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短編小説「月下美人」
残暑が漸く下火になる十月の初旬頃、僕は一ヶ月前に生まれたばかりの息子と妻を連れて、久方ぶりに実家に帰省した。田園風景が目前に広がる静かな人里の中にひっそりと佇んでいる古い一軒家が、高校生まで生活した懐かしき我が家だ。予め知らせておいたものだから、実家の玄関先では両親が首を長くして僕らの乗った車が到着するのを待ち侘びていた。初めて顔合わせする初孫に両親はいたく喜び、僕と妻も心からの歓迎を受けるのだった。
その日の夜、久方ぶりに父との晩酌を楽しんでいると、徐に立ち上がった母がリビングの窓とカーテンを閉め始めた。酒に火照った体には夜風が気持ち良かったので、
「母さん、開けといてくれよ」
と僕が言うと、母は少しだけ曇った表情をした。不思議に思った僕がそんな母の顔を見ていると、焼酎が僅かに残ったコップを静かに置いた父が小さく咳払いをした。
「実はな、佑介・・・」
静かに語り始めた父の表情も翳っていたので、僕もコップをテーブルの上に置いた。寝息を立て始めている息子を抱いた妻も、そんな僕らの様子を不安気に見ていた。
父の話によると、一ヶ月程前から夜が更けると奇妙な歌を歌いながら民家の間を練り歩く一人の女が現れるという。不気味なその歌声に住民達は酷く怯え、地元警察に相談した様だが、警察官がパトロールを行っている間や通報により駆け付けた時には霧の様に姿を晦まして所在が分からなくなるそうだ。誰もその姿を見た者はおらず、そぞろ歩く女の足音と不気味な歌声だけが静かな夜の人里を歩き回るらしい。それは決まって夜の8時過ぎ頃から始まる為、時間が迫って来たのを見計らった母が窓とカーテンを閉めたのだろう。
「悪戯じゃないのかな?」
聞いた話に苦笑しながらそう言う僕とは裏腹に、腕を組んだ父は眉間に皺を寄せて小さく首を横に振った。
「悪戯にしては余りにも執拗だし、誰一人として姿を目撃していないというのが奇妙だ。これはもしかしたら、人の仕業じゃないかもしれない」
僕は父の言葉にごくりと生唾を飲みつつ、思わず前のめりになった。
「待ってくれよ、父さん。それじゃあ、まるで亡霊か何かが彷徨っているみたいな言い方じゃないか」
すると、そんな僕らの会話を聞いていた母が「やめて、二人共」と言った。
「時間が過ぎれば歌も止むから、それまで窓を閉めてやり過ごせばいいの」
珍しく語気を強める母の姿を、僕は久しぶりに見たのだった。しばらく皆が口を閉ざして静まり返った食卓は、時計の秒針の音だけが響いていた。
と、その時。静寂の向こう側から遠く歌が聞こえ始めた。耳を澄ますと、それは思わず身が震える様な不気味な女の歌声であることが分かった。咄嗟に立ち上がった僕は「やめなさい、佑介! 出てはダメ!」と言う母の声も聞かず、玄関へと急いで向かい靴を突っ掛けた。
・・・一体、何だっていうんだ?
勇む足がもつれない様に歩み進んで玄関の扉に手を掛けた時、
「佑介!」
と背中に父の声が飛んできた。ゆっくりと背後を振り返ると、暗い廊下に佇んでこちらを見ていた父は何故か寂しそうな表情を浮かべているのだった。小さく息を吸った僕は、そんな父から徐に視線を外し、玄関の扉を開いた向こう側に足を踏み出すのだった。
——§——
僕は幼い頃、両親と手を繋いで地元の夏祭りへよく遊びに行った。浴衣を着た父と母に挟まれて、夏の帳を照らす大きな花火を見上げるのが毎年の恒例になっていた。そんなある年の夏、小学生になった僕は両親とではなく初めて友達らと夏祭りに遊びに行った。駆け回る友達らにいつの間にか置き去りにされた僕は、祭りの明かりからやや離れた木陰に腰を下ろして火照った寂しさが涼み行くのをジッと待っていた。すると、
「坊や、一人?」
と声を掛けられた。驚いた僕が顔を上げると、そこには白い浴衣を身に纏った綺麗な女の人が身を屈めて僕を覗き込んでいた。知らない人に声を掛けられたら逃げる、と小学校で教えられていたが、その女の人の余りにも柔らかな笑みを見ていると不思議に寂しさが落ち着き、「友達らとはぐれちゃった」と僕は答えているのだった。「そうなの」とだけ言ったその女の人は、僕の隣に柔らと腰を下ろして、「私も大事な人とはぐれちゃったの」と言った。僕はそんな彼女の横顔を見て、
「大丈夫?」
と訊ねた。その女の人は何も答えなかったけれど、静かに僕に微笑んでいた様に思う。
しばらく夜風に当たっていると、ごそごそと女の人が何やら袖元を探り始めた。ジッと見ていた僕の目の前に彼女が柔らと差し出したのは、二つの線香花火だった。
「これで一緒に遊びましょ」
思わず喜びの声を上げた僕はその内の一つを貰い、それぞれ指先に摘まんだ二つの線香花火にマッチで火を灯した。しぱしぱと火の粉の花弁が咲き乱れる様子を見詰めながら、僕は時折その女の人の顔を横目に見ているのだった。
線香花火の火の玉が地面に落ちてしまった時、気付けば隣にいた筈の女の人は居なくなっていた。背の高い木の葉っぱが夜風にさわさわと揺れる音がして、徐に立ち上がった僕は辺りの暗がりを見渡した。しかしそこには誰の姿も無く、祭りの賑わう音が明るい所から暗がりへいつまでも流れ込んで来ているだけだった。
——§——
半端に履いた靴に足を取られながら、玄関先を経て小走りに通りに踊り出ると、月明かりに照らされた道の向こうからゆっくりとこちらへ歩いて来る人影が見えた。その人影はあの不気味な女の歌声を携えていたが、よくよくその歌を聞いてみると、まるで子供をあやす子守歌の様に思えた。誰もその姿を見たことがないという女の声が人影と共にじわりじわりと僕の方へ近付いて来る。僕はごくりと生唾を飲み込んで思わず身構えながら、その姿がはっきりと見えるまでじっと目を凝らしていた。
月明かりの木陰を抜けて僕の目の前に現れたのは、子供の頃に夏祭りで会ったあの女の人だった。白い浴衣を身に纏い、夜の帳に歌声を響かせていた彼女は僕を見付けると、柔らに歌うのを止めて微笑み掛けて来た。
僕は無意識の内に、目元がじんわりと湿るのを感じた。
「大人になったね、佑介」
白い浴衣の女の人が小さな口を開いてそう言ったので、僕は彼女の目を見詰めながらそっと言葉を溢した。
「歌っていたのは、あなただったのですね・・・」
すると彼女は寂し気な表情を浮かべて何度も小さく首を横に振った。
「ごめんね・・・あの時私、どうすることもできなくて・・・まだ赤ん坊の佑介を置いてけぼりにしてしまって」
もう二度と会うことはないと思っていた実の母を目の前にして、僕は高校生の時に里親である今の両親から見せて貰った一枚の写真を思い出していた。その写真に映っていたのは生みの親である両親で、その二人の姿を初めて見た時、夏祭りの夜に僕に語り掛けて来たあの女の人が僕の実の母であったことに気付いた。
里親の両親から聞いた話で、僕の実の父は母と赤子の僕を置いて失踪し、当時まだ学生で若かった実の母は仕事を得られず僕を育てられないという理由から、赤子の僕を養護施設に預けてそのまま行方が分からなくなってしまったという。その後、僕が大学生になる頃、実の父は病気で、母は僕を養護施設に預けてすぐに事故で、二人とも亡くなっていたという話を聞かされた。僕にとっての両親は里親の二人なので、実の両親が他界していたという話を聞いても、当時は何の実感も湧かなかったことを今でもよく覚えている。しかし、目の前ですっかり黙り込んでしまった実の母の姿を見ていると、後から後から色んな感情が沸き起こって来る。今、目の前にいる母が既にこの世の者でないことにも僕は気付いていた。
「どうして、こんな所で歌なんて・・・」
と訊ね掛けた所で、僕はある事に気付いた。母が歌っていた歌は、まだ養護施設にいる時にぐずった僕をあやそうと職員の一人がいつも歌って聞かせたていたものと同じだった。後から聞いた話で、それは僕を預けに来た若い母から職員が教わったという母の故郷に伝わる子守歌だった。
里親に迎えられる直前の2歳半ばの頃のぼんやりとした記憶が蘇って来た僕は、目の前にいる母の亡霊に小さく哀しい笑みを浮かべて見せた。
「もういいんですよ・・・もう、いいんです」
静寂に包まれた月夜の空で、薄っすらとした幾つかの雲が風に流されていた。その時、
「佑介くん」
という僕を呼ぶ妻の声が聞こえた。振り向くと、そこには心配して家から出て来た両親と静かに眠った息子を抱いた妻が佇んで僕の事を見ていた。両親は亡霊となった母の姿を見て言葉を失い、今にも卒倒しそうな様子であったが、僕は静かに妻の元へ歩んでいくと、寝息を立てている息子を優しく抱き取って実の母の元まで連れて行った。
「一ヶ月前に生まれた、僕の子です」
そう言って眠った息子の顔を見せてやると、母はボロボロと涙を零し始めた。
「ごめんね・・・許して・・・許して頂戴ね」
そう言いつつ震える細い手で息子の頬に触れようとしたが、母はその手をそっと引くと、何やら柔らかな笑みを携えたまま夜の帳へと霞の如く姿を消していった。
見上げた夜空の雲はいつしか全て流れ行き、そこにはまん丸な月だけがぽっかりと浮かんでいるのだった。
それから半月が経つ頃、僕は実家の両親からの電話で夜に彷徨う不気味な歌声はあの日以降すっかり聞かなくなったという話を聞いた。不思議がった住民達は訳を知りたがっている様だが、両親は決して誰にも事の真相を話すことは無いのだろう、と僕は思う。
そして、あの日の晩に母の亡霊が涙を落とした道沿いには、一夜だけ大きな白い花弁を開かせる美しい花が咲いたという。
その花の名は・・・。
〈 終わり 〉