自己表現としてのファッション
おはようございます。
今日はどんよりめな曇り空、重めな空模様、雨は降らずにもちそう。
さて、衣替えを機会に、自分の洋服の趣味を踏まえておすすめのアイテムなど洋服に関してまとめたいと思った次第です。
ラグジュアリーブランド業界でMD(マーチャンダイザー、日本語で言えば商品部の人みたいな感じかな)として20年働いてきたので、かなり偏っているけれど、多少はお話できるかなと思う。
とはいえ「オシャレ」なんて言おうものなら鼻の奥がむず痒くなるような、言われたとて「そういうつもりじゃないんです」と否定したくなるような、自分とは関係ないものの様に感じてしまう。
「ファッションリーダー」でもなければ「服バカ」でもなく、ただの「そこはかとなく着たい服と着たくない服が明確にある人」の個人的な見解として流し見してもらえればこれ幸い。
ファッションは自己表現のひとつ
みなさん、お聞きになったことがあるであろう、至極真っ当で当たり前なこの表現。人と違う服を着ることで「個性的な自分」をアピールもできれば、雑誌で取り扱われている制服のような「ルック」を着ることで皆と同じ仲間意識を感じることもできる。どちらが自分にとって心地よいか人によって違うので、どちらが良くてどちらが悪いということもない。こだわりにこだわって自身の服に関する蘊蓄をどれでもいくらでも語れる人も、どの服を着るか悩むのももったいないから同じ服を毎日着たSteve Jobsみたいな人も、買うのも面倒だから目の前にある服を人にどう思われても構わず着ている人も、みなそれぞれがその人のスタイルになる。結果としてそれがその人の特徴、ひいては個性になるわけだから、「ファッションは自己表現のひとつ」というのは本質を突いている。
結局は受け取り側次第
しかし、例えばの話。
Steveが着ていた、あの黒のタートルネックがイッセイミヤケというのはちょっとした小ネタみたいな話だけど、それがGapだったとしたらどうだろう。
イッセイミヤケをよく知らなかったけど、Comme des Garçonsのデザイナー川久保玲やKenzoの創業デザイナー高田賢三、Yohji Yamamotoの山本耀司など日本のデザイナーズブランドの礎となった同時期に活躍した三宅一生のブランドだと知ったら、見方は変わるだろうか。
Steveと三宅氏の二人の親交が深く、Steveが同じタートルネックを100枚オーダーしたと聞いたらどうだろう。
どの程度知っているかで、Appleの社長さん程度しかSteve Jobsを知らなくても見方が全然変わってくる。でも、それは電車で隣に座った女性がどんな化粧品を使っているのかよのほとんどの男性がわからないし興味が持てないのと同様に、人によっては心底どうでも良いことだったりもする。
自分が服装にどの位こだわるか、そして自分が相手の服装にどの程度興味が持てるかどうか、その感覚がしっくりくる人はあんまりいない。
ファッション業界でも最先端のファッションを追いかける人もいれば、一つのスタイルを深掘りし続ける人もいて、それらの人は時に軽蔑し合うこともあれば互いにその姿勢に対して尊敬したりもする。
だからこそ、その感覚の距離感がマッチした時、それは「お、いいね」とほっこりしてしまう。それは信頼関係に似ていて、その人のスタイルを見るのは無意識で楽しくて、とても心地よい関係性になるのだ。
とかくファッションに関して、通っぽい人が上から「格好悪い」とか「これがオシャレだ」とか言いたがる(言わせたがる)風潮がある気がするけれど、これは極めて独善的な物言いだと思っている。
電車好きの人にフェラーリを自慢しても響かないし、お酒が飲めない人にワインの風味を如何に形容したとて「ふーん…」となってしまうのと同じこと。
だから、知っているから偉いでもないし、知らないから恥ずかしいなんて思う必要も1ミリもない。ただの興味の有無の話でしかない。
着たいものを着たい様に着て、自分がハッピーになればそれで良いのがファッション。それを着た貴方のことを相手はどう感じるかわかりようがないのだから、そんなことは捨て置けば良い。
その上で「一般論というものはどういうものなのか」と興味を持てたらその時に、少しでもそういうものかと思ってもらえるようなものを少しずつ書いていきたい。
どうか、ちょっとでも参考にしてもらえますように。
僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。
皆様も、良い一日を。