藍11:藍の歴史(日本)
おはようございます。
今日も全体的に薄く雲がかかった、グレーな朝。それでも気温は17℃、日中も20℃を超えてきて過ごしやすい。
さて、昨日は世界での藍の歴史を振り返ったので、今日は日本の藍の歴史を年代ごとに見ていこう。
藍2:藍の種類(日本編)で見てきた様に、日本には古来から山藍があったが、こちらは青くはならず緑色に染めていた。
600年頃
インドシナ原産の蓼藍が中国を経由して日本に伝来したのは、今からおよそ1400年前の飛鳥時代といわれ、藍はそもそも漢方薬として伝わったという説もある。
飛鳥時代(593年~710年)
藍染めの青は天皇の冠位十二階(聖徳太子が603年に推古天皇時代に制定した冠位制。 徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けて12階とし、それぞれを紫・青・赤・黄・白・黒の濃淡で表した冠で区別した)六色の第2位で、貴族階級の衣類は藍染めの絹製品だった。
奈良時代(710年頃〜794年)
752年、大仏の開眼供養会で藍染めの絹の紐「開眼の縷」が使用された。これが日本に現存する最も古い藍染めで、正倉院に保存されている。
鎌倉時代(1180〜1336年)
武士が一番濃い藍染めを「褐色(かちいろ)=勝色」と呼んで鎧の下に身につけるなど戦勝の縁起かつぎに多用される様になり、 藍染めは武士の色として定着した。
江戸時代(1603〜1868年)
藍染めが庶民の間に普及したのは江戸時代。着物に作業着、のれんにのぼりなど、江戸の町は藍色に溢れていた。
阿波(徳島県)吉野川流域はとくに蓼藍の生育に適した土地として栽培が進められ、「阿波25万石、藍50万石」などと謳われた。
江戸時代の奢侈禁止令(農民男性の衣服は布・木綿に、下級武士に対しても紬・絹までと制限し贅沢な装飾を禁じた取り締まり)後も藍染は禁止されることがなかったため、日本の代表的な色として定着した。染物商は藍染めを主としたことから「紺屋」と呼ばれた。全国に多数残る紺屋町の名は染物商が多く住んだ地域の名残。
明治時代(1868年〜1912年)
明治8年に英国の化学者アトキンソンが来日、日本ならではの藍染めの色を「ジャパン・ブルー」と賞賛。次いで明治23年に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も「日本は神秘なブルーに満ちた国」と著書に記している。
日本の藍染めの特長として、経年変化により赤みが抜けて藍色の深みが増していくという性質がある。藍染めは通常の染色と違い浸透性がなく表面酸化によって着色するのが特徴で、白く残る部分ができる絞りや籠染めなどは藍染めの特性を生かした染色法である。
徳島県では明治36年に藍草の生産のピークに達し、作付面積は県内の約23%にも及んだ。
明治時代から大正時代中期、国鉄や郵便局の制服に藍染めの布が使用されていた。
日本にもインドから良質で安価なインド藍が輸入されはじめ、明治後期からは化学合成された人造藍の輸入が急速に増大。第二次世界大戦中(1939〜1945)に、藍が栽培禁止の作物になったことも追い打ちをかけ、日本の藍づくりは衰退の一途を辿る。昭和40年代(1965年頃)までに阿波藍は絶滅の危機に瀕したが、徳島県の保護奨励策により現在は約90軒の農家が藍を栽培している。
現在、蓼藍は工芸作物として徳島県に加えて、北から北海道、青森県、兵庫県、沖縄県の5都道府県で栽培・収穫されている。
世界的に見ればインディゴを含む原料は6000年もの前から使われていたのに対して日本では1800年程度。後発隊に入るのかもしれない日本で、取り入れてからすぐに国の中枢の衣装に使われ、そこから市井へとじわじわじわじわ広がっていく。その過程で、害虫・害獣忌避の効果や抗菌などの効能と共に色のバリエーションも増えていって、それに伴ってさらに需要が増えていったのだろう。
日本人の生活に、日本人の眼に、日本人の記憶に強く強く染み込んで、空気みたいに、水みたいに、当たり前になった青、それが藍なんだと思う。
懐かしいよりももっと本能的な段階で、自然の緑のように落ち着く色がある幸せ。
先人たちよ、ありがとう。
*上記の情報は以下のリンクからまとめています。
https://led-ai.pref.tokushima.lg.jp/ai/
http://www.japanblue-ai.jp/about/index.html
https://www.metro.ed.jp/koishikawa-s/assets/filelink/filelink-pdffile-9695.pdf
僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。
皆様も、良い一日を。