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I have NOTHING.そして芸術は宗教になり得るか。

先日、「STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ」に行った。

同じ誕生日の草間センパイ、大好きな江之浦測候所をおつくりになった杉本さん、日本画の繊細な技を見事に現代アートにしてしまう村上さん、そしてそして、奈良美智さんが集結するとなれば、それはそれは「STARS」。

殊の外、映像作品がよかった。

村上さんの「原発を見に行くよ
じっと見入ってしまった。
軽いノリでデモに参加したものの、自分たちだけがあんまりよくわかっていないことに気づいて、デートのノリで福島に原発とゴーストタウンを見に行く若い男女。
なんかすごいね、を連発して写真を撮って、東京へ戻ってスニーカーの被ばく量のすごさにビニール袋に入れてそれを捨てる。
デモにはもう参加する気はなくなっていて、次はどこに行こうかと呑気に話す2人。
フォークソング風の歌と、男の子の語りから成り立っている。
何も考えなければ、ネコのかわいい被り物を被った2人のなんでもない日常風。そして、割とリアルにこんな感じなんだよな。
誰も2人を責めることはできない。
でも、それだけでいいの?
「風化」
それでいいのか?留めようと抗うべきではないのか?
でも時間は流れていくし、みんなそれぞれ自分の人生に割と忙しい。
もっと時間がたてば、もっとこれが当たり前の光景になるだろう。
いや、町も整備されて今見ることができる景色すらなくなっていくだろう。
消化不良の感情と思考がずんと残る。

杉本さんの江之浦測候所の映像「時間の庭のひとりごと
字幕で現れる、杉本さんの言葉遊びが素晴らしい。
この地を2回訪れているわたしにとっては、記憶にある風景と目の前の映像とをいちいちガッチャンコさせる作業が楽しい。
その合間に杉本さんの言葉を受け取って、その石があの「お庭」に選ばれた理由や意味、あの「酔狂なお庭づくり」が始まって今も続いている意味なんかを腑に落としていく。

素晴らしい作品の数々の中、この絵の前でわたしはしばらく動けなくなった。

色のない少女がこちらを見ている。

絵の下には「Nothin’」の文字。

色のない少女はわたしの鏡のように見えた。
まるでわたしのことを言われているように思えた。

I have nothing.
わたしは 持っていない。何もない。

英語の言葉の組み立て方に、改めて驚く。

日本語で同じことを言おうとすると、
動作そのものを否定となるところ、
英語では、「持っている」ことは前提なのだ。
「nothing」を「持っている」
ポジティブな思考になりがちなのも腑に落ちる。
そして、この言葉は好きだ。
何にも持っていないのではなくて、
nothingを持っている。
そこに安心を感じるわたしは弱っている?

いつだったかそんなことをぼんやり思ったことがあったのだけど、その絵の前で再発した。

奈良さんの新作「Miss Moonlight」も素晴らしい。


今までの彼の作品にない、穏やかな表情。
とても静かな作品。
いつまでも眺めていられる。
祈り。瞑想。許し。受容。

表現の手法も、扱うテーマも、全く違う6名の日本を代表する芸術家の作品が一堂した展覧会。
それぞれから発せられるパワーが凄すぎて、だいぶ疲労する(苦笑)
会場を背にして思ったのは、6名の芸術家の発する「祈り」のようなもの。
脳内で思い返すと、それぞれの作品はどこか宗教じみている。
人間を救うもの。癒すもの。
人間を戒めるもの。見せつけるもの。

芸術は宗教になり得るのか?

分かったような風でそんな言葉がよぎった。
でも、宗教があっての芸術なんじゃないか??
宗教画や彫刻は、宗教を具現し広めるために作られて、後世で美しさについて価値をつけられたのじゃないか?
ならば、宗教ありきの芸術なのか?

たまごが先か、ニワトリが先か?みたいに勝手にぐるぐるしだしたものの、思いが作品に込められる、どうしようもない思いがかたちになる、という点においては、ある意味作者を教祖とした宗教作品になるのだろう、と結論づけてみる。

だってあの熱量にふれたら、こちらも祈りたくなる、拝みたくなるもの。
特に、わたしのように「持たざる者」からしてみたら。

I have nothing.

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なかくきゆか
ちょっとおいしいおやつが食べたい。楽しい一杯が飲みたい。心が動く景色を見たい。誰かのお話を聞きたい。いつかあなたのお話も聞かせてください。