浅草のキリシタン遺跡を巡ったら、宮本武蔵に見出された武田家重臣の子孫とかいう人物にぶつかって驚いた話
最近、浅草のキリシタンが気になるなぁと思って、浅草のキリシタンの遺跡を巡りました。巡ってみたら、思いがけず、武田家の重臣・高坂弾正こと春日虎綱の子という存在にぶつかって驚きました。今回は、その辺りのことを書きたいと思います。
JR浅草橋駅西口から徒歩8分。カトリック浅草教会の一角に、浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑があります。↓
殉教記念碑の説明板によれば、1613年8月16、17日、9月19日の三回に渡って、キリシタン計27名(小伝馬町牢で獄死したアポリナールという人を入れると28名)が、鳥越川のほとり、甚内橋より東の地で殉教したとのこと。(甚内橋の跡は、あとで地図と写真を載せますが、この殉教碑のある場所から近いです。)1613年というと、岡本大八事件が決着した翌年なので、こちらの殉教もこの事件の余波かもしれません。岡本大八事件とは、複雑な背景を持つ一種の収賄事件だったのですが、関係者たちがキリシタンだったこともあって、この事件後、キリシタンへの迫害が激しくなりました。事件の主要関係者の一人であるキリシタン大名・有馬晴信は、山梨に流され、亡くなりました。宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いもこの事件の直後にありました。↓
さて、カトリックの女子パウロ会のHPによれば、浅草には、フランシスコ会が開いたハンセン氏病患者を世話する施療院があったそうで、その施療院は、現在、甚内神社のある辺りにあったと思われるとのこと。そこで、甚内神社に向かうことにしました。甚内神社は、さきほどの殉教碑から歩いてすぐの場所にあります。↓
甚内神社の説明書を読んでみると、興味深いことが書いてありました。↓
説明によれば、甚内とは、武田家の家臣・高坂弾正こと春日虎綱の子で、彼は武田家滅亡後、なんと!宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めたが、武田家の再興をはかって、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(マラリア)に苦しんでいたところを捕らえられ、8月12日に鳥越の刑場で処刑されたとのこと。何年に処刑されたのかは、わかりません。日付だけ見れば、キリシタンたちが処刑された日付に近いですね。この神社は、関東大震災まで浅草消防署付近にあったけれども、焼失して、昭和5年に現在地に移ったそうです。この神社がもともとあった浅草消防署は、どこだろうと思ったら、これも近くでした。地図で示してみます。↓
一番左端の浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑から、一番右端の甚内橋遺跡まで、徒歩で6分ぐらいですので、浅草消防署と現在の甚内神社が至近の距離だということがお分かりいただけるのではないかと思います。フランシスコ会の施療院は、おそらくこの消防署から現在の甚内神社の辺りにあったのではないでしょうか。
『東京きりしたん巡礼』によれば、浅草鳥越のフランシスコ会の施療院は、ルイス・ソテロが建てたもので、南蛮医学の治療を受けたいと患者が集まり始めていたといいます。甚内さんがマラリアに罹ったとき、フランシスコ会の施療院にお世話になったことがあったでしょうか。「江戸の切支丹」(『切支丹風土記 東日本編』)によると、浅草鳥越に施療院と礼拝所ができたのは、慶長18年(1613年)のことだけれども、その夏には取り壊され、26名の者が捉えられて、死を宣告されたと書いてあります。(この殉教者たちが、上述の浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑の説明に書かれている人たちのことでしょう。)とすると、浅草鳥越のフランシスコ会の施療院は、1613年にできて一年に満たない間になくなったことになります。もし、甚内さんがこの施療院にお世話になっていたとしたら、施療院が存在した1613年の夏以前しかあり得なく、もしそうなら甚内さんが亡くなったのは、処刑されたキリシタンたちと同じく1613年ということになり、施療院は夏には取り壊され、甚内さんは8月12日に、ついでキリシタンたちが、8月16、17日、9月19日に処刑されたことになります。(この日付は、キリスト教関係ということだからかどうかわかりませんが、陽暦のようです。当時の暦だと、8月16、17日は、7月1、2日になるようです。)
そこで矢田挿雲の「幸坂様の由来」(『新版 江戸から東京へ(二)浅草(上)』)を読んでみると、なんと!甚内さんは、慶長18年(1613年)、8月2日に処刑されたと書いてありました。亡くなった日付は、台東区の説明板は8月12日、矢田挿雲の文章では8月2日と、少し違いますが、甚内さんが亡くなったのは、やはり1613年の8月のようです。となると、甚内さんがフランシスコ会の施療院でお世話になった可能性も、なくはなさそうですね。
さて、矢田挿雲や江戸文化・風俗の研究家である三田村鳶魚によると、甚内さんは、向崎甚内あるいは幸坂甚内とも呼ばれたタチの悪い悪漢あるいは慶長の大賊だとされています。矢田挿雲は、甚内さんが甲州で孤児になったとは書いていますが、春日虎綱の子とは書いておらず、三田村鳶魚は、甚内さんの父が春日虎綱の息子であることに疑義を呈しています。しかし、単なる悪漢、大賊が神社に祀られて、信仰を集めるなんてことがあるのでしょうか。そこで、引き続きネットで検索していたら、春日虎綱のお墓についての面白い記事をみつけました。長野市「信州・風林火山」特設サイトの史跡ガイドのページです。↓
初代海津(松代)城主だった春日虎綱のお墓は、虎綱の菩提寺だった長野市松代町の明徳寺にあるのですが、上の記事によると、その墓碑の一部分が、不自然に風化したように窪んでいるのだそうです。そして、それは瘧(おこり、マラリアなどの熱病類)を患うものが、墓石に塩を添えて祈ると必ず験があると伝えられていたので、瘧を患うものやその縁者らが削り取ってできた痕跡だとのこと。春日虎綱といい、その子だという甚内といい、瘧(マラリア)づいているのは、何なのでしょうか。
色々と疑問が出てきましたが、とりあえず、慶長の頃、武田家臣の高坂弾正こと春日虎綱の息子といわれた(うわさのあった?)甚内さんという、甲州から来た人が江戸にいて、マラリアにかかっていたところ、何らかの理由で捕まって、1613年8月に浅草鳥越で処刑され、フランシスコ会の施療院があったこともあった場所に祀られたというのは、確かなのではないでしょうか。
『東京きりしたん巡礼』によれば、1613年の殉教のあと、フランシスコ会の浅草鳥越の施療院は、ひそかに再建されたようですが、その施療院の関係者たちも、結局、1615年に死罪となり、建物も焼き払われたとのこと。
キリシタンや甚内さんが処刑された場所にほど近い、鳥越川ほとりの甚内橋のあった場所は、現在、暗渠になっていて、下の写真のように碑がひっそりと建っています。↓
2023年3月27日 追記
(参考資料
①内山善一「江戸の切支丹」『切支丹風土記 東日本編』宝文館、S.35年
②『東京きりしたん巡礼』山田野理夫著、東京新聞出版局、S.57年
③「慶長前後の泥坊」『三田鳶魚全集 第十四巻』、中央公論社、S.50年
④「幸坂様の由来」『新版 江戸から東京へ(二)』、矢田挿雲著、中公文庫、1998年
⑤女子パウロ会HP Laudate
⑥ながの観光コンベンションビューローHP 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い
⑦信州松代観光協会HP)