自由を手放して、自由になる。
わたしは自由と居場所をずっと求めてきました。
若いころあこがれた人がいて、その人のように自分もなりたい、と思ったけど、何者かになりたかったんですね。目の前の人とどう生きるかより、頭の中で描いた夢をみていた。
でも、いろんなことがあって、いまのパートナーといっしょに生きると決めたら、いっしょに、どう生きるか、と、具体的な夢が描けた。その瞬間から幸せになった。自由になった。
でも、社会とどうつながるか、の部分で火種がのこってて、45歳のときに、ああ、自分は死ぬんだ、とわかって、木の家をたてたら、その家でなにがやれるか、と考えられて、演劇ワークショップや、料理教室なんかの住み開きをして、外とつながることをしはじめた。
家を建てたら、それに縛られるイメージがあるかもしれないけど、空間は使ってあげて豊かになるし、よい気を落としたいから、たまにはみんなの家に、と、楽しい催しをたまにするようになった。
そしたら、あ、夢が叶った、と、気づいた。
で、こんどは「お金がないと不安な自分」をなんとかしようと、自分のナリワイをつくって、人とつながろうと、人の家にも杉を敷き始めた。
「杉を敷く」のは、なんというか、沼にハマるように勝手にやってたし、それが、この国における、空間を変える普遍的な解だと気づいたら、もうそれだけでいいと思って、「杉を敷く」という軸があるから、いろんな人とつながれて、自分の根が深くはるようになっていって、社会課題の解決につながるようなことにも落としていくようになった。
でも、たいそうなことじゃなく、出会った人、場所に敷く、で、いい。
自分はなおちゃん(パートナー)と生きる。
自分はこの家を豊かに使ってあげる。
自分は杉を敷いてみんなと幸せになる。
・・・と、決めたから、
つまり、他の可能性をあきらめたから、自由なのです。
妄想は楽しい。
妄想してイメージをもつことは大事。
でも、頭の中で描く夢に直線的に向かうのでなく、むしろ手放して、出会っていって、目の前にあらわれるものとセッションしていく。
どうしたら楽しくなるか、を、心の余白をもって考えること。
つまり、遊ぶこと!
旅を楽しむこと!
がんばれ、おーじー(わたし)。