限界の外し方①

おはようございます。
今朝の東京は4℃、すこぶる寒い。

自分との対話の中で難しいのは、自分の思考の中でしか考えられないということ。自分の中の常識や当たり前の範疇でしか思考やイメージができない。これが自分に限界があると思い込む原因の一つになっているんじゃないだろうか。

奇しくも昨日の教会の説教でも似た話があった。(僕はクリスチャンなので日曜日行ける時は朝礼拝に行っている)
新約聖書ルカによる福音書1章に出てくる、イエス・キリストに洗礼を施すヨハネを産むことになる、神の前でも正しいザカリヤとエリザベトの話だ。彼らは既に老夫婦なって子供を諦めていたところ、大天使ガブリエルがザカリヤの前に現れ、エリザベトが子供を産むのでその子をヨハネと名付ける様にと告げ知らせ、実際にそのようになる。
この個所を受けて、牧師は「神は信仰の厚いザカリヤ達でさえ神様にも出来ないと考えていた奇跡を行った」「我々は自分達の尺度で限界を決めてしまうが神は私たちの想像をはるかに超えた計画を事前に用意されている」と説教されたのだ。
神様に祈ることは本来は全く自由なはずなのに、自分がこうなりたいという願いは視野の狭さゆえ本質的に神様にとっては叶える値しないのかもしれない(違う形で叶った時にその事の気付けず後になって理解できることがある)。聖書でわざわざ正しい人と紹介されるザカリヤ程の人でさえ、そもそも諦めて祈りもしない事も神様は彼の真の望みを叶えてくれる(事実ヨハネは夫妻にとって『喜びと楽しみとをもたらした』)。

ザカリヤでさえそうなのだから、気持ちだけではどうにも難しいみたいだ。
どうにか、自分の中の当たり前の外側にアプローチする方法はないだろうか。それを少しずつ解き解せるような方法を見つけていきたい。


僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。

皆様も、良い一日を。


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