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短編小説「雲の羊の大移動」

 その日、国中で白い羊の群れが空を駆けていく現象が確認された。
 天空に響き渡る「メー」の鳴き声、大地をも揺らす蹄の音。誰もが足を止めて白昼の空を仰ぎ見る中、僕は羊達の群れが駆け行く空とは反対方向に向かって走り続けていた。

 気付けば街中から鳥達が姿を消している。カラスもハトもスズメもいない。街角でよく見掛ける野良猫さえ一匹たりとも姿を見付けることが出来なかった。ただ人間だけが、ジッと佇んだまま空の不可思議な現象を見守っていた。皆が車を停めて空を見上げているものだから、大通りはすっかり渋滞してしまっている。僕は車の間を擦り抜けながら、息を切らして車道を渡った。見掛ける人の誰もがぽかんと大空を見上げているので、僕は内心、とても不思議に思っていた。

・・・どうして誰も逃げようとしないんだ?

 駆け行く途中に、「逃げてください!」と数人に声を掛けたが、その誰もが変なものを見る様な目で僕を一瞥した後、再び雲の羊の大移動に目を奪われている様だった。僕の声はもはや誰の耳にも届かないと諦め、ひたすら母のいる病院へと急いだ。

 病院のエントランスに駆け込むと、待合室の大きなTVにも空を駆ける羊達の様子が映っていた。緊急速報として報じているTV番組のニュースキャスターは、専門家の見解を含めつつ報道を続けている様であったが「現在調査中」の連呼だった。
 総合病院の4階病棟まで階段を駆け昇り、母のいる病室に飛び込んだ。

「母さん!」

 そう呼び掛けた僕の声に、母は驚いて目を丸くしていた。

「瞭太? 学校はどうしたの?」

 そんな問い掛けに答える余裕もなく、僕は母の傍に駆け寄ってその手を引っ張った。

「母さん、逃げよう」

 同じ病室の人達は不思議そうに僕を一瞥したが、その後は再び各々のベッドに備え付けられたTVをぼんやりと見ているのだった。

「瞭太、どうしたっていうのよ?」

 そう訊ねる母でさえ、この異変の恐ろしさに気付いてはいない様子だった。いつしか空全体を覆い始め、その蹄の音が僕らの足元をぐらぐらと揺らす程に大群となっていた羊達の姿が病室の窓からもはっきりと見えた。
 やがて不可思議な電波障害が発生して全てのTVがダウンする中、患者の一人が持ち込んでいたラジオが唸り始めた。

『メーデー! メーデー! メーデー!・・・こちら国防・・ザザッ・・・核ミサイルが発ザザッ・・・到達まで・・・ザザーッ・・・』

 その時、街中、いや国中を脅かす様なサイレンが鳴り始めた。母を含め、病室にいる他の患者達や廊下にいた看護師達も一斉に驚いて肩を竦める。

「・・・何なの?」

 そう言って不安そうに病室の窓の外を見た母の横顔を見詰めながら、僕はごくりと生唾を飲み込んだ。このサイレンの正体は、前に1度TV番組で放映されていたのを観たので知っている。

「もうすぐ、核ミサイルが飛んでくるんだよ」

 震える僕の声が、不気味なサイレンに包まれる病室の中に舞った。

——§——

 僕がまだ幼稚園に通っていた頃、僕は父の胡坐の上に腰を落として青空を流れる雲を見ているのが好きだった。

「あの雲、羊さんだよ」

 そう言った僕が指差す先の空を仰いだ父は「本当だな」と優しく笑っていた。

「あれは馬さんで、あれは鳥さん。あ、大きなクジラさんもいる」

 胡坐の上で楽しそうにはしゃぐ僕の頭を、父は優しく撫でてくれた。

「すごいな、瞭太は色々なものが見えているんだな」

 僕は父に褒められるのがとても嬉しかった。詳しくは知らないが、父は国を守る職業に就いていて、家に帰って来られるのは二、三ヶ月に一回程度だった。父の身体はとても大きく、力強いその腕に抱き上げられたり、頑丈な胸に思い切り体当たりして遊ぶのが僕は好きだった。僕もいつしか父の様な男になりたいと常に思っていた。しかし、そんな僕を肩車した父がよく語って聞かせてくれたことがある。

「瞭太、強い人には共通していることがあるんだよ」

「きょうつうしていること?」

 首を傾げて訊ねる僕に、父はゆっくりと頷いて見せた。

「自分の弱さと自分にできることをきちんと理解していて、守れる範囲のものをしっかりと守る。そういう人は、途轍もなく強い」

 僕は父の肩車に揺られながら、いつしか夕暮れに染まった空を仰いだ。そこには、沢山の生き物を模った雲達が浮かんでいて、僕のことを優しく見降ろしていた。それが、僕と父との最後の思い出だった。

——§——

 サイレンと共に核ミサイルが飛んでくるという緊急放送が流れ、病院内はパニックとなった。病室の窓から見降ろした大通りの人々も悲鳴や恐怖に慄く声を上げ、皆がばたばたと逃げ始める。静かな街が一斉にして大混乱に陥った。

 母と同じ病室の患者達は、腰を抜かしたまま座り込んでいたり、大きい荷物をまとめようとしている人もいたため、僕は彼らを急いで立たせて「荷物は置いて、早くシェルターに避難して下さい」と促した。
 近年、悪化の一途を辿っていた国際情勢における核ミサイルの脅威に対して、総合病院や公共施設、地下鉄に通じる地下街などで大規模な核シェルターの建造が進められていた。

 僕は先日階段で転んで足を骨折していた母を乗せた車椅子を押しながら、病院の地下にある核シェルターへと向かう人の流れに乗った。階段もエレベーターも混雑しており、ベッドごと運び出される患者も沢山いる。僕は焦りと恐怖にガタガタと震えて冷や汗をかいていたが、ふと何処からかやって来る不思議な鳴き声を耳にした。

『『メー!』』

 羊達の鳴き声だ。僕は病院の廊下の窓から鳴き声の聞こえてくる西の空を見た。その途端、西の空に集まった雲の羊達の向こう側で、ぎらりとした真っ赤な光が微かに瞬いたのが見えた。そして、どかん、と体が浮き上がってしまう程の地響きがやって来る。その余りにも強い衝撃に皆が倒れ込み、窓硝子が砕け散った。僕は母に覆い被さって飛んで来た硝子の破片を防いだ。

 やがて静寂が訪れ、ゆっくりと体を起こした窓から西の空を見てみると、鉛色の雲が巨大なボール状の塊となって空中でくるくると回転していた。そして目を凝らした僕の目には、その巨大なボール状の鉛色の雲に向かって次から次に羊達が突っ込んでいくのが見えた。

 やはりそうだった。雲の羊達が空を駆け始めた頃から起こった胸騒ぎ。僕だけが感じていた恐ろしくて嫌な感覚。それは、彼らが僕に教えてくれていた警告だったのだ。
 僕は俄かに頬を流れ始めた涙を拭いながら、動き出した人の流れに乗ってシェルターへと急いだ。母は心配そうにそんな僕の顔を車椅子から見上げ、「瞭太、大丈夫?」と言った。

「僕らを守ってくれているんだ、彼らの為に早く逃げなきゃ」

 僕は静かにそう返すのだった。

 そうして避難する人達が次々に核シェルターへ流れ込む中、僕は母を看護師の一人に託して他の人達の避難の手伝いをした。大人より体が小さい分、人波を掻き分けていくことが出来る。親とはぐれてしまった子供達や、杖を突いた高齢者、怪我や病気で歩みの危うい患者達に手を貸してシェルターへと導いた。

 そして病院外から逃げ込んで来る他の人達の避難誘導の為、僕が再びシェルターから地上に上がって屋外に踊り出た時、核ミサイルの二発目が飛んできて西の空で炸裂した。そのミサイルも雲の羊達が一斉に取り囲んで熱線や放射線の放出を防いでいるかの様だった。僕は大地を叩き割らんばかりの衝撃波に倒れ込んだが、西の空でくるくると回転する二つ目の鉛色の雲の塊を見逃さなかった。回転する鉛色の雲の下から、赤く燃える炎が時折はらはらと舞い落ちた。

『『メー!』』

 羊達の声はよく聞くと悲鳴にも聞こえる。僕はボロボロと涙を流してその様子を見ていることしか出来なかった。

「なんでだよ・・・なんでこんな酷いことをするんだ」

 気付けば羊達の後を追う様に、様々な形をした雲達が次々にやって来ていた。颯爽と駆ける馬、大きく羽搏く鳥、優雅に泳ぐ巨大なクジラ。
 彼らはかつて僕が父の胡坐の上に座って見ていた優しい雲達だった。
 街中を右往左往していた人々が地下へと避難するのが完了する頃、僕はゆっくりと閉じられていくシェルターのゲートの中から、赤焼けた空に雲の生き物達の鳴き声が響くのを聞いているのだった。

 核シェルターに避難した後、もう1度爆発音と共に恐ろしい地響きがやって来た。僕は恐怖に身を固める人々の中を歩き回り、母を見付けた後、小学校を飛び出す前に「逃げて!」と呼び掛けた同級生や先生らとも再会した。地下通路を通じてこの街の核シェルターはアリの巣状に繋がっているため、多くの人々が無事の再会を喜び合っているのだった。
 シェルターに保管されていたラジオからは、3回の核攻撃を受けたこと、強い放射線の影響から約数十年は地上に出られない可能性があること、そして驚くべきことに今回の核攻撃による人的被害は殆ど無かったことが放送されていた。しかし僕らはその後、国の方針で地下の核シェルターの中での集団生活を余儀なくされるのだった。

 そしてその約三年半後、不思議なことが起こった。
 コンクリートで塗り固められた人間だけが棲むシェルターの中に、一羽のツバメがやって来たのだ。長い間、陽の光を浴びていない人々はツバメの声に顔を上げてその様子を見ていた。ツバメがこの街に姿を現すのは春だけである。シェルターに避難した時節は未だ秋だったので、ツバメが避難した人々と一緒に入り込んだとは考えられない。

 ツバメは今、外からやって来たのだ。

 ハッとした僕はツバメが入り込んだ場所を探した。すると、核シェルターのゲートの隅から一筋の光が差し込んでいた。そこには小さな穴が開いており、もしかしたら外の様子を見ることが出来るかもしれない、と思った僕が光の差し込む穴を覗き込むと、そこからは雲の流れる青い空が見えた。そして、耳を澄ませば多くの小鳥達の囀りが聞こえていた。

 その同時期に他のシェルターでも同様のことが確認され、地上の放射線レベルの調査が開始された。すると、殆どの地域で放射能が観測されないということが明らかになった。
 そしてしばらく調査が続けられた後、人体への危険性が限りなく0に近いと判断され、シェルターのゲートが一般人にも開放された。約三年半ぶりに、僕らは地上に出ることが出来たのだった。

 地上の街には至る所に野草が生い茂っていて、色取り取りの野花が花を咲かせていた。高層ビルでさえも蔦状の植物に覆われている。
 皆が歓声を上げる中、僕は深呼吸をして青い空を見上げた。そこにはゆったりとした雲が流れ、その形は馬や鳥やクジラを模り、彼らは僅かに残る灰色の雲を食んでいる様子だった。

 僕は微笑みを浮かべ、彼らに向かって「ありがとう」と呟いた。彼らはずっと街中、あるいは国中の大気を正常化していたのかもしれない。そんな彼らの姿を見上げたまま、僕は固い握り拳を作った。

「きっと変えてみせるよ・・・もう二度と、こんなことはさせない」

 今は穏やかな春に包まれた遠い西の空一面に、ゆったりとした羊雲が浮かんでいるのだった。


〈 終わり 〉


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