聖母崇拝って何なの?とか戦国時代の日本とか
前回、聖母マリア像に関する記事を書いてるうちに↓
キリスト教の聖母崇拝って何なんだろうと改めて考えるようになった。
キリスト教といえば、聖母マリア像を思い浮かべる方も多いかもしれないが、聖母マリアを崇拝するかどうかというのは、キリスト教内部でたびたび大きな論争となっている。5世紀、マリアを「神の母」(テオトコス)としなかったネストリウスは排除され、16世紀、聖母崇拝を否定したルターはローマ教会から離れ、いわゆるプロテスタントの教会が形成された。プロテスタント諸派の礼拝堂には、いまでもマリア像はない。
そもそもネストリウスがマリアを「神の母」(テオトコス)とせず、「キリストの神」(クリストトコス)としたのは、神学的には間違ったことではないとされている。にもかかわらず、ネストリウスが排除されたのは、すでにキリスト教が広まった地域で聖母崇拝が受け入れられていたからだという。異教の地の人々が、新興のキリスト教を受け入れたのは、キリスト教の中にある聖母崇拝に、土着の女神への信仰との何かしらの共通点を見出したからではないだろうか。
時代は下って、宗教改革に対抗する闘士として生まれたイエズス会は、聖母像と聖母崇拝を携えて日本にもやってきた。ルターなどによる批判があったにもかかわらず、彼らが聖母崇拝を携えてきたのは、キリスト教の短くはない歴史において、聖母崇拝を用いると、異国の人々にキリスト教が受け入れられるという成功体験の堆積があったからであろう。実際、イエズス会士たちの残した文章からは、薩摩藩主島津貴久や大村藩主大村純忠やその他の日本人がこぞって聖母像を欲した様子が垣間見られる。小西行長も自分の死に際して、聖母像に祈ったという。子を抱く女の像は、日本人の何かしらの琴線に触れたのではないか。(そして、それは、何だったのだろう?)もし、イエズス会が、聖母像を携えずに布教に訪れたとして、日本人は、聖母像にみせたような熱狂をキリスト教に示すことがあっただろうか??
キリスト教の歴史を振り返ってみると、聖書には書かれていない「聖母崇拝」が思った以上に根強く、現代でもあちらこちらで生き続けていることに驚かされる。いったい、聖母崇拝とは、何なんだろう。部外者の戯言ではあるが、聖母崇拝とは、キリスト教というか、キリスト教以上、あるいはキリスト教以前から連綿とつながる何かなのではないかと思ったりしている。
ネストリウス派(景教)についての記事は、こちら。↓