オートポイエーシスと社会システム論で考える往復書簡論
書かねばならない。
4月に文学フリマに出品するぞ!と決めてからはや3ヶ月。定例はスキップにスキップを重ねて、久々に7/21(金)17時から「同人誌定例」というMTGが始まった。
まだ一文字も書かれておらず、「こういうの書けたらいいね」という話ばかり。11月に開かれるということは逆算すると8月には一旦書き終わり、文字組みや推敲などを9月に行い、10月に印刷。11月に出品というスケジュールだろう。ということはあと1ヶ月。
一昨日、保坂和志の『小説の生成』を読んだ。本の内容は殆ど覚えてないけど、文章などというのは種があればそこから生成するものだろう。それの生成の流れに任せたままの文章が文学、文章の面白さであり、そんな文章を書いてみたいと感じた。
そこには自分が演繹法で考えた文章には出てこない面白さが出てくる期待があるから。自分の中に眠る、根底にある感情を引き出してみたい、だからこそこの文学フリマに出品という締切を設けて文章を書いてみたいのだ。
同人誌定例にでている2人の話を聞いていると「人の話を聞いてつなぎあわせるのが好き」とか「編集が好き」とか言っている。ちなみに僕もそっち側でゼロからイチをつくりだすエネルギーがない。種を生み出さなきゃいけない。だからこの文章を書いている。
生命体と文章生成
生命体を表現する理論として、オートポイエーシス・システムという概念がある。作動することによりみずからの構成要素を産出し、みずからの境界を産出するシステムのこと。
文章生成というのをオートポイエーシス的に考えてみる。僕らは文章を生成するときになにかしらの感情を覚え、それを言葉にする。感情が種になり、それをメタ的に振り返り、感情を覚え、言葉にし、それにさらに感情を覚え、言葉にし、を繰り返す。これによりテキストが生まれ、文章が生まれ、文章の構造が生成されていく。
一方でオートポイエーシスの概念だけで考えると文章というのは一人で生み出すものとなる。しかし、そんなので面白いのだろうか?もっともっと生成が生み出される考え方があるのではないか?
正直言うと、文章というのは個人から生み出されるものであり、個人の意味づけ内でぐるぐる回ってまとまるものが本というものであり、そうじゃない本は面白くないものだと感じていた自分がいた。
しかし、最近思うのは相互触発によって生まれる言葉の面白さというのもあるのではないか、ということだ。
コミュニケーションと文章生成
オートポイエーシスと似たような概念で社会の生成を説明するときにニクラス・ルーマンの社会システム論というものがある。社会システムの構成要素はすべてコミュニケーションだけで成り立っている、という考え方だ。
コミュニケーションがあるから、社会というものが生成されていく。こうすることで、オートポイエーシスでは不可能だった、「個体同士が影響し合うこと」ということが説明できる。
伝達するときに人は言葉を使う。このときの言葉を記録していけばそれは文章になる。こういった文章の生成方法も面白いのではないか。
しかし、1点注意したほうがいいと感じることがある。個人の文章生成を怠り、このコミュニケーションによる文章生成だけにすると、言葉の厚みがなくなる感覚があるのだ。それはなぜだろうか。
一つ大きな違いはここに感情がないことだ。情報と伝達と理解だけで文章は生まれる。これが繰り返されるとそこに感情はなくなり、ルールだけになる。意味は固定化され、次に来る文章は想像がつくようになる。そんな文章は面白くない。
オートポイエーシスと社会システム論を組み合わせる
個人が覚えた感情を元に文章を生成する。それを情報として伝達し、それを理解し、人は感情を覚える。それをもとに受け取った人は言葉を紡ぎ、文章を生成する。オートポイエーシス的文章生成と社会システム論を組み合わせるとそうやって文章が生成される構造が生まれる。
これはいわゆる往復書簡的なものの構造なのではないか。往復書簡の本を読むと時々「あれ、これ全然相手の書簡に対して応えてなくね?」と感じる。時々どころではない、ほぼ全てそう感じる。
しかし、不思議なことにこちらとしてはそれが往復書簡として交換されているのにしっくりくる。論理的につながっているわけではないのに往復している感覚がわかるのだ。そしてそこで生まれている文章は思ってもみなかった生成がされており、こちらの感情を揺り動かす力があるように感じる。
だから、往復書簡をやってみる
テーマはとくにない。僕のこの文章を起点に、応える必要はなく、ただ感じた感情をもとに言葉を紡ぎ、文章を生成する、というルールで今から往復書簡を始める。タイムリミットは8月末日まで。
今Googleで本、文字数、平均で調べたら文庫で平均10~12万字程度。新書で8~12万字程度らしい。10万字を目指すとして、この文章は2500文字くらいなので、これを繰り返すとしたら、40回か。結構長いな。3人で一旦回しつつ、他の人にも協力をしてもらうので12回くらいはこの文章を書くのかもしれない。心してかかろう。
これは義務ではない。やるべき、と思っているからやるわけではない。しかし、文学フリマという締切がある。そこまでに何かしらの文章を生成する必要がある。少しでも面白いものを生み出したい、だからこそこの手段を選んでみた。面白いものになるかどうかはわからない。書き終えられるかどうかもわからない。
しかし、種をつくらないと始まらない。だからこそこの文章を書き、それを次の人に情報として伝達し、理解をしてもらう。そこで感じたことを元に文章を書いてもらう。あれ、というか2500文字程度だとするとこれ毎日レベルで書かないと8月中に終わらないのでは?
5万字を目標にしよう。50000÷2500=20回。3日1回ペース。そうすれば、大体文庫本サイズで9000文字くらいで20ページらしい。なので、100ページ。それくらいは書いてみよう。そこで生まれた文章を後で眺めよう。それを楽しみに。それだけの文章が、1ヶ月後に生成されることを願ってここで筆を置く。