宿儺はなぜ「言っていることはすべて理解できる。だが、何も感じない」のか?
はじめに
こんにちは、場末でニッチな文章を書いている雨夏ユカリです。
今回は両面宿儺に関する考察です。
宿儺の「お前の言っていることはすべて理解できる。ただ、そのうえで何も感じない」というセリフがあるじゃないですか。あのセリフに衝撃を受けた人も少なくないのでは、と思います。
今回はこのセリフについて深掘りして考察していきたいと思います。
宿儺の「何も感じない」発言の真意
呪術廻戦をご覧になった方なら、宿儺の発言は印象的でよく覚えていると思います。虎杖から人間の感情や苦しみについて語られて、宿儺が「俺は何も感じない」と返すシーンは印象深いですよね。
「お前が言っていることはすべて理解できるし、すべてわかる。何が言いたいかわかるが、でも、俺自身は何も感じない」、と。
この態度を目の当たりにして、多くの読者は「宿儺の考え方どうなってるんだ?」とか「自分たちとは全く異質な存在だ」と感じたかもしれません。
しかし、本当に宿儺は異質なのか?、が今回のテーマです。実は、私たち人間も似たような心理状態に陥ることがあるんじゃないの? そこから宿儺の思考を理解できるんじゃないの? と私は考えています。
人間にも「理解できるが、何も感じない」瞬間はあるよね?
宿儺の「何も感じない」発言。一見すると異質に思えるそれに、でも私たちも覚えがあるんじゃないでしょうか?
私たち人間も、宿儺と似た「相手の言っていることは理解できるが、感情的に何も感じない」という状況に遭遇することがあるはずです。
蚊「俺たちだって懸命に生きている」
想像してみてください。もし、蚊が人語を操り、こんなことを主張してきたらどうでしょう。
「我々蚊だって懸命に生きているんだ。我々も一生懸命繁殖して、懸命に生き抜いている。だから、血を吸ったり、羽音をまき散らしたりするのも、これはすべて懸命に生きている証なんだ。そんな私たち蚊を殺して、お前たち人間は心が痛まないのか!!」
このような訴えを蚊から受けたとして、どう思いますか?
おそらく、宿儺と酷似した心境になるのではないでしょうか。「なるほど、お前の言っていることはすべて理解できる。しかし、私は蚊が死んでいくことに対して何の感情も抱かない」と。
地球規模の問題にも共感できない
なんなら、地球の環境問題とかだともっとわかりやすいかもです。
「地球上で絶滅している動物がいるので、電気の使用を控えてください」と言われたとき、どう思いますか?
多くの人は「確かにその通りだ。絶滅していく動物がいるのも分かるし、今この瞬間に絶滅している種がいるのも理解できる。しかし、何も感じない」と思うのではないでしょうか。
こうやって考えてみると、私たち人間も「言っていることは理解できる。が、何も感じない」という状況に陥っていることがわかります。宿儺の発言は、我々人間にとって別に異常なものでも何でもないのです。
人間は「何」に共感するのか?
なぜ私たちは、ある状況では深く共感し、別の状況では何も感じないのか?
それは、人間には「人間扱いの基準」、つまり「自分と同格の扱いをする基準」が存在しているからです。
そして、人間扱いしている対象に私たちは「感情的なつながり」を覚えますが、そうでない相手には「感情的つながり」がなく、相手がどうなっても「何も感じない」状態になります。
ちなみにこれは脳科学的にも言われていて、例えばユダヤ人虐殺といった状況では、差別対象と接している人間は「本来、人間と接するときに活性化する脳の部位」が活性化しなかったそうです。それゆえに、相手と感情的つながりが覚えず、人間扱いしないあまりにもむごい仕打ちをすることにつながったといわれています。
人間が「共感」するための条件とは?
では、「人間扱い」し、「感情的つながり」を作るためには何が必要なのか?
一つ目の要因は、心理的、物理的、遺伝的距離です。
私たちは、自分に近い存在ほど強く共感する傾向があります。例えば:
道端で見知らぬセミの死骸を見ても「ふーん」程度で済むでしょう。
道端で見知らぬハムスターの死体だったら「不運だったな」程度には思うかもしれません。
自分のペットのハムスターが死んだら、きっと深い悲しみを感じるでしょう。
自分の家族が亡くなった場合は、さらに深い悲痛を感じるでしょう。
このように、自分との心理的・物理的・遺伝的距離が近いほど、より強く共感し、「人間扱い」する傾向があるのです。遺伝的距離も大事で、やはりそこら辺を飛んでいる蚊より、そこら辺にいる猫のほうが感情的つながりを覚えることでしょう(昆虫より哺乳類のほうが遺伝的に近い存在なので)。
感情と物語(ナラティブ)の重要性
自分との心理的・物理的・遺伝的距離以外に、人間が他者を「人間扱い」するために必要な要素は、主に二つあります。感情とストーリー(物語)です。
例えば、単に「募金してください」と言われるだけでは心は動きにくいものです。しかし、貧困地域で暮らす少女がどんな暮らしをして、どんな風に苦しんでいるのかを聞くと、「可哀想だな」「他人事ではない」と感じるようになります。これは、その少女の生い立ちを聞くことで、彼女の人生物語に触れたからです。これがストーリーの力です。
「罪と罰」で使われている共感の手法
もう一つの「感情」も結構近いです。
ドストエフスキーの『罪と罰』の冒頭は、この人間の共感メカニズムを巧みに利用しています。罪と罰冒頭には「人間のクズ」としか思えないおじさんが出てきます。が、彼が自身の感情や苦悩を語り始めると、読者は徐々に彼を「人間扱い」するようになります。
具体的には、酒に溺れ、娘の売春で得たお金まで酒代にする最低な父親が登場します。しかし、彼の「娘が大きく育った時はとても嬉しかった」「娘が売春せざるを得なくなった日は枕を濡らして泣いた」「仕事が手に入った日は、これで娘たちを楽させてあげられると喜んだものだ」といった彼の生の感情を聞いていくうちに、読者の中で徐々に人間扱いされていきます。
つまり、その人物に感情があることを認識した瞬間に、私たちは相手を「人間扱い」し始めるのです。
宿儺の価値観と「人間扱い」の基準
さて、ここまで人間の共感メカニズムについて見てきましたが、宿儺の場合はどうでしょうか?
おそらく、宿儺は感情や物語ではなく、「強さ」を唯一の基準として他者を判断している、と考えるとすべてにつじつまが合います。
宿儺の「人間扱い」基準とは?
宿儺にとって、弱い存在は私たちが虫を見るのと同様に「何も感じない」対象なのです。逆に、強い存在に対しては「人間扱い」をし、コミュニケーションを取る(基本戦闘だが)こともあります。
例えば、宿儺は裏梅や羂索とは感情的つながりを築いています。彼らが死んだら、我々がお気に入りのグラスを割っちゃった程度の喪失感くらいは感じるかもしれません。(もしくは負けて死んだ時点で人間扱いしなくなる可能性もありますが)
それ以外にも、五条悟を「生涯忘れない」というほど評価しています。つまり、彼は強い存在に対しては、ある程度の感情的つながりを築いているということになります。(彼にとってコミュニケーション=戦闘なんでしょう)
宿儺は「強さ」がアイデンティティだから
宿儺が「強さ」を基準にしているのは、おそらく彼自身のアイデンティティが「強さ」と密接に結びついているからでしょう。最強存在たる宿儺にとって、「強さ」こそが自己定義の核心であり、本質なんでしょう。
この観点から見ると、宿儺が強い存在にのみ興味を示し、弱い存在を無視するのは、ある意味で自然な反応だと考えることができます。
強さを追求する存在にとって、弱い者は自分のアイデンティティとは無関係な、いわば「異種」のように映るのでしょう。人間にとっての虫けらと同じです。
結論:宿儺と人間の共通点と相違点
以上の考察から、宿儺は決して「血も涙もない存在」ではないことが分かります。彼も私たち人間と同じように、特定の基準で他者を「人間扱い」しています。ただし、その基準が「強さ」という点で、私たちとは大きく異なっているだけです。
宿儺にとって弱い存在は、私たちが虫を見るのと同じように感情的なつながりがありません。だからこそ、人間を殺したり食べたりすることに躊躇がないのでしょう。おそらく、私たちが虫を殺したり、家畜を殺したりすることと同じ感覚なのだと思います。
以上が、今回の考察です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。この考察が、呪術廻戦をより深く、多層的に楽しむきっかけになれば幸いです。
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ここまで読んでいただきありがとうございました。それではごきげんよう。
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