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君の名は

─これはオオイヌノフグリ、これはハコベ、これはホトケノザ。

まだ娘が小さい頃、散歩中に知っている花に出会うとその花の名前を娘に教えるようにしていました。
というのも、わたし自身が小さい頃、花や木や動物の名前が知りたい子どもだったからです。
自分がそうだったので、子どもはそういうものなのかと勝手に思っていたのですが、娘は花の名前には全く興味がなく、教えた花の名前は次の春になるとすっかり忘れられておりました。

そんな嘆きを男女のお子さんを持つお母さんに話したところ

─物の名前が知りたいのは、女の子より男の子に多いんじゃないか。

という仮説を頂きました。

そのお母さんの息子さんは、水族館に行くと一生懸命水槽の中の魚と、プレートの名前を見比べて、魚の名前を把握しながら展示を進むのだそうです。

対して、娘さんは好き嫌いがはっきりしていて、興味のない水槽はどんどんスルーして、自分の観たいものに向かって突き進むイメージで水族館を消化するのだそう。

少し驚きました。
というのも、その娘さんと、小さい頃の娘がそっくりだったからです。
確かにラッコやカワウソのコーナーにたどり着く前の水槽は殆どチラ見程度。
うちの子は魚には全く興味がないなあ、と行くたびにがっかりしたものです。笑

その人が言うには、男の子は図鑑が好きな傾向があるし、女の子は物語が好きな傾向があるのだそう。

─男の子脳とか女の子脳なんて括るわけじゃなくてね。ほら湯川さんも実際名前が気になる子だったわけで。性差ではなく個人差だけど、ただ傾向としては湯川さんは男の子的だよね。

少し言葉を選びながらも、娘よりわたしの方が変わった女の子だったのだと、その友人はわたしに教えてくれたのでした。

まあ、思い当たる節がないわけでもないんです。

例えば

─妻が夫に求めているのは、解決力でなく共感力である。

というのを何処かで見聞きした時、

─え。共感力いらん。解決策欲しいけど?

と、違和感しかなかったですし。

まあこういうのは友人が言うように性差ではなく個人差なんだとは思いつつも、そうか友人が求めてたのは共感力だったのに、わたしは解決策を必死に考えていたなあ、と少しばかりショックを受けたりしたのでした。

—-

そういえばわたしは、花や木の名前を沢山知っていて、それを教えてくれるようなパートナーが理想でした。
夫は残念ながらそういうタイプではなかったので、娘も父親に似たのかもしれません。

ただ夫と暮らす中で、花の名前を知らない人も、名前を知る人と同じように花を綺麗だと感じている、ということを知りました。固有名称を知らない=無関心、というわけでもないのだなと。

娘が生まれた時に、殺伐とした世の中であっても綺麗なものを綺麗だと感じられる子になって欲しい、と強く思ったものでした。

名前を知っているかどうかは、大きな問題ではないのかもしれません。娘よ、がっかりしてごめんね。

わたしだって、その時名前を調べても、歳だから次の日には忘れてしまうことも多くて、どうせ忘れるのにどうしてその名称が気になるのか、自分でもよく分からないのです。

しいて言えば、
知らないことを知る、という喜び。
たとえ忘れてしまうのだとしても、その刹那の快感をわたしは求めているだけなのかもしれません。

—-

写真は、土佐水木。
昨日山歩きで見つけた黄色い花。マンサク科だそう。

桜も木蓮の蕾もふくよかではあるけどしっかりとした蕾で、まだ冬枯れの木が多い中で、力いっぱい春を主張して咲き誇っておりました。

いちいち花の名前を調べるわたしを、夫はちょっと迷惑そうに待っていて、「トサミズキだって!」というわたしの報告にも興味なさそうに空返事を返すのだけど、それも含めて、土佐水木と凸凹な夫婦の居る風景としてわたしは記憶に落とし込むのでした。

花や木の名前を次々と教えてくれる理想のパートナーとはだいぶ違う夫ですが、わたしにはGoogle先生がいるので大丈夫。ここは山歩きに付き合ってくれるだけで有り難いと思うことにします。


遠くにはウグイスの声。


混沌とした世の中の、片隅の春です。

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