過去の成功体験が浮かばない理由がわかった件
・成功体験
・難なくできること
・他の人を見て「なんでできないの?」とイライラしてしまうこと
・いつもなぜかこの役回りになる、ということ
強み分析や自己理解で何度か目にしたことがある、この質問。
私は満足に答えられたことがありませんでした。考えるのが苦しくなるほど、思い浮かばないんです。
成功したと言えるほどのことはないし(そもそも"成功の定義"って何?)頭を振り絞って思い浮かんだものに対して「まあまあすごい」と自負はあるものの、手放しで喜べないし、褒められても嬉しくない。周りに「それってすごいじゃん!」とフォローされるほど虚しくなる、この感じが居心地悪くて仕方がありませんでした。(質問の内容や周りの人が悪いわけではまったくないのだけれど。)
みんなはそんなに成功体験いっぱいあってすごいな。
私には全然そんなことできないよ。
と不足に目が向いてひとりで勝手に落ち込むのが、私のパターンです。
成功体験が浮かばない自分を分析してみた
自己評価への拒否反応に何度も遭遇するということは、何かあるんじゃないか。何が私をモヤモヤさせているんだろう。私は、自分の心の中に潜って研究することにしました。
そして数日後、ついにひとつの仮説にたどり着いたのです。
「もっと結果を出さないと価値がない」
「調子に乗ったらバカにされる」
「喜んだら嫌われてひとりになる」
という"恐怖心ベースの思い込み"がある。
だから、不足に意識を向けるよう自分で自分に仕向けているのかも…!!
例えば、学生時代の成功体験として挙げたのが「テストの成績がクラスの上位に入ることが多かった」というエピソード。
数学は大の苦手だったけれど、暗記タイプの科目であれば繰り返し勉強すれば良い点数は取れるでしょって思っていました。記憶力が低い分、時間をかけて何度も何度も復習していました。
「やれば高得点が取れる」という自信は確かにあったし、実績も残していたので、勉強に対する自信は"まあまあ"あるんですね。
でも、自信があると言い切れないのは、「私はまだまだだ」「もっと上には上がいるし」「もっと結果出せるはず」という強迫じみた向上心もあって。上を目指すのも素晴らしいことだけど、それでぎゅーっと苦しい感じになるのは「常に結果を出さないとダメだ」と(なぜか)思ってるからなのだと推測しました。
あと、褒められると嬉しい反面、照れや喜びを自動的に押さえ込むスイッチを押してるなぁと気づきました。喜んじゃいけない、調子に乗っちゃいけないって(なぜか)自分に禁止してるんです。けど、自分に自信を持っている人はかっこよくて清々しくて、一緒にいて元気をもらえることだってあるわけで。
何が自分を押さえ込んでいるんだろうと「喜んだらどうなる?」「調子に乗ったら何が起きると思ってるの?」と自分に聞いてみたら、「調子に乗ったらバカにされる」「喜んだら嫌われちゃう」って浮かんだんです。
できるという自負と自分を認められないストッパー。矛盾があるから、自己評価は"まあまあすごい"止まりになるし、考えるほど辛くなっていたのだと思います。
* * *
自分との対話に少し詰まってきたのでググって調べ物をしていたら、こんな記事を見つけました。
多分このタイプの人は幼い頃から両親にあまり褒められず、馬鹿にされたりもせず、本人の肌感覚としては「親が自分に興味を持ってくれなかった」という感じがあるのではないかと思う。
この分析に胸騒ぎを覚えました。
怒られたこともないけど、そんなに褒められた記憶もない…そんなに興味を持ってもらえなかった気がしているのかも。それが事実か事実じゃないかは置いておいて、その印象がこじれて「興味を持ってもらえない私には価値がない」と飛躍させているのかもしれないって思ったんです。
ここをヒントに、私は自分の過去の記憶を辿る旅に出ました。
「結果を出さないと価値がない」に結びつくエピソード
①宿題を頑張ってることを中途半端に親に褒められた気がする。一方で、勉強をしない弟はよく怒られていた。
→(認識・感情)私は、もっと頑張ったら構ってもらえるかもしれない。何か結果を出したら、私のことも注目してくれるかもしれない。
②家族旅行で不機嫌になったら、親が悲しそうで辛そうだった。(私は構ってほしいだけだったかもしれないのに。)
→(認識・感情)ちゃんとしたら、悲しませることなく構ってくれるかもしれない。
③「手がかからない子だった」と周りに嬉しそうに話していた記憶があるし、直接そう言われた気がする。その親の表情は嬉しそうで安心してそうだった。
→(認識・感情)やっぱり私はちゃんとしないといけないんだ。ちゃんとしたら嫌われない。ちゃんとしたら見放されない。
④"自慢の娘で"と周りに言っていた気がする(学歴や会社のネームバリューだけが判断基準にされた気がする)
→(認識・感情)やっぱり私はちゃんとしないといけない、ちゃんとしたら嫌われない、ちゃんとしたら見放されない
私にとっての「ちゃんとする」とは
・結果を出す
・自分で考え正しく受け答えをする
・やるべきことをやる
・要領よくこなす
(要領いい人の方がちやほやされて構ってもらえるイメージ)
常にちゃんとしようとすれば、嫌われないし見放されない。という強い思い込み。
だから、やるべきことから逃げてはいけないと自分に厳しくなるし、相手に否定されたり指摘されるのがものすごく怖く感じるのかもしれません。
エピソードを読み返して思うのは、ただただ構ってほしいだけなんだな、存在を認識してほしかったんなんだな、ということです。
両親はいつだって私の意思を尊重してくれたし、放牧スタイルで育ててくれたのは本当にありがたいし、昔も今もとっても優しい。でもずっと寂しかったのかもしれません。
当時も、今も、両親が悪いだなんて全く思っていません。寂しい、構って欲しい"気持ち"に蓋をしていたからこじれてしまっただけなんです、きっと。
「調子に乗ったらバカにされる」に結びつくエピソード
・彼氏や元夫に仕事がうまくいった話をすると、あまり嬉しそうにしてくれなかった。すぐに自分の話にすり替えられたことも多い。たいしたことないと思われた気がする。
→(認識・感情)調子に乗ったら構ってくれない。嫌われるかもしれない。
・中学生のとき、好きな男の子と目が合って嬉しくて、その態度がたぶん滲み出てた。そうしたら同じ男の子が好きだった友達にいじめられた。
→(認識・感情)調子に乗ったらひとりになっちゃう。怖いのと同時に「なんで私がこんな目に遭わないといけないの?」という怒りもあった。
・小学生のとき、楽しかったことを書いた交換日記を教室内で読み上げられて恥ずかしかった。
→(認識・感情)調子に乗ったら見せ物にされる。悪口を言われる。
・学校や会社などで、表面的には仲良くしているのに裏で悪口言ってる人が何人もいた。自分も裏では何か言われているんじゃないかと思ったことも。
→(認識・感情)調子に乗ったら裏で悪口を言われる。他人の褒め言葉を信じたら結局傷つく。
今思えばささやかな出来事でも、当時(特に思春期の頃)の自分にとってはじわじわダメージがきて、気づかないうちに小さな傷ができてたんだなぁと思います。
でも、相手の反応や対応は私のせいとは限らないですよね。それに、いじめの渦中にいても仲良くしてくれた同級生もいたし、学生時代も社会人になってからも、裏表なく心から私のことを評価して受け止めてくれる人もいたんですよね。
こうして過去を振り返って自分の本心に耳を傾けて、俯瞰して状況を見渡したことで、ガチガチに握りしめていた掌から少し力が抜けた気がします。
これからの自分との付き合い方
怖くて怖くて俯いていたけれど、過去の記憶を辿ることで少し顔を上げられるようになってきました。
傷はまだ完全には癒えていないし、自分の一部みたいに染み込んでいるこの"思い込み"、今後も発動することがしばらく続くかもしれません。でも、立ち止まって気づいて言語化できたのは、大きな大きな一歩だと思っています。
構ってほしい。存在を認識してほしい。優しく包み込んでほしい。
そうなんだね、と自分の心の声に頷き聞き続けます。
どうせ他人はコントロールできないんだから、私が私に構ってあげるのが手っ取り早い。私が私のことを評価して受け止めてあげればいいんです。
自然にそうできるまで時間がかかるかもしれないけど、私を労ることに意識を向けようと思います。
自分に構うってどういうこと?
・ノートに思いを書く(自分の話を聞いてあげる)
・文字を書く(私にとって書く作業が癒し)
・ぼーっとする(考え事する時間をあげる)
・食べたいものを食べたい時に食べる
・眠かったら寝る
・できたら自分を褒める
・身だしなみを整える、外見にお金をかける