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小倉時代の細川家とキリシタン②~伊東マンショ、中浦ジュリアンetc.

 以前、小倉藩の剣術師範であった佐々木小次郎のキリシタン説について考察し、当時の小倉藩はガラシャの夫・細川忠興が藩主だったので、小倉藩内にキリシタンがいてもおかしくはないということなど書いた。それで、当時の小倉藩について調べたところ、予想以上にキリシタンがいたことがわかったので、前回はそのことを記事をまとめた。↓


 その後、改めて、細川時代の小倉藩のキリシタンについて調べていたら、天正遣欧少年使節だった四人のうち、伊東マンショと中浦ジュリアンの二人が小倉で活動していたことを知った。今回はその辺りのことを書きたい。(天正遣欧少年使節って何だっけ?という方は、こちらの記事をご覧ください。↓)

 以下、キリシタン研究で著名な結城了悟神父(旧名ディエゴ・パチェコ)の「筑前、筑後、豊前における中浦ジュリアンと伊東マンショの活躍」及び、同氏による天正遣欧少年使節関連の他の文章など(詳細は下記の参考文献参照)を参照に、細川時代の小倉のキリシタンや伊東マンショ、中浦ジュリアンの動きを追ってみる。

 細川時代の小倉では、1602年からキリシタンが大いに賑わうようになり、1608年、司祭に叙階された伊東マンショは、セスペデス神父の助任として小倉で活動し始めたらしい。信徒も着実に増え、1609年頃までの小倉のキリシタン界は希望に満ちていたが、1610年から、細川忠興のキリシタンへの態度が急変し始める。しかし、ガラシャが世話になったセスペデス神父がいたので、忠興も踏みとどまっていた。そんな中、1610年には、小倉の神父やイルマン(宣教師の称号の一つ、平修道士)が、小倉から周防や長門、萩に宣教に行き、その旅で160名に洗礼を授けていた。1611年にも、伊東マンショが小倉から、長門、周防、萩、マンショの親戚のいる日向のキリシタンを訪問したり、洗礼を授けてたりしており、山口では、キリシタンではない奉行に、保護的な態度を見せてもらっていた。が、マンショが小倉に戻ると、長崎から帰ったセスペデス神父が急死してしまう。セスペデス神父が亡くなったことで、忠興は宣教師の追放と教会の破壊を命じ、伊東マンショも追い出され、中津にいた忠興の息子・忠利を頼ったが、忠利も父の下では何もできず、とりあえず中津でクリスマスを祝うことだけ許された。その後、マンショは長崎に入り、1612年には病死してしまった。以後、小倉でもそれ以外のところでも、キリシタンの受難時代になっていく。中浦ジュリアンは、1604年から博多の教会に赴任していたが、その教会も1613年に閉鎖された。博多を追放されたジュリアンは、いつ頃か島原半島の口之津に入った。

 さて、前回、高山右近に仕えていたが、右近の追放後、忠興に仕え、小倉藩の総家老にまでなったキリシタンの加賀山隼人が、元和の大殉教のあおりを受け、1619年に殉教したことを書いた。この加賀山隼人には、同じくキリシタンであった娘みやとその夫・小笠原玄也がいたが、この二人は1619年の殉教を免れていた。というのも、小笠原玄也の父・小笠原少斎がガラシャの介錯をして殉死したことを細川家が重く見ていたかららしい。中浦ジュリアンは、1620年、口之津から小倉に向かい、助命されたこの小笠原玄也の家族を訪問した。ジュリアンは、1624年にも、口之津から博多、秋月、小倉を訪れていたが、この頃には、ジュリアンの周囲でも殉教者が続出していた。時期ははっきりしないが、おそらく1626か1627年頃、ジュリアンは同宿トマス・リョウカンと小倉に移ったらしい。彼らの小倉での活動内容はわかっていない。1632年の秋、細川家が熊本へ移動することになると、その年の末、ジュリアンは小倉で捕らえられ、翌1633年、長崎で殉教した。細川家に助命された小笠原玄也一家は、細川家が熊本への移封されるのに伴って熊本に移動したが、1635年、密告によって逃れられなくなり、1636年、熊本の花岡山で斬首された。「加賀山隼人正息女墓」という墓碑のある一家の墓は花岡山の中腹にあるとのこと。

 随分、しんみりした話になってしまった。ここで、また佐々木小次郎の話に戻りたい。小次郎の墓がある山口県阿武町役場のHPによれば、小次郎の妻ユキはキリシタンで、懐妊中であったユキは、1612年の巌流島の戦いのあと、夫の遺髪を抱き、当地に安住の地を求めたらしい。↓

上で見てきたように、巌流島の戦いの2年ほど前から、小倉では忠興のキリシタンへの態度が硬化し始めており、その間、キリシタン側では、二回に渡って、伊東マンショたちが小倉から山口(周防、長門、萩)に宣教の旅に出て、成果を出している。小次郎がキリシタンだったかはわからないが、ユキが本当にキリシタンで、小倉にいたとしたら、夫の亡き後、キリシタンが多く、キリシタンにも比較的理解のある奉行のいた山口に逃げるのは、おかしなことではないと感じた。

標題は、天正遣欧使節の一人・伊東マンショの肖像(ドメニコ・ティントレットによる)wikipediaより


参考文献
①「日本に帰った少年使節」『九州キリシタン史研究』(ディエゴ・パチェコ著、キリシタン文化研究会、1977年)
②『日本キリシタン殉教史』(片岡弥吉著、時事通信社、1979年)
③『天正少年使節の中浦ジュリアン』(結城了悟著、日本二十六聖人記念館、1981年)
④結城了悟著「筑前、筑後、豊前における中浦ジュリアンと伊東マンショの活躍」『福岡県地域史研究19』(西日本文化協会福岡県地域史研究所、2001年)
⑤「熊本家最後のキリシタン重臣である加賀山隼人と小笠原玄也の殉教に関する一次資料を発見」熊本大学HP、令和3年

 

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