多数派原理主義
未だに忘れることのできない、ドラマのラストシーンがあります。
それは何のドラマで誰が出演していたかも覚えていない、40年以上昔、子どもの頃に見たドラマでした。
覚えているのは、主人公が女性で、何らかの事件を追っていたということ。サイコパス的な、でも天使みたいに可愛い少女がいて、その子が犯人。だけどそれを知るのは主人公と視聴者のみ。主人公がその子が犯人であることを訴えても誰も信じないのです。
で、その少女の策略によって真実を知る主人公が頭がおかしいことにされて最後には精神病院の病棟に収容されてしまいます。
ラストシーンは、その病棟の窓の鉄格子から主人公が外を見つめるシーン。その視線の先には主人公の元恋人と仲良く手を繋いで散歩する少女の姿。美しい森の風景なのにとても怖かったのを覚えています。
まだ子どもだったわたしは、「ほんとうのこと」や「正しいこと」が結局のところ多数決なんだ、と絶望的な気持ちになったのだと思います。
ほんとうは狂っていないのに、その少女を犯人だと訴え続けたことで狂人とされてしまった主人公。彼女の味方をする人はいなくて、恋人でさえ、主人公でなく少女を信じたのでした。
怖いなあ。あれは怖かった。
大人になってからも多数決で正しいことが歪んでしまう瞬間を何度も経験しました。
もちろんドラマみたいに白黒決まっているような事案でなく、大抵のことには「ほんとうの正しさ」なんて何処にもなくて、例えば経済を優先する人と環境や健康を優先する人との正義は違うわけで、どの正義を採用するかという話なんだけど、それもまた多数決なんですよね。
わたしは、学校で多数決を取るといつも少数派で、何でだろう、と不思議に思っていました。
空気を読んだりせずに、自分の頭で考えることが大事だと思っていたので、きちんと自分なりに考えたうえで手を挙げるのですが、そうすると大抵少数派で負けるのです。
多数決のとき、とりあえず多数派になることを目指して手を挙げる人がいるのだ、ということを大人になってから知りました。
空気で物ごとが決まる社会はこうして作られているんだ、と妙に納得したのを覚えています。
その人達にとっては、まさに多数派であることが正義ということです。
そこで少数意見をぶち込んでくるわたしみたいな存在は、簡単に云うと「悪」だということになります。
小さい頃にみた、あのドラマが脳裏をかすめて、狂人扱いされない程度に加減してしまう。そんなのはよくないけれど、本音を飲み込んでしまうことも多いです。本音は捨てないですけどね。
いまの世の中は、おかしな方向に多数派を引っ張って、公然と正義をひっくり返すようなことが日常的に行われています。
国会ではほんとうのことを云った人があからさまに恫喝されて、発言を訂正させられたりします。国民の多数はおかしいと思っても、国会内の多数はそれを支持しています。
そういえば311からは怖がることも多数派であることが必要になりました。
社会は「風評被害」というパワーワードで、何かを怖がる人を狂人にすることができるようになったからです。
でも怖がるネタによっては狂人扱いされないのがとても不思議で、例えば高いところが怖いからタワマンに住めない、というのは大丈夫みたい。
今はまだCOVIT-16を怖がっても狂人にならないようですが、これだってある日を境に変わるのかもしれませんね。オリンピックも近いですし。イベントの自粛を表明したら「ただの風邪なのに」とか云われて「正しく怖がる」系の人達に狂人扱いされる、なんてこともありそうです。
今はマスクしないで咳をした人が非難されるけど、そのうちマスクして出歩いたら風評被害と非難されるなんて、いかにもありそうな話です。
煽られたり、狂人扱いしたり、この世の中でバランスを取ることはなんと難解なことでしょうか。
そして思うのです。
誰かにコントロールされた感情で、空気を読み、多数派になり、普通の人で居続けることと、世の中の変化に伴って変わらない自分の思考が狂人認定されるのと、どちらが幸せなんだろうと。
多数派原理主義に迎合できる人の方が幸せかもしれない。
でも、それは嫌だな。うん。
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