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[#思い出の曲] オッサンの気づき 第22話 尾崎豊に気づいた!について

もともと尾崎豊は好きでも嫌いでもなかったんですが、最近不良カテゴリではなく生きづらさカテゴリで聴いたら、気づくことが多くてグッときました。有名な割に勘違いされやすいシンガーだったのかもしれません。

おまけ漫画

いろいろ大変なことも多いですが、本当は誰も悪くないんだと思います。下へ下へ流れてきた彼らの毒が、最後に私のところに流れてきているのです。それをもとにして漫画を描くことで、毒がお空に消えていくのです☁😇⛅

「盗んだバイクで走り出す」はフレーズだけが有名で、非行だな~昭和は治安が悪いな~とだけ認識されることも多かったと思います。しかし現在、メンタル的な勉強をしつつ改めて尾崎豊の歌詞を見てみると、新しく気づくことがたくさんあったのです。ここで2つ紹介します。

一つめは「シェリー」という曲の歌詞です。

シェリー 俺はうまく歌えているか
俺はうまく笑えているか
俺の笑顔は卑屈じゃないかい
俺は誤解されてはいないかい
俺はまだ馬鹿と呼ばれているか
俺はまだまだ恨まれているか
俺に愛される資格はあるか
俺は決してまちがっていないか
俺は真実へと歩いているかい

尾崎豊 / シェリー 

「他人から変なふうに思われているんじゃないか」と怖がっている様子が表れていますよね。「盗んだバイクで走り出す」のイメージとは真逆だと思います。でも、ここで「盗んだバイクで走り出す」を「すごいハジケ」と置き換えて考えてみてください。本当は自分に自信が無いからこそ、例えば飲み会とかですごくハジケてしまう人、多いと思います。さらに以前読んだ本に「空虚な人ほど空騒ぎをしてしまう」ともありました。騒ぎもハジケの一種ですよね。そして「騒ぎ」は他人とするものなので、空虚な人ほど他人への依存性が高いということでもあります。そして引用した「シェリー」の歌詞も、全て他人からどう思われているかを気にしている、つまり他人への依存なのです。最近だと「他人軸」という言葉もあります。以前にこんな漫画を描いたこともありました。

自信とは、本人の出来が悪い/良いとは関係ありません。出来が悪くても自信にあふれている人はいます。むしろ出来が良い人のほうが周りも出来が良いという環境になりやすく、他人軸になって自信を無くしやすい気がします。

また「すごいハジケ」=「いじめ」となる場合もあります。いじめをするほうです。自分に自信が無い人ほど弱い物いじめをするという意味のことを聞いたことがあると思います。いじめ=マウンティングと考えるとわかりやすいと思います。自分に自信がないから、自分はすごいんだぞ!とムダにアピールするということです。不良の中でもいじめをする不良は自信の無さからのハジケがそっち方面に行ってしまった人なのではないでしょうか。以前、こういう漫画も描きました。

尾崎豊のように「ハジケ」が創作の方面に行くと、文化が生まれます。創作の始まりは個人的な作業ですし、そういう意味でも「他人とか関係ない自分なり」は大事なんじゃないかと思うのです。

二つめは、「僕が僕であるために」の一節です。

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない

尾崎豊 / 僕が僕であるために

私はこれが、アダルトチルドレン特有の「優れていないと自分に価値がない」という思考パターンに見えたのです。アダルトチルドレンとは簡単に言うと親が毒親だった人です。何をしても否定してくる親に、何かが上手く出来た時だけ褒められると、「自分は何かを上手く出来た時にしか価値が発生しない」となります。つまり自分が自分でいるためには勝ち続けなくてはならないのです。実際、尾崎豊がそういう環境だったとか、そういう意図でこの歌詞を書いたのかはわかりません。歌詞全体を読むと、プロの世界に飛び込んだことへの不安についての内容のほうがメインです。ただ、尾崎豊とは別にDragon Ash(こちらも大変人気のバンドです)の歌詞にも似たような一節

強くあることで自分の価値計る

Dragon Ash / Humanity

…が、あるのです。日本は勝ち負けをすごく意識する国民性だと思います。学校の勉強や部活、受験、大人になってからの収入や地位、今だったらフォロワー数とかいいねの数もそうですね。鬼滅の刃が千と千尋の興行収入を超えただとか、あらゆるところで勝ち負けを意識する社会だから、勝ってないと自分に価値がないような気になってしまう空気感があります。そして売り上げランキングという勝ち負けにさらされる音楽業界でトップを取ったこの二者が同じ意味の歌詞を作っていたのは、日本人の多くがうすーく持っているアダルトチルドレン要素からの苦しみを表していた気がするのです。

最後に、おまけ漫画で描いた妻ちゃんの母が尾崎豊が好きなのは実話です。そんなに音楽好きではないのですが、尾崎豊だけはよくリビングから流れていました。そして私の父ちゃんも好きです。二人とも不良とは真逆の人間です。しかし心に傷を負っているという共通点があります。妻母ちゃんは描いた通り毒親の連鎖の一部分ですし、父ちゃんは親が離婚して子供時代は貧乏でした。

不良を題材にしつつ真逆の人にも刺さるという現象は、不良というカテゴリを超えた「人として」の部分を表しているからですよね。そういう作品は尾崎豊や不良カテゴリに限らず、映画でも漫画でもたくさんあります。時代を超えて愛される作品とはそういうものだと思うのです。

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