失語症と向き合う:朗読劇『言葉にかかる虹』から感じた再生への道
文章力養成コーチの松嶋です。失語症者向け意思疎通支援者でもあります。昨日10月19日、朗読劇『言葉にかかる虹』を観覧してきた。主催は一般社団法人言葉アートの会。
失語症のある人が、喪失感と孤独から再生への道を歩む過程を朗読劇にしたもの。出演者にも失語症のある方が登壇。原作は文筆家で高次脳機能障害当事者の鈴木大介さんだ。鈴木さんとは、私が以前所属していた NPO 法人でご一緒させていただく機会も多く、特に冊子を毎月発行していた関係で、ほぼ毎日やり取りをしていた。私がその NPO を辞めてしまった関係で、鈴木さんとのお仕事も中断してしまったけれど。私は国語教師として、言葉の専門家であることもあり、この失語症という障害に対して、何かできることがあればといつもいつも思っている。朗読劇の後は、医師の長谷川幹氏と鈴木さんのトークショーがあった。そこで感じたことを、舞台を見て感じたことも合わせて印象的な言葉と合わせて、ちょっとまとめていく。
障害受容について
「自分の障害を受け入れることがリハビリの第一歩」とはよく言われますが、実際に障害を受け入れるということがどういうものなのか、私にはまだ完全には分かりません。ただ、この1年、認知症の父の介護を通じて少し理解できた気がします。朗読劇の中で、「障害を受け入れないままでも向き合っていく」というセリフがありました。「障害を受け入れるなんて所詮無理なんだ。自分に満足することなんて一生ない」という鈴木さんの言葉がトークショーでも印象的でした。
私も認知症の父を「受け入れている」わけではありません。でも、向き合わなければならない現実があります。それに対して、世の中には障害を「乗り越えた」ように見える人がいます。障害を克服したかのように。でも、実際のところ、人間は障害を完全に克服することはできないのではないでしょうか。重要なのは、どうやって折り合いをつけて向き合っていくか。その過程で、心理的外傷後に成長し、強くなっていくことが、「乗り越えた」という印象を与えるのかもしれません。
朗読劇に出演していた坂田敦宏さんは脳卒中を患いながらも、今ではYouTubeで活躍されています。とても流暢に話されていましたが、ご本人は「回復したのは7割程度」と自己評価していました。「自分に満足する」という状態に達するためには、10割回復しなければならないと感じるのかもしれません。しかし、しっかりと向き合い続けるその姿勢が、障害者になったばかりの人たちにとって力になると鈴木さんも話していました。
休憩時間中、ある方が言っていた言葉が耳に残りました。「あの人たちは恵まれている」。その方もおそらく障害を抱えている方だと思いますが、このような感想を抱くのは自然なことだと感じました。失語症は、話すことや読むこと、書くこと、聞くことが難しくなる障害で、症状の程度や影響も人それぞれです。舞台に立つ人たちを見て「恵まれている」と感じることもあるでしょう。例えば、パラリンピックの選手を見て「あの人たちはすごい、僕にはできない」と思う人もいるかもしれません。
それでも、舞台に立つ人々の姿が、すべての人に希望を与えるのではないでしょうか。「あそこまでは無理でも、少しは良くなるかもしれない」という希望の光が見えることがあるかもしれません。劇の中では、そのメカニズムや理屈が言葉で明確に表現されるわけではありませんが、トークショーなどで言語化されることで理解が深まる人もいるでしょう。障害を受け入れるタイミングやきっかけは人それぞれですが、こうした朗読劇のような取り組みが、絶望の中にいる人たちに少しでも光を与えるならば、とても素晴らしいことだと思います。そして、このような活動を通じて、障害について、さらには社会との間にあるさまざまな障害に対する理解がもっと深まってほしいと思います。
母国語が話せないと知能が低い?
「母国語が話せないと知能が低い?」これは失語症者に対する大きな誤解の一つです。言葉がうまく出てこないからといって、「あまり考えていないのでは?」とか、場合によっては「知能が低いのでは?」といった偏見を持たれることがあります。しかし、言葉が出てこないからといって、頭が悪いわけではありません。
このことを説明するために、長谷川医師が興味深い例えを使っていました。「例えば、私たち日本人が外国に行ったとき。食べ物を注文するときでさえ、日本語ならば『この料理は辛いですか?』『硬いですか?柔らかいですか?』など、細かいことを色々聞けますが、英語が話せないときには『これください』くらいしか言えないことがあります。だからといって、頭の中で何も考えていないわけではないですよね。たくさんのことを考えているけれど、英語ではそれを表現できないだけです。でも、そんなときに『日本人って細かいことを気にしないんだね』とか『これしか言えないの?』なんて思われたくないですよね。」
失語症のある方も、言葉が出てこない、うまく使えないだけで、これまで培った知識や経験はしっかりと残っています。特に失語症は中途障害であることが多く、突然障害者になるケースが多いです。そのため、知識や経験が急になくなってしまったように見えることがありますが、実際には頭の中にはしっかりと残っているのです。ただ、それを言葉としてアウトプットする手段が、脳の損傷によって傷つき、できなくなっているだけなのです。
それにもかかわらず、私たちは言葉が出てこない相手を前にすると、「考えていないのでは?」とか「知能が低いのでは?」と勘違いしてしまい、その思いが態度に表れてしまうことがあります。ところが、失語症の方も、私たちと同じように、その微妙な態度の変化に敏感に気づきます。むしろ、私たちよりも敏感に感じ取ることもあるでしょう。そして、そのような態度に傷つき、話すことやコミュニケーション自体を諦めてしまうこともあります。
失語症においては、話すことを諦めないことが、第一のリハビリです。ですから、私たちの態度によって、相手を傷つけたり、その人の社会復帰や立ち直りを妨げてしまうようなことがあってはならないと思います。
仲間の存在
どのような障害であっても、あるいは障害でなくても、たとえば子供の成長においても「仲間の存在」はとても大切です。長谷川医師によると、自主的に行うことや楽しく取り組むことで、物事は達成しやすくなるそうです。そして、努力によって今の自分より少しだけ上に到達した時、脳は変化するのだとか。ただし、自主的に行うことや楽しく取り組むことは、一人ではなかなか難しいものです。そんな時、仲間の存在があると心強いものです。
鈴木さんも、「同じ障害を抱える仲間や同じ困難を経験している仲間がいると、失敗を許してもらえる、受け入れてもらえる心理的安全性が確保され、その時にこそ人は能力を発揮できる」とおっしゃっていました。
トークショーの中で、長谷川医師が言った言葉が特に心に残りました。
「相手が不自由な時、こちらも不自由を感じているはずです。」
この言葉には非常に深い意味があります。人は一人では生きていけない社会的な存在であり、必ず誰かと関わり合いながら生きています。しかし、コミュニケーションの行き違いや障害があると、特に話が通じない時には相手が不自由そうに見えますが、実際にはこちらも同じように不自由さを感じていることがあるのです。その時、お互いに歩み寄り、心に余裕のある方が寄り添うことで、初めてお互いの心理的安全性が確保され、コミュニケーションが正常に成立するのではないかと感じました。
朗読の効果と代弁
「朗読」の「朗」という字は、「ほがらか」「あきらか」「たからか」と読みます。一般的に、朗読とは滑舌をはっきりさせ、文章の内容を理解して感情を込め、明朗に読み上げることだと考えられがちです。しかし、失語症の方にとっては、発音や感情表現の両方が難しいことがあります。それでも、文章を読むことで発語や発音が蘇り、劇のようなセリフの朗読を通して感情の表現、いわゆるイントネーションも再び使えるようになることがあります。鈴木さんも、発語ができるようになると他の能力も底上げされるように感じることがあったとおっしゃっていました。
私も教育の現場で、悩みを抱えている子どもたちと多く接しています。朗読を取り入れることが、彼らの支えになるかもしれないと思いました。たとえば、同じような悩みを抱えた子の気持ちが書かれた文章を朗読させることは、共感を生み、気持ちを整理する助けになるかもしれません。
鈴木さんが高次脳機能障害を負い、この福祉の世界に入った時、多くの障害者から「私の気持ちを代弁してくれる」「私の感情を上手に言葉にしてくれる」と言われたそうです。実際、トークショーの最中も鈴木さんが障害者の立場で発言するたびに、客席から「そうそう、私もそう思っていた」と共感の声が多く聞こえました。思っていても言えないことがあるのは、健常者も同じです。誰かが自分の気持ちを代弁してくれると、その言葉に感謝する瞬間がありますよね。「言い得ている!」と感じたり、うまく表現してくれたことに感動したりします。
鈴木さんはもともと文筆業をしていました。彼自身、障害を負う前の自分と比べて、まだまだ能力が回復していないと感じているかもしれませんが、それでも彼が言葉を使って障害者の気持ちを代弁し、発信していることは非常に意義深いことだと感じました。
まとめ
失語症の方々が直面する挑戦は、私たちが想像する以上に深く、また誤解されやすいものです。言葉がうまく出てこないからといって、考えや知識が欠けているわけではなく、むしろ豊かな経験や感情がしっかりと存在しています。そして、その表現を取り戻す手段として、朗読や仲間の存在は重要な役割を果たします。自主性と楽しさを大切にし、共に支え合う仲間の力で、言葉を超えたコミュニケーションが生まれるのです。さらに、失語症の方が感じている思いを代弁する存在がいることで、彼らは社会とつながり続けることができ、他者との対話が成り立つのだと感じました。私たちもまた、相手の不自由を理解し、寄り添う姿勢を持つことが、彼らを支える大きな力になるのです。