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「朝が弱い」は甘え? "社会"の側にいる夫とわかってほしい私の攻防

昨晩、中華料理屋で夫と飲んでいるとき、「朝が弱い」についての話になった。

私は最近、ADHD治療薬のアトモキセチン(ストラテラ)を飲む時間を変えた。1日の服用量は80mgだが、朝に40mg2錠を飲んでいたのを、朝晩に分けて40mgずつ飲むようにした。こうすると、朝の目覚めが格段に良くなる。
彼もその様子を見て、「昨日は夜に薬飲んだんでしょ」と言い当ててくるようになった。起きる時間も機嫌の良さも顕著に変わるので、はたから見てもわかりやすいのだろう。

しかし、その変化について「最近、朝の調子がいいんだよね」と改めて彼に話すと、彼はあまりいい顔をしなかった。
「それって、薬で起きているだけでしょう」と言う。
薬で起きているだけ。そうだけれど、それの何がいけないのか。眼鏡をかけている人に、「眼鏡のおかげで見えているだけでしょう」と言っているのとおなじだ、と私が反論すると、「それはなんか違うよ」と言う。

違わないよ、と言って私は説明を試みる。
「脳の特性は人それぞれ違うんだよ。遺伝子の違いで体内時計の調整が難しい人もいるんだって、詳しいことは忘れたけど」
あー、根拠が弱い。どこかで読んだあの話を引用したいのに。

「俺は昭和の考えだからさ、」と前置きをして彼は言う。
「『朝起きられない』は甘えだと思ってる。朝が弱いとか、目覚ましが聞こえなかったとか、知らん、って話」

起きられないのは甘え。違うのに。
それでも一旦意見を聞く。

「普段ちゃんと会社に来ている奴が、たまに『昨日飲み過ぎて』って起きられないのは、俺は全然いいのよ。たまにはあるよねー、と思うし。でも普段から『朝が弱い』とか言っているやつは、心構えが足りないんだよ。起きようと思えば起きられるんだから」

心構え。

そのワードが出て、私はわかりあうことを諦めた。

新卒の頃に、寝坊で遅刻した日に上司から言われた言葉が思い起こされる。
朝が弱い人間にとって、毎日の出社はとても辛い。いや、あんな苦行、誰だって辛いだろう。それでも、「決まった時間に会社に行く」なんて社会人として当然のことだから、社会に合わせられるよう努力した。

翌日の朝に取り組む仕事を夜のうちに整理し、睡眠サイクルに合わせて鳴る目覚ましアプリをセットし、さらに物理的な目覚ましもかけた。朝に楽しみを用意したり、睡眠の質を高める工夫もした。遅刻して怒られたくない。社会人として最低限のことなんだから、頑張らないと。

それでも、起きられない朝があった。遅刻します、と会社に連絡を入れる。その理由について、今であれば「体調不良で」などと誤魔化すだろう。新卒の私は、社会人としての方便を知らず、遅刻の理由を正直に伝えた。寝坊しました。そのとき上司は「心構えが足りない」と言った。



「『朝が弱い』とか言っているやつは、心構えが足りないんだよ。起きようと思えば起きられるんだから」

彼の放った言葉を頭の中で反芻する。

起きようと思っても起きられないから障害なのだ。そのことは、彼ならわかるはずだった。薬を飲むことで朝起きられるようになった私の変化を、一番近くで見ているのだから。
逆に、前日に飲み過ぎて起きられないのは、それこそ意思で変えられることではないのか。どうしてそちらにだけ理解を示せるのか。彼自身が共感できるか、できないか。その差なのだろうか。


朝起きるのが得意な彼に、「朝が弱い」という概念が伝わらない。

「社会が厳しすぎるんだよ。あなたには理解できないかもしれないけれど、『朝が弱い』というのは本当にあるの。社会が厳しいせいで、程度を超えるとそれが『障害』になっちゃうの」

「そういうやつの評価は下げるけどね」
会社でリーダーを務める彼は言う。

「下げていい。それは当然。配慮を求めるなら、自らの特性を公にして、給与も含めてそれなりの待遇に変更してもらう必要がある」

「そんな人いる?」

いるんだよ。世の中には。
彼の想像力の無さに呆れた。

「私は10時始業で在宅勤務だから、幸いにも適応できている。これが9時で毎日出社なら私も無理だよ」

毎朝9時に出社している彼が言う。
「いやー、やっぱり甘えだと思うなあ」


ああ、あなたは。

「あなたは『社会』の側にいるから、わかんないよね」

口に出してしまった。
これは、カギかっこの中に入れるべきではなかった。

自ら線を引いてしまった。
自分と彼との間に。
自分と社会との間に。


私は、これ以上彼に伝えることを諦めた。
理解されようとすることをやめた。
放棄した。お手上げだった。

反論の余地はあったかもしれない。自分の考えを説明する努力ができたかもしれない。だけど、そうするには心がもたなかった。これ以上ダメージを負いながら闘うには、HPもMPも削られ過ぎていた。

心を閉じて、わかりあうことを諦める。
それは降参ではなく、防御だった。

自分の心を守りながら社会の中で生きるために、割り切ることは必要だ。どうしたって、他者は他者だから。過剰な期待は自分を苦しめる。相手にも負荷がかかる。
「あ、このへんから過剰かも」と気がつくことができたから、一歩引いた。上手にバランスが取れたね、私。これまで「わかってもらえない」をたくさん経験してきたからこそ身に付いた防御スキルだ。


きっと、彼と私がこのテーマでわかりあうことはないだろう。そして彼のような考えの人は大勢いる。なんなら、そういう人たちが回している社会の隅に私はいる。だからこの防御スキルを駆使して生きていく。

だけど、一番身近な存在である夫に伝わらなかったことは、かなしい。誰かには理解してほしい。だから救済を求めて私はここで吐露している。

誰かに、誰かに伝わりますように。



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