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短編小説「Good Dream」

 私は眠るのが不得意だ。皆が寝静まり、SNSのタイムラインが閑散とし始める頃になっても、お望みの甘い眠気はちっともやってこない。ベッドの上でごろごろと何度も寝返りを打ち、耳に付く鼓動にだんだんと嫌気がさしてくる。部屋の明かりを消して目蓋を閉じたところで、そこには真っ暗闇な視界が広がるだけだ。私の意識は何処へも落ちて行かない。ただふわふわと浮かび続けるばかり。そんな毎日が、もう何年も続いていた。

 ある月明かりの夜。いつもの様に眠れずにいると、開けた窓から吹き込んだ夜風が、不意に私の部屋のカーテンをさらりと撫でていった。ベッドから起き上がり、窓辺に寄って夜空を見上げる。今日は満月だった。
 二階にある私の部屋から見える街には、物静かな白い月光が降り注ぎ、寄り掛かった窓辺にも、シルクの様な肌触りの柔らかな光が零れ落ちていた。涼やかな風が私の前髪をさらりと流す。頬杖を突き、美しい夜景に思わず溜息が零れた。
 ……みんな今頃、ぐっすり眠っているのかな
 ひとつ大きな欠伸を零す。ぼんやりとした頭で私はふと思い立った。どうせ眠れないのなら屋根にでも昇って、月明かりの街を眺めていよう。
 窓から身を乗り出し、その下にある小さな出っ張りを足場として私は家の屋根へとよじ登った。思った以上に身は軽く、易々と天辺に辿り着く。
 ふと、屋根の上に一羽の大きなフクロウが留まっているのに気付いた。大きいと言っても、サイズは私と同じくらいで、奇妙なことにその頭にはシルクハットを被っていた。
「やぁ、こんばんは。可愛いお嬢さん」
 シルクハットを脱いで挨拶した彼に、私も「こんばんは」と戸惑いながら返した。
「こんな夜更けに、どうしたんだい?」
 と訊ねられたので、
「……眠れなくて」
 と私は答えた。すると彼は翼で足元の屋根をとんとんと叩き、
「隣においで、君が眠くなるまでお話をしよう」
 と言った。私は恐る恐る近付いていき、彼の隣に腰を下ろした。
 フクロウの彼は夜空に浮かぶ真ん丸な月を見上げて、「とても美しい夜だね」と言った。「本当ですね」と私が返すと、彼はくるると喉を鳴らした。
「夜になると星空が見えるって多くの人は言うけれど、それは少し違うんだ」
「……どう違うんですか?」
「星空じゃなくて、宇宙が見えているんだよ」
 彼はまるで微笑む様に目を細め、月の浮かぶ空を眺めていた。
「宇宙ですか?」
「そうだよ。昼間は太陽の光で見えないけれど、夜になると僕達がいる本当の場所が分かるのさ」
 そう言う彼の隣で、私も夜空を見上げ、
「じゃあ夜空は、とても大きな天窓みたいなものですね」
 と言うと、フクロウの彼は柔らかく微笑んで見せた。

 それから私達は色々な話をした。宇宙のこともそうだが、哲学や絵画、小説、映画、果ては数学や物理学、量子力学の話なんかを止めどなく。フクロウの彼はとても物知りで、私が知っていることの更に何十倍も詳しく知っていて、彼と話をするのはとても楽しかった。

 気付けば東の空が薄っすらと明るくなり始め、天辺にいた月が今では西の空に沈みかけていた。少しだけ眠気がやって来ているのを感じたが、これは結局、明け方に来る僅かな眠気と瞳の乾燥であって、やはりぐっすり眠れるものでないということを私は知っていた。
 屋根から滑り落ちない様に注意深く立ち上がり、大きく背伸びをした。
「ありがとう、フクロウさん。私、そろそろ部屋に戻らなきゃ」
 目を擦りながらそう言うと、フクロウの彼は、
「楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうね」
 と少しだけ寂しい顔をして見せた。
 私が笑顔を浮かべつつ、彼に手を振って部屋の方へ戻ろうとした時、「お嬢さん」と声を掛けられた。
「眠れない夜に、またおいで」
 フクロウの彼は優しく微笑む様に目を細めてそう言った。
「そうします。ありがとう」
 もう一度お礼を言った私は深々と頭を下げ、部屋に戻る窓辺へと下りて行った。そして窓の下の足場に足を掛けた時、不意につるりと踏み外してしまった。真っ逆さまに屋根の下に落ちていく体がふわりと浮いて、成す術もなく朝焼けの空を見た。

 あ、落ちる。

 突然、じりじりと喧しいアラームの音が鳴り響き、私は目を覚ました。
 がばりと体を起こして目覚まし時計の頭を叩く。沈黙したその針は、午前6時を示していた。
 しばらくぼんやりとベッド上に座り、少しずつ頭が目を覚ますのを待った。朝まだきが徐々に晴れてくる。
「……夢だったんだ」
 一人でそう呟く。同時に、私はあることに気が付いた。ベッドから降りてゆっくり立ち上がると、とても体が軽かった。じっとりと張り付いていた疲労感も、朝方にいつまでも目元に残るねちっこい眠気も、今ではすっかり取れてしまっている。
「なんだかよく眠れたなぁ」
 嬉しさにうんと背伸びをし、開いた窓からそよぎ込む朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。近くの電線に留まる小鳥たちの囀りや、早い電車の走行音が朝の清々しさを物語る。
 こんなに気持ちのいい朝はいつ振りだろう。軽い体のまま出掛ける支度をしようと一階に降りる時、私はふとフクロウの彼の言葉を思い出した。

 眠れない夜に、またおいで

 眠れないのは嫌だけど、彼とまた会いたいと私は思った。彼との話はとても楽しかったし、何よりあんな綺麗な月明かりの夜を眺めないのは勿体ない。夜は私達がいる場所の本当の姿を見せてくれる素敵な時間なのだ。
 眠れるのが一番いいって分かってはいるけれど、やっぱりなかなか眠れない日だってある。しかしこれからは、眠れないことに不安を感じる必要は無いのだ。だって眠れない夜には、素敵な夢を見せてくれる彼が屋根の上で静かに待ってくれているのだもの。


〈 おわり 〉

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