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短編小説「憂鬱の神様」
・・・もう疲れた、もう限界だ、何もかも嫌だ
溶けた泥人形の様に重い体を横たえた僕は、六畳一間のアパートの部屋で電灯も点けずに唯々暗い天井をぼんやりと見ていた。いくら寝ても取れない眠気、常に覆い被さる様にのしかかる倦怠感、目の奥にじんわりと潜む頭痛。
連休明けの最初の出勤を終えて漸く自分の部屋に辿り着くことが出来た僕は、スーツ姿のまま固いフローリングの上に寝転がり、バッグを放り投げて浅い呼吸を続けた。
「明日から連休だ」と喜びに浸っていた四日前の退勤時の自分が羨ましくて堪らない。連休中に何をしようかとあれこれ考えたが、結局だらだらと動画サイトやDVDを観ながら菓子類を食み、即席ラーメンを啜る三日間だった。休みには自分のしたいことをしよう、と意気込んでいても、いざその時になると日頃の仕事で溜まった疲れが一気に押し寄せて、何もする気にならないのがいつものオチである。
不意にポケットに入れていたスマホがぶるりと震え、徐に画面を覗き込むと、プレゼン資料の修正と提案していた新企画の没を報せる上司からのメッセージが届いていた。そして、『これからリモート会議できるか?』とも。
急に目眩がした僕はスマホを持っていた手を静かにフローリングに落とすと、ゆっくり目蓋を閉じた。
・・・あぁ、もう終わりにしようか
生活のために働き、働くために休み、そしてまた生活のために働く。自分の時間を使って仕事をすることによって賃金を得て、その賃金で営む生活によって作られる時間を使ってまた働く。いつまでも終わらない無限ループのラットレース。
床に貼り付いていた身体をなんとか起こし上げ、着信でぶるぶると震えるスマホを無視したまま、僕は夜風の吹くアパートのベランダまで歩いて行った。三階にある部屋のベランダから下を覗いて見ると、大して高くないその場所からは下の路地にほんのりと白い光を零す自動販売機が見えた。
一年前の今頃、まだ新入職で仕事を覚えるのに必死だった僕は、自分の限界を超えて毎日出勤していたことに気付いてすら居なかった。そんな余裕もない。
唯、二年目になって久方ぶりの連休を終えた現在、不意に様々な思いが波の様に押し寄せて来ていた。
・・・僕は何をやっているんだろう
ベランダの手摺にもたれて夜風に吹かれていると、いつの間にかボロボロと涙が零れ落ちてきた。遠くで救急車のサイレンが鳴り響いている。僕が日頃使う電車の沿線上で昨夜、人身事故があったという報道を今朝のネットニュースで見た。
・・・憂鬱だ、この世は憂鬱に溢れている
どんよりと曇った夜空にベランダから飛び降りる気力も無くなった僕は、ずるりと冷たいセメントの上に座り込むと、部屋の中でまだぶるぶると震えるスマホの灯りをぼんやり眺めているのだった。
——§——
「四秒で息を吸って、八秒かけてゆっくり吐くんだよ」
目蓋を閉じた暗がりの向こう側から、透き通る様な声が聞こえて来た。僕は不器用に呼吸を繰り返しながら、薄く目を開けてその声のする方を見た。
そこには、制服姿のまま座禅を組んで目蓋を閉じている亜希の姿があった。彼女は椅子に座って見事なバランスを保ちつつ、ゆっくりとした呼吸を続けていた。その姿がとても美しく、僕は思わず目蓋を閉じた彼女の姿に見惚れてしまっているのだった。ちくたくと進む時計の秒針の音に合わせ、呼吸する亜希の肩が四秒、八秒でゆったりと上下する。
放課後、クラスの皆が帰ってしまった教室の端で、僕と亜希はこうして毎日座禅を組むことを日課としていた。かつて一週間ほど不登校になっていた僕が久しぶりに出席した時、
「いいこと思い付いたの」
と突然彼女が僕に語り掛けて来たのがきっかけだった。
彼女の思い付いた「いいこと」というのが、今僕らがやっている座禅である。二、三十分ほどの静かな時間。ひたすら呼吸に集中して、心の揺らぎを整える。最初、僕は見様見真似で亜希との時間を過ごしたが、日を重ねる内にいつしか自分の気持ちが落ち着きを保てる様になり、不思議と頭がすっきりとする感覚を覚える様になっていた。
今日の座禅が済む頃、集中して閉じていた目蓋を僕がゆっくり開くと、先に目を開いていた亜希がジッとこちらを見ていた。心なしかほんのりと頬を赤くした彼女はにこりと笑って見せた後、一度小さく咳払いをした。
「憂鬱さや疲労感はエネルギーの枯渇を教えるメッセージ、痛みや恐怖は生命の危険を知らせる警告。『負』とされているものにあなたは苦しみを感じるかもしれないけれど、それらの感覚はあなたにとっての敵ではなくて、味方なの。あなた自身を大事にして欲しいっていう身体や脳からのメッセージなんだよ。あなたの役割は『心』を落ち着かせて彼らの声に耳を澄ますこと」
静かな夕暮れの教室に、亜希の声がそっと舞った。
——§——
気付けば震えていたスマホはいつしか沈黙し、吹き抜ける夜風が僕の身を冷やしていた。一度小さく身震いして部屋の中に戻った僕は、拾い上げたスマホの待ち受け画面に、上司や恐らく彼が連絡して心配したのであろう同僚らからの不在着信通知が残っているのを見付けた。「大丈夫か?」というメッセージも届いている。僕はその一つ一つに返信し、今日は体調が優れないことを伝えた。そして、「明日、お話ししたいことがあります」と上司にメッセージを送り、そっとスマホの電源を落としたのだった。
その後、灯りを消したままの狭い部屋の床で静かに座禅を組んだ僕は、そっと呼吸を整えた。
・・・身体や脳は、今何と言っている?
すー、はー、と呼吸を繰り返して行く内に、次第に僕の心は元の形に戻ろうと整い始めていた。
その一か月後。僕は自分の担当していた仕事の引継ぎを終え、約1年と三ヶ月務めた会社を退職した。同僚や上司に引き留められたが、僕は心で聞いた自分自身の声を信じてみることにしたのだった。
不要なものは全て売り払い、アパートを退去した僕はそのまま飛行機に乗り込んで南の方へ向かった。
辿り着いた空港では、軽く日焼けした肌に満面の笑みを浮かべた亜希が手を振って僕のことを待ってくれていた。久方ぶりに連絡してみた彼女は、南の島国の小さな町でヨガのインストラクターやカイロプラクターとして働きながら一人でのんびりと生活していた。
「あの時、自分の声を聞いてねって私は教えてあげたのに・・・随分時間がかかったのね」
と悪戯っぽく笑う彼女に、僕は苦笑しながら頭を掻いた。あれから時間が経って二人とも大人になってしまったが、あの時の懐かしい空間は今でもすぐに取り戻すことが出来ることに僕は気付いた。
ハイビスカス柄の散りばめられた白いワンピースを纏った彼女に、僕は自分の胸の奥で静かな鼓動が走り出すのを感じていた。
「また、君と一緒にいたい」
僕がそう言うと、手を後ろに組んだ亜希が照れ臭そうに頬を赤らめながらにっこりと白い歯を見せて笑った。
「また、ここからだね」
南国の太陽が暖かく照らし出す大地を亜希と歩む内に、僕の背中にずっとのしかかっていた重いものが姿を消していることに気付いた。濃い緑や赤や黄色の野菜、果汁滴る果物、新鮮な魚介や精肉。何処までも広がるコバルトブルーの海、見上げる程に高い大空。
今だからこそ、僕はそれらの美しさに心を溶かすことが出来るのかもしれない。
憂鬱さや焦り、苛立ち、劣等感。僕は彼らが嫌いで堪らなかった。自分を苦しめる悪の権化とさえ思っていた。しかし本当は、彼らは何かのメッセージを僕に伝えたかったのだ。
・・・本当は、どうしたいんだい?
ふと嫌な感覚が沸き起こった時、そんな声が僕には聞こえるようになっていた。そしてその答えはずっと、自分の心の奥深くで掴み上げてくれるのを待っている。
南国に来たからと言って、それで「めでたし、めでたし」なんてことにはならない。こちらで新たな仕事を探すつもりでいるし、生きていれば何度でもまた憂鬱や疲労感などの嫌な感覚に襲われる。でもそんな時、僕は静かに座禅を組んで呼吸を整える様にしている。そうすれば「彼ら」の問い掛ける声が鮮明に聞こえ始める。その後にゆっくりと自分のこれからの行動を考えてみればいいのだ。
彼らはいつだって、すぐに自分を見失ってしまう僕の事を傍で見守ってくれているのだから。
〈 終わり 〉