ドッジボール

球技はみんな苦手でしたが、そのなかでもドッジボールはほとんど恐怖でした。逃げて、逃げて、ひたすら逃げる時間。
ボールもそれを投げる友達も、みんな怖かった記憶しかありません。

どうしてあんな野蛮なスポーツがみんな好きなんだろう?という疑問はこの際置いておくとして、今日はドッジボールにまつわる思い出の話です。

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ドッジボールをするとき、内野の真ん中で外野から投げつけられるボールを、いとも簡単に身体全体で受け止めているひとたちがいました。

わたしはいつだってそのひとたちがボールを
受け止める姿を羨望の眼差しで見つめていました。

 気持ち良さそうだなあ。

逃げ回らないで、ボールの前に立ち、ボールをよく見て、ボールの落ちるところに身体をもっていけば、それはわたしにも簡単にできそうに思えました。
だからドッジボールが終わるといつも「今度は腰を落として、真っ正面から取ってみよう。」とそのたびに決心したものです。
でもどんなに決心しても、それが成功したことはただの一度もありませんでした。
自分めがけてボールが投げつけられると、身体が固まってしまって、手も足もでなかったのです。

たまにチャレンジしても思いっきりボールにぶつかるだけで、外野(そこはわたしにとって安全地帯だけれど)に追い出されてしまう。
ぶつけられれば痛いから負のスパイラルでどんどんボールに立ち向かえなくなり、気がつけば逃げ回る時間に逆戻りです。典型的な運動が苦手な小学生ですよね。

 ドッジボールなんかキライ。

でも身体全体で真っ正面からボールを受け止めることへの憧れは、反比例して強かったと思います。何なら今でもわたしはしょっちゅう、ボール
を受け止めるイメージを心に描いているのです。
あの頃のイメージトレーニングのクセなのか、道や職場の中を歩いているとき、誰かを待っているとき、時と場所を選ばず唐突にそのイメージは浮かんでくるのでした。

受け止めたこともないのに、すっぽりとボールが身体に収まるイメージは、とてもリアルで気持ちがいいんです。
もしかするとわたしにとってボールは、抱きしめたくても抱きしめられないものの具象なのかもしれません。

いろんな瞬間に、わたしはいろんなものを抱きしめたくなります。
すごく衝動的な欲求だけど、とりとめのない感覚。でも気持ちのいい感覚。だいたい何かを抱きしめることって、無条件にしあわせな感覚だもの。

抱きしめてみたいものについてあれこれと考えを巡らせているうちに、いろんなものを思いつきました。

わたしを見ると狂ったように吠える夫の実家の犬。
いつかの夏のほたるの群生。
南の島のスコールのあとの虹の橋。
飛行機の下に見えたクリームみたいな雲。
片想いだったひとの背中。

みんな抱きしめたくても抱きしめられないものばかり。

ただ、一番手が届きそうで、決して届かなかった、という意味においてドッチボールのボールはすこし特別で思いも強いのかもしれません。
とくにあの頃のわたしにとって、内野の真ん中でボールを受け止めることは、髪型よりも、学力テストよりも重要な問題でした。

ほかの誰かにはうんと当たり前にできること。なのに、わたしには一度も叶わなかった憧れ。神様は案外クールで不公平なんだ。そんなことを悟ったりして。

 ドッチボールなんかキライ。

堅くて冷たいボールは大キライで、だけどそれを受け止めることは一番の憧れでもありました。

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