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「生きざま」は、結局「死にざま」につながる

この世に生を受けたもの全てが背負う宿命。

それは「死」だ。

生まれた瞬間から、死ぬことが決まっているわけで、最初はそんなことを考えないけれど、わたしくらいのアラフィフになってくると、そろそろ人生には限りがあることに気づいてきて、残りの人生をどう生きるか?という課題にぶつかる。

先の人生のことなど考えず、、そのまま生を全うする人もいるかもしれないし、その人ごとに人生の長さは違うけれど、それでも最後は平等に死を迎える。

すると、「どう生きるか」という課題は、最終的に「どう死ぬか」ということにもつながってくるように思える。


そして、いままで多くはないが、家族や親せきを見送った経験から、なんとなく、その人の生きざまと、死に方ってリンクするなぁという気がする。

もう亡くなって15年以上経つが、父はなかなかの自由人だった。

もともと虚弱体質で、70代で肺を患って入院した。すでにわたしは実家を出ていたので詳しくは分からないのだが、入院してから亡くなるまで、働きづめの母に毎日入院先の病院に来るよう求めていたそうだ。

母は母でそれを断るでもなく仕事帰りに病院に寄り、休みの日は必ず病院に一日中付き添っていたようで、亡くなったときにはヘトヘトだったようだ。

わたしはそんなワガママをいう父が嫌で実家を出てしまっていたので、母からの電話でしか状況が分からなかったのだが、あるとき、もう父は長くないので一度帰ってきて、と母に言われて帰省し、病院を訪れた。

仕事終わりの母と合流し、病院を訪れた。すると父は大きな声で「来るのが遅い」だの、あれやこれやイチャモンをつけて母を怒鳴りつけた。

それが許せなくて、せっかくお見舞いに行ったはずなのに、父に笑顔を見せることができなかった。「あんまりひどいこと言わないでよ」と震えながら言った。

父はわたしの顔を見たら少し嬉しそうに「そんなこと気にしなくていいから」と言ったが、気にならないわけがない。

その後しばらくして、危篤だと会社に電話があったときも、今まで振り回されてきたことがやっと終わる、死に目にあえなくてもいいや、と思ってしまった。

実の父のことをそんなふうに思うだなんて、わたしはひどいヤツなんだろうな、とも思った。結局、実家に帰ったときには父は亡くなっていた。最後に父に会ったのは、母を怒鳴りつけていたあのときだ。

最後の面会は、最悪な感じで終わった。結局、父のことを嫌いなまま終わってしまった。

あれから旦那と結婚して、子どもを産んで、なんかいろいろあって、今年49歳になる。

いま振り返れば、父は父で、思い通りにならない自分の身体にイライラして八つ当たりしたのかもしれないし、なにかわたしに伝わっていない思いがあったのかな、とも思う。

その間にも、叔父が亡くなったり、旦那の両親が亡くなったり、近親者の死を経験した。

その中でやはり思うのは、「その人の生きざまが、死にざまにも現れるのだな」ということだ。

うちの父は、もともとの自由さを炸裂させて、周りを振り回しながら亡くなった。

けれど旦那の両親は、どちらも「ひとさまに迷惑をかけたくない」という人で、そういう亡くなり方をしたなぁと思う。

義母は、めまいがすると言って検査したら末期がんが見つかった。けれど騒ぐことなく素直に病院に入り、治療を受けた。だんだん弱っていって1年後に亡くなった。それまで、何度も北海道に通い詰めたが、いつ会っても穏やかでほがらかな人だった。

義父も義父で、義母が先に亡くなり、耳が遠くてひとりで生活できないので、迷惑をかけないように自ら労災の療養施設に入居することを決めた。義父は元炭鉱夫で、じん肺の労災認定を受けていたので、望めば労災施設に入居することができたのだ。

義両親を見ていて「迷惑をかけたくない」という意志をすごく感じたし、死に方や死因はコントロールできないけれど、要所要所で選ぶ選択肢は、その人の生き方であり、死に方につながるのだな、と思った。

一方、一昨年亡くなった母方の叔父は、肝硬変で血を吹いて亡くなったそうだ。母によると、昔から気性が荒く、短気で聞かん坊だったという。祖父も同じく飲む、打つ、買うの激しい人で、祖母をいじめぬいて、肝硬変で血を吐いて早くに亡くなったという。

全員が全員そういうわけではないが、やっぱり激しい人は、激しい死に方になりがちだし、周りを振り回しがちな人は、そういう感じで亡くなりがちだし、迷惑をかけないでおこうと普段から心がけている人は、そういう亡くなり方をしている気がする。あくまで数少ないわたしのサンプルからの意見だが。

となると、わたしはいったいどんな死に方をするのだろう。割と声もでかいし、こだわりも強いし、もう治療法がなくて入院とかしたら、死ぬのが怖いとか大騒ぎをして周りを困らせてしまいそうだ。

だからもう、家族を巻き込まずに困らせないように、どこか知らない人のいる土地に行って、なんとなく死にたいなぁと思う。

理想といえば理想だが、こんな死に方がいいなぁと思う。

末期がんに侵されていると知った女性が、最後にやりたいことを思いっきりやってはじける!!という映画。

まあ、普段からやりたいことをやって弾けてはいるのだが、最後までこんな感じがいいなぁと思う。

そのためには資金が必要なので、自分で稼ぐ力を身に着けようと思ったりしている。

この映画でも、末期がんのふたりが主人公だが、わたしもすでに乳がんを患い、治療しているので、共感度が高い。きっと死ぬときもがんなのかなーと勝手に思っているフシがある。

がんは、末期だとわかったからと言って、明日死ぬわけじゃなく、ある程度準備ができる。樹木希林さんも「がんは死ぬ準備ができて便利な病気」と言いながら明るく亡くなった。

樹木希林さんも60代で乳がんの治療をして、しばらくしてから転移が見つかった。考え方もロックで好きだし、なんとなく生き方の参考にしたいなぁと思っている。

目指せ樹木希林、というわけではないが、思い切り生を堪能して、「じゃあね!」と逝きたいなぁというのがわたしの中の理想の死に方。

そんな風になるかはわからないけど、「こうありたい」という姿を描いておくことって、大事だなと思うし、それが生き方であり、死に方にもつながってくるのかもしれないな、と思う。


どう生きたいか?を考えていくと、必ずその先に「自分の人生のしまい方」が待っている。終活ブームなんてのも、そこにたどり着いて気づいた人が広めたものじゃないだろうか。

人生のしまい方まで考えられる時代なんて、豊かじゃないか。人生が長いからこそ、死ぬときの計画まで立てられる。最後の一瞬まで、生を味わいたいな、と思う今日この頃だ。

今日もお読みくださりありがとうございました!

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