それから4年が過ぎた
今ほど「自己肯定感」という言葉が叫ばれなかった頃だ。
日本を脱出する目的で英語と中国語を勉強していたわたしは、数年単位の寄り道をすることになる。
出発地があって、ゴールがあるという考え方に則れば、あれは寄り道だったのかもしれない。もちろん、あれらの日々がなければ今の自分はいないので寄り道は時間の無駄だったわけではないのだけど。
寄り道の定義として、「ちょっとした誘惑に駆られた」ということにしてしまおう。
若い頃のわたしの目標は、トリリンガルになって学位をとって、恥じずに人並みに社会と向き合うこと、だったような気がする。
それにいくつかくわえるとしたら、日本を出て海外にゆくこと。
自分にはクリエイティブな才能があると心のどこかで信じていたので、アーティストのような存在になること。
あと、欲を言えば、美しい人になりたかった。
加えて、自立したい気持ちと一緒に誰かに守られたいという気持ちが混在していた。
それら全ての欲望と夢を探る過程で、色々と寄り道をしていたのだと思う。
そこで絡んでくるのは、やはり男性である。
思えば、父親が陽気で無防備で、少し駄目な人だった。
優しさとか、子どもへの愛情とは全く別の分野で家族としての役割の上で失点し続ける人だった。優しさに強さが伴わないがために、一つ一つの悪い選択が少しずつ家族を壊していた。
だからこそ、誰かに頼りたい、守られたいという気持ちが強く、平たく言って男に弱いところがあったのだと思う。
そういう「あしながおじさん」ふうの人に時々出会った。
だからと言って別に、不倫に走ったり、親ほど歳の離れた人と付き合ったりしていたわけではなくて、それ相応の年齢の親切な人たちとお付き合いできたのは幸運だったと思う。
経験がないからわからないけど、そういう歪んだ関係を持つのは、今になって「あれは寄り道だったのかも」と振り返るレベルではないくらい人生に傷を与えるのだろうから。
そういう傷をずっと抱えている人を見かけることがあるのでそんな想像をしている。
4年くらいの寄り道では、ゆっくりとフランスで過ごしたり、時々中国を旅したり、1ヶ月くらいネパールでヨガをしたりしていた。
その間にワインの味を覚えたり、絵を描いたりできたのは良かった。
私が好きなことをしていることを喜んでくれる人がいて、今思えばチャリティー精神と博愛精神そのものだったけど、その恩恵を受けていた。
ただ、そういう生活も続かなかった、与えられることに慣れていなかったから、うまく状況を享受できなかったのだと思う。リセット癖も手伝い、結局、またあの島根の家に帰った。
英語はかなり上達したものの、相変わらず学位もなくて、中国語も話せないままだった。
コンビニ店員にも歯科助手にも戻ることは想像できず、だからと言って社会に向けて自分を恥じずに向き合える気もしないまま、あっという間に30を迎えようとしていた。
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