそもの始まりが死への恐怖や人生の悲しみとかに納得感とか落し所を設定するためのテクニックでした。「死ぬの怖い!」→「でも死んだ後は天国があるよ」とか、「毎日辛い事ばっかりだ!」→「まあ人生ってそういうもんだからね」という事です。人間はそんなに強くないので、「こういう事になっているんだよ」と誰か信用度の高い人から言ってほしいんですよね。それがキリストだったりお釈迦様だったりというわけです。現代だってひろゆきとか岡田斗司夫とかゆっくり解説のような、疑問に対して迷いなく「こういう事になっているんだよ」と教えてくる系のYoutubeは人気ですよね。そして彼ら信用度の高い人達が例えば「これからは投資で資産運用したほうがいいよ」と言えばそれを信じますよね。それはキリスト様が「死んだ後は天国があるよ」と言うのを信じるのと仕組みは一緒です。何でもかんでも自分で考えたり調べたりして自分なりの答えを出すのは大変です。誰か信用度の高い人に「こういう事になっているんだよ」と言ってもらって、それを信じていたほうが心配事は減ります。キリスト様やお釈迦様の言う「死んだ後は天国があるよ」を信じていれば、ひろゆき様の言う「投資で資産運用したほうがいいよ」を信じていれば、死への心配もお金の心配も減るし、むしろ天国ってどんなとこだろうとか、どこに投資しようかなというふうに、人生に希望と前向きさが出て来ます。

…が、現代日本では、ひろゆき様の言う事は割と信じても、宗教はほとんど信じませんよね。どっちも一緒なのに宗教のほうだけは、信じる人は心が弱い人認定されてしまいます。でも人間は弱いほうが普通です。アリは自分の身長の10倍くらいの高さから落としてもピンピンしていますが人間の場合は死んでしまいます。アリより弱いです。でもなぜか強いふりをしています。なぜか…というか、近代化する流れで伝統的な宗教を捨て、戦争の時代に入り、敗戦後はお金儲け教になってしまったわけです。そしてそういう流れで宗教を捨てた結果、何かに頼るのはネガティブな事という、現代の自己責任社会になってしまったのではないでしょうか。でもそんな社会になって、みんなちゃんと出来ているでしょうか?宗教が信じられていた時代よりも現代のほうが弱々しく不安がっている社会になっていないでしょうか?昔、仏教がまだ信じられていた頃は、「なむあみだぶつを言いまくっていれば天国に行けるよ」という設定がありました。そっちのほうが気分的にはラクだったんじゃないかという気がします。

とは言え、宗教を捨ててから長い事経ってしまったので、今さらひろゆき様レベルにお釈迦様を信用するのは難しいです。宗教の教えは禁欲的なので、物欲MAXの現代との相性も悪いです。ただ、自分の場合、うっすらと死後には何かあるんじゃないかなとだけは思っています。それだけが今回漫画に描いたような、周りの愛おしい人が死んでしまった後の絶望をやわらげてくれるものです。ミニ救いです。

人間にとって、もう一つ死の悲しみへの救いになるものは、子孫の存在だと思います。子孫というか「続き」ですね。自分単体で終わりではなく「続き」を残す事は地球の全生き物の超基本です。全部の生き物がそれを目標に生きています。目標とか大げさなものですらなく、普通の事です。そして死も同じく普通の事です。「もと」の存在が無くなって「続き」の存在がいる事、どっちも全生き物にとって普通の事です。ごはんをたべるからうんちをするような事です。両方が存在する事でバランスが保たれています。ごはんだけ食べてうんちをしなかったら苦しいですよね。それと同じで、死ぬだけで生まれてこなかったら悲しいです。だから救いなのです。というかこれも救いですらなく、普通の事です。普通なので人間の心理、本能もそれを基本にして出来ている気がします。例えば私は妻ちゃんが死んじゃったらとても悲しいです。でももし子孫がいればかなり違う気がします。それは、自分が一人ぼっちになっちゃうのを避けられるみたいな意味じゃなくて、妻ちゃんが無くなっちゃったけどまだ「続きがある」という感覚です。何かがまだ「続いている」事が救いになるという心理は本能に組み込まれている気がします。生き物にとっての普通を普通にやっているだけですからね。中学を卒業したら友達とバイバイになっちゃうから悲しいですが、次の高校でまた新しい友達ができるからまあその悲しみにとらわれずにすむみたいな事です。中学卒業後にもう二度と友達ができない人生だったら、いつまでも中学の友達とバイバイした悲しみに執着してしまいます。今回の漫画に描いたような、私がこの先とらわれる悲しみは、そういう方向性なんじゃないかなと想像しています。我々は子供のいない夫婦で、さらに自分には甥&姪もいないので、中学の友達とバイバイして終了です。高校にはもう続かないのです。

日本は宗教を捨てましたが、でも完全に宗教ゼロで死を迎えたパターンは基本的にはありません。今でもお葬式は普通はしますもんね。お葬式でお坊さんの念仏の意味は分からなくても、なんだかんだその死への納得感や落し所を設定できている儀式にはなっています。お墓参りも同じです。ほんのちょっとだけですが、宗教が死への救いになるという意味合いは残っています。

…が、子孫ゼロで死を迎えたパターンはまだあまりありません。今死んでいるおじいさんおばあさんの世代はまだ子だくさんの世代ですし、まれに子供がいなかったとしても、甥&姪はいます。おそらく私の世代が、人類初の子孫ゼロで死を迎えるパターン爆増世代なんだと思います。しかも日本限定です(日本以外はここまで少子高齢化ではありません)。前例があれば「なるほど、そういうくらいの悲しみレベルなのね」と事前に対策ができますが、前例が無いので最後になってみないとわかりません。生き物としての普通を逸脱した得体の知れない状態が待っているのです。うんちをしないでご飯を食べ続けるとどうなるか的な事です。

同じような悲しみを、私が両親に体験させる事になるのが、たまらなく苦しいです。あんなに良い人達なのに、なぜそういう目にあわなくてはいけないのでしょうか。私の人格の何十パーセントかは彼らのおかげです。その人格によって妻ちゃんの人生を救えました。人が人の人生を救うって普通はありえない事です。すごい事です。それは私がすごいのではなく、私の両親がすごいのです。彼らはすごくない人でした。だからすごいのです。普通の事を普通にしていただけです。このブログに書いたように、普通の事こそが、生き物の根源に関わる事だからです。私が妻ちゃんに愛情を持てているのは、私が両親から愛情を受け取っていたからです。それも普通の事です。ペンギンでもやっている事です。それができない人間が増えたのは、人間の世界に普通じゃない事が増えてそれにとらわれはじめたからだと思います。私の両親はこの人間の世界でそういう事にとらわれずに普通でいれたのです。尊い事です。でもそれが全部無くなります。本当に悲しいです。この先、両親が死に、実家も処分し、お墓も処分し、一つ一つ自分とその愛する存在がこの世にいた事実を自分の手で消していかなくてはならないのです。特にお墓にはおばあちゃんもいますしね。処分するので私はお墓に一緒に入る事もできません。一緒のお墓にという考え方も宗教の一部ですよね。今想像するだけでため息が出るのに、20年後とかのもっと心が弱った状態で自分は耐えられるんだろうかと不安になります。↑↑でも書いたように、心の負荷は本当に参るというのを知っているのでよけいにです。

現在、私は妻ちゃんと毎日お花畑で遊んでいるような人生です。でも空には隕石が近づいているのが見えます。手元のお花と妻ちゃんを見ていればニコニコしていられますが、ふっと上を見るとゴゴゴゴと隕石が近づいているんです。だから、できるだけぎりぎりまで隕石を見て見ぬふりをするのが、当面の私の人生におけるミッションです。それに有効なのが、一つは薬物です。私は不眠からの強めのうつ病になってしまったので、その薬が手放せません。うつの薬を飲んでいる限りは一応ニコニコしていられます。断薬はこの10年で何度もチャレンジしましたが、結局本質的な問題、特に妻ちゃんの毒家族との関わりが続く限りは、うつの再発は逃れられないんですよね。こういうふうに死へのネガティブな気持ちが増すのも、慢性的なうつ状態による所が大きいです。昔は仕事のしすぎで不眠になったと思っていましたが、いろいろ複合的な理由である事が分かってきました。

もう一つ有効なのが、自己実現です。何か得意分野で自分に集中という事です。たぶん人生に絶望している人は全員そこにいきつくんだと思います。事故で足が不自由になっちゃった人が車いすバスケをするような事です。今年に漫画の持ち込みを再開したのは、それが理由でもあります。以前の漫画では妻ちゃんと毒家族の関わりから距離を置くためと描きましたが、死についていろいろ考えちゃう事から距離を置く意味合いもありました。

自己実現には中毒性があります。うまくいく/いかないの繰り返しは、快楽ホルモンであるドーパミンの放出を促します。タメてタメて…ドーン!の時に出るのがドーパミンですからね。これはゲームとかギャンブルとかアイドルの応援とか風俗とかでも出ます。どれもお金があれば楽しめるドーパミン活動ですが、自分はあまり興味が無いです。なのでDIYドー活である自己実現なわけです。現代は「推し活」と呼ばれるアイドル的な対象の応援がブームです。ギャンブルはゲームと合体してスマホのガチャのゲームになり、みんながプレーするようになりました。風俗に行く人も増えました。ガールズバーとかコンカフェもカウントすれば結構な数です。それって現代にはうっすら絶望している人が増えたからなのかもしれません。宗教も無い、少子化で子孫もあまりいない、だから私のように中毒性のあるものに集中して、ゴゴゴと近づく隕石を見ないようにしている人が多いのかもしれません。これはもう止められない流れですよね。せめて、私は私の後の世代に、宗教ゼロ&子孫ゼロで死を迎えた時メンタルがどうなるかという前例として、何かを残せていければと思います。漫画やブログを描くのもその一つです。いつも読んでくれてありがとうございます。それが毎日を過ごす大きな支えになっています。

[おまけ]
私の両親は孫の顔を見れないまま死んでいきます。孫の顔を見られるのはちょっと前までは普通の事でした。でも今は孫の顔を見られない人は増えています。つまり現代は普通の事が普通じゃなくなったわけです。人間は両手があるのが普通なのに、片手しか無いみたいな事です。片手しか無い事を悲しいと思うかしょうがないと思うかは人それぞれです。ただ、両手があったほうが良いのには間違いありません。普通の事が普通じゃなくなった社会にも、絶望…というか、何かどんよりした気持ちを感じます。

[おまけ2]
実は、今回の漫画のような悲しい気持ちを持つようになったのはここ数年の事なんです。ここ数年急にです。おそらくその理由は、妻ちゃんと毒の家族は一体であった事に気づいちゃったからだと思います。今回の漫画に描いたように我々は人生で一つ一つステージを上がって、私は妻ちゃんと「新しい家族」を築けたつもりでいました。妻ちゃんと二人きりで、つつましく、命ある限り幸せに暮らし、最後私は一人で死んでいく、それで全然OKでした。…が、毒兄が元嫁に憎まれて裁判をおこされた出来事の中で、我々が「新しい家族」になる事は、毒家族もその我々の「新しい家族」に含まれる事でもあると気づく流れがありました。要は妻ちゃんと毒家族を切り離す事はできないと気づいたんですよね。そりゃまあ血のつながった家族なので当然なんですが、私は妻ちゃんとの20年、愛情に何か幻想を持っていたようです。妻ちゃんに入れ込みすぎていたせいで、そのぶん毒親を許す事は出来ないので、切り離せないのであれば毒と距離をとるしかないわけですが、それは妻ちゃんへの入れ込みレベルを下げるという事でもあります。すると「新しい家族」の意識がうすれ、「もとの家族」、つまり両親の事を考える時間が増え、でも20年経ってしまっているので彼らももうすっかりおじいさんおばあさん、そして子孫もいない、大変だというわけです。意外な落とし穴でした。





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