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天正遣欧使節とその時代~信長、フェリペ2世、グレゴリウス13世etc.~

 天正遣欧使節とは、16世紀後半に、イエズス会のイタリア人ヴァニャーノの発案により、日本のキリシタン大名~大友宗麟、大村純忠、有馬晴信~の名代として、スペイン・ポルトガルやローマに派遣されたキリシタン大名の親戚の少年たち4人~伊東マンショ(正史)、千々石ミゲル(正史)、中浦ジュリアン(副使)、原マルチノ(副使)~のことを指す。少年らが日本に帰国したときは、信長も大友宗麟も大村純忠も亡くなって、秀吉によるキリシタン迫害時代に突入していたから、悲劇として語られることも多い。天正遣欧使節の足取りを改めて振り返ると、日本のみならず、ヨーロッパにおいても激動期であった。今回はそのことを書いてみたい。

 まず、なぜヴァリニャーノが日本のキリシタンの少年たちをヨーロッパに送ろうとしたのかというと、イエズス会の宣教の成果を、イエズス会の後ろ盾であるポルトガル国王とローマ教皇に見せることによって、財政難にあった日本における宣教の資金を得たかったのと、日本の若者たちにヨーロッパを見せたかったからであった。当時のヨーロッパへの旅は、船旅で何年もかかり、危険なものだったので、キリシタン大名の親戚でも長男は省かれた。また、ヨーロッパでの宣伝の意味も兼ねていたからだろう、性格のいい若者たちが選ばれたという。
 
 このようにして選ばれた少年たちは、まずマカオに立ち寄った。平川祐弘氏の『マッテオ・リッチ伝』によれば、中国に派遣される前のマテオ・リッチと少年たちは、このマカオで顔見知りになったようだ。その後、少年たちは、マラッカ、コチンなどを経て、1584年、リスボンでオーストリア出身の枢機卿アルベルトに会った。イエズス会の後ろ盾の一つは、ポルトガル国王であったが、この頃には、ポルトガルがスペインに併合され、フェリペ2世が、スペイン国王とポルトガル国王を兼任していたのだが、ポルトガルを統治していたのは、フェリペ2世の甥であるこの枢機卿アルベルトであった。ちなみに、アルベルトの兄は、のちにティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラーをプラハで抱えるようになった神聖ローマ帝国のルドルフ2世である。さて、枢機卿アルベルトは、使節を丁重に出迎え、少年たちが持参した信長による安土城の屏風を、ひとりでじっくり鑑賞したり、屏風の絵について細かく質問したりしたという。

 このように、リスボン訪問を無事終えた少年たちは、同年、マドリードで行われたフェリペ2世の王太子の華やかな宣誓式に列席し、式の後、フェリペ2世に謁見した。使節がフェリペ2世に進物を贈呈し、豊後(大友)、大村、有馬の三侯がキリスト教信者になって、教皇への恭順と、その名声が世界に聞こえたフェリペ王にその名誉を尊敬するため、また王に対する熱烈な愛を示すべく、自分たちが派遣されたことを伝えると、フェリペ2世は非常に喜んだが、それは普段、王に仕えている人々が驚くほどの機嫌の良さだったという。天正遣欧使節をめぐる数々の西欧側の記録を、イエズス会の歴史図書館や古文書保管所、ヴァティカンのアポストリカ図書館などで調べた若桑みどり氏は、これは、フェリペ2世にとって、スペイン国王の極東支配権のおそらく最初の外交的確認であり、王がかなり強制的に奪い取ったポルトガルの諸権利が確認され、自分の名声が世界の「隅」にまで及んだことを自覚したのではないかといっている。フェリペ2世が少年たちと謁見する3年ほど前の1581年には、ネーデルランド(オランダ)の北部7州がスペインから独立して、スペインは打撃を受けていたから、極東の日本からの使節は、いっそうフェリペ2世を喜ばせたのかもしれない。

 その後、少年たちは、スペインや神聖ローマ帝国と婚姻関係にあるトスカーナ大公国(ピサ、フィレンツェ、シエナ)を訪れ、ようやくローマに入ったのは、日本を出て約3年後の1585年のことだった。体調の良くなかった中浦ジュリアンをのぞいた3人の少年たちは、このローマで、教皇との謁見式に臨んだ。(若桑氏は、これは、聖書にある「東方の三博士」を列席者たちにイメージさせるために、少年たちの周りのイエズス会の大人たちが正史でなく副使のジュリアンを無理矢理ひっこめて、式に出る少年を三人にしたのだろうと推測しておられる。)この謁見式は、大成功で、イエズス会のオラトーレが、日本の使節らが教皇とその在所への献身を表明するために来たと言って教皇をほめたたえたとき、教皇は心を打たれて、滝のように涙を流したという。この教皇とは、かの有名なグレゴリオ暦を採用したグレゴリウス13世である。グレゴリオ暦の準備は1579年からはじまり、1582年に制定されたが、グレゴリオ暦の制定の中心人物がクラヴィウスで、その門下のヴァリニャーノの発案による天正遣欧使節団~極東の幼気な少年たち~が、グレゴリオ13世のもとに献身を表明しにきたというわけである。すでに体調の芳しくなかったグレゴリオ13世にとって、どれほどの喜びであっただろう。しかし、この謁見式が、グレゴリオ13世と少年たちとイエズス会のクライマックスだったかもしれない。というのも、使節がローマに入って18日目に、このグレゴリオ13世が、体調が良くないという中浦ジュリアンのことを心配しつつ亡くなってしまったからだ。少年たちにとって、このことは「胸をえぐられる」ものだったという。君主を失うということは、戦国の世の日本人にとっては、先行きが全く見えなくなることを意味したからである。

 コンクラーベによって次に教皇として選ばれたのは、シスト5世であったが、このシスト5世はイエズス会のライバルであるフランシスコ会であった。生前、グレゴリウス13世に不当に軽蔑された経験などから、シスト5世は、グレゴリウス13世のやったことを全部くつがえし、ユリウス暦を採用したが、日本の少年たちがローマにもたらした異様な感動は、自分の即位式に利用したという。しかし、この後、東アジアでのポストを巡って、また日本でも宣教を巡って、イエズス会とフランシスコ会の争いが激しくなっていったが、それらは、ローマ教皇が、イエズス会の強力な支援者だったグレゴリウス13世からフランシスコ会のシスト5世に変わったことに原因があったのは確かなようだ。

 このように、日本のキリシタンの少年たちが旅をしたヨーロッパとは、ポルトガルがスペインに併合され、しかし、スペインからネーデルランド(オランダ)北部が独立するといった時代で、ローマにおいては、グレゴリウス13世とイエズス会の最盛期と同時に没落の入口にあたっていた。天正遣欧使節の少年たちは、図らずも、そうした過渡期のヨーロッパを訪れていたのである。

 さて、こうしたヨーロッパの様々な変動は、日本にも波及した。スペインがポルトガルを併合したとはいえ、イエズス会は昔からの関係でポルトガル、マカオと関係が深く、フランシスコ会はスペイン、マニラと関係が深く、前者は日本においては、信長、秀吉周辺の人脈に、後者は家康の周辺の人脈に近づいたが、イエズス会とフランシスコ会は宣教活動を巡って、たびたび対立した。しかし、最終的に、徳川幕府は、イエズス会でもフランシスコ会でもなく、ヨーロッパにおいては、プロテスタント国のオランダとだけ交易をすることにしたのは周知のとおりである。結局、反宗教改革のイエズス会の日本での活動は、内にあっては同じカトリック(ローマ教会)のフランシスコ会などによって、外にあってはプロテスタント国のネーデルランド(オランダ)や英国などの進出によって、弱体化していった。


標題は、天正遣欧使節の一人・伊東マンショの肖像(ドメニコ・ティントレットによる)wikipediaより

(参考文献
①『クアトロ・ラガッツィ(上)(下)』若桑みどり著、集英社文庫、2008年
②『マッテオ・リッチ伝1~3』平川祐弘著、東洋文庫、1969年、1997年
③『旅する長崎学 キリシタン文化Ⅱ 長崎発ローマ行き、天正の旅』長崎文献社、2017年
④『大航海時代叢書 第1期9 ジョアン・ロドリーゲス 日本教会史 上』岩波書店、1967年
⑤『大航海時代叢書 第1期10 ジョアン・ロドリーゲス 日本教会史 下』岩波書店、1970年)

 

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