「みんなと同じです」は「自分の意見」じゃないよ
長いものに巻かれることが、悪いわけじゃないけど、
個々の意見を言わずに流すって、ずるいなぁと思う。
AとB、どちらが良いですか?という問いかけに対して、
って、意見にも返事にもなってない答えが連投されて
ほとほと困った経験がある。
2~3人で決めることなら、誰かの案に賛同すれば済むけれど、
ある程度の人数がいる中で、全員がこういう回答だったら、何が多数派なのかさえ分からないし、話し合いにさえならない。
って、それを分かって返答しているのか、
それさえも放棄しているのか真意は量りかねるが、
わたしの受けた印象としては
というのは、その話題自体が
「どうでもいい」「考えるの面倒」
ということなのだと思うし、
AかBか意見を言うことで、自分の立ち位置を表明することになり、その発言の責任を取ることになるから、
「みんなと同じで」と言っておくのが、いちばんの責任回避、他人のふりができるということなのかな、と解釈する。
にしても、そういう逃げ方って、安易だし、遠慮して思慮深く控えめって思われるし、便利だよね。
一歩踏み込んだら、面倒くさいことが起こる。だから知らんぷりしておこう。
それは簡単だけど、わたしはやっぱり性格的に、そして生き方的にできないなぁ。
昔も「文句ばかり言って何もしない人の心理」という記事を書いて、こちらはかなりたくさんの人に読まれているが
この「自分には関係ない」「関わりたくない」「でも美味しいところはもらう」というスタンスに通じるところかなと思う。
わたしはそういうのが苦手なので、「なんで私ばっかり」と思うことも多くて、それも別記事で書いた。
日本人的な譲り合いの場所で、自分の思ったことを言うと、なんか浮く。総スカンみたいな反応がある。それがときどき、自分が拒否されたような気持ちになって、とてつもなく悲しくなる。
でもきっと分かってくれる人や場所がいると信じている。鴻上尚史さんの人生相談でも、けっこうこのテーマが出てくる。
わたしはまさに「誰かがやってくれるだろうの『誰か』」になりやすいので、モヤモヤする場面に出くわすこともたくさんある。
けれど、やっぱり自分は自分。
相変わらず日本人的な場所で浮きながら、泥臭く生きて行こうと思う今日この頃だ。
今日もお読みくださりありがとうございました!