大丈夫、下手なのバレてるから
フラメンコが趣味だ。
下手の横好きというか、練習さえたいしてしない劣等生だが、フラメンコが生きがいみたいなもので、心の支えだ。パートもをフラメンコの衣装を買うためには頑張れる。レッスン日が休みになるようにシフト制のパートを探す。フラメンコがわたしの中心なので、下手だろうが趣味だろうが、仕事よりフラメンコ優先である。
だが世の中は「仕事を超えるほどの趣味を優先」という見解は理解されないかと思い、仕事先にはレッスン日の水曜日は「どうしてもダメな日」と伝えているし、そもそもシフト制なので希望を外して出している。
スペイン、というか迫害されたジプシーたちの文化が伝統芸術として確立された舞踊だが、演歌のこぶしのような不思議な歌回しと少し哀愁の効いたメロディー、そしてフラメンコ独特の12拍子となんとなくのかっこよさに惹かれて独身時代に始めたのだが、すっかりはまってしまった。
独身時代は都内で会社帰りにレッスンに通っていたのだが、結婚して仕事をやめ、妊娠を機にやめた。妊娠はとっても嬉しかったが、唯一心残りなのはフラメンコをやめなければならないことだった。
無事出産して数年。やはりずっといつかフラメンコをやりたいという気持ちがくすぶっていた。苦手な家事と慣れない育児、さらに神経質な息子を抱えて完ぺき主義な私は若干ノイローゼ気味であった。
このままでは自分がおかしくなってしまう、と思ったときに頭に浮かんだのはやはり「フラメンコやりたい」だった。ネットで自宅の近所の教室を探したら、たまたま平日の昼間という主婦タイムにレッスンをやっている教室があった。フラメンコはお金もかかるしどちらかというとワーキングウーマン向けの夜のクラスばかりで、子持ちの主婦が通えるような平日昼間のクラスがほとんどないのが実情だった。これ幸いとばかりに問い合わせをして見に行ったら、先生にも息子より1つ上のお子さんがおり、子連れで来ても構わないといってくださった。こんなすごい教室が通える範囲にあるのはラッキーだ。思い切って再開しようと思ってお世話になったのが今の教室、フラメンコを再開して、もうすぐまる8年になる。
独身時代もフラメンコは好きだったが、今の先生に教わるようになってから、さらに沼にはまってしまった。
それは、再開した教室の先生の指導や姿勢にとてつもなくほれ込んでしまったせいだと思う。
今までの先生も熱心に教えてはくれていたが、今回の先生はより「フラメンコ」を追及していて、それを教えてくれた。そもそもフラメンコの概念自体から違っていることに気づかせてくれた。
そもそもフラメンコはギター一本でやれる即興性の高いものだ。誰かがリズムを取り始め、それに合わせて歌い始める人が出て、それに合わせて踊り始める人がいる、という自然発生的に生まれたサブカルチャー的なものだ。
だから、根本的に「曲に合わせて振りつけられた踊りを踊る舞踊」とは違い、ジャズのような掛け合いを楽しむ即興音楽だ。
即興性の高いフラメンコを掲載しておく。(こんなカッコいいのは夢のまた夢)
ひとつひとつの振りが「ギターに合図する」「歌を呼ぶ」など意味があることなど意識もせずにいたが、それは意図してやっていることだと知った。
やってるつもりで何も知らなかった私をフラメンコの入り口に立たせてくれた先生から、もっとたくさんのことを教わりたい、もっと上手くなりたいと、発表会後の新クラスで、ステップアップクラスを志願したわたしだが、そんなに甘い話ではなかった。
フラメンコが好きだけではどうにもならない壁が私に立ちはだかっていた。
それは、技術力。
フラメンコ舞踊は、身体で表現するほかに、釘の打たれたヒール靴を履いて、足を打つことでリズムを刻むサパテアードという技術が加わる。
ステップアップクラスでは、このレベルが高すぎて到底ついていけなかった。毎回先生の足を見ても、何がどうなっているのか分からずオロオロする。周りの生徒は何事もない顔をしてちゃんとできている。わたしひとりでオロオロしている。
日本のはずなのに、間違えてスペインのどこかに来てしまったのではないかというくらい衝撃だった。
振り付けも身体の使い方がまずなっていない。振りをなぞるだけでは、超絶格好悪い。そもそもできないサパテアードに加えて振りを付けるのだから、完全にパニックである。
踊りの基礎ができていないと思った私は、テクニカという踊りの基礎クラスに参加してみたが、クラスのメンバーが一人ずつ基礎的な足を打ち、先生がチェックする場面があり、そこで全くできない自分を、できている人たと先生の前で披露することになって、苦痛で仕方がなかった。
出来ない自分を、できる皆さんと先生に観られるのがとんでもなく屈辱だった。
周りのできてる感と、自分のできないコンプレックスが重なり、完全にトラウマ化してしまった。先生はうまくできていないと、身体の癖を見て何が違うのでどうしたらよいか指導してくれるのだが、それさえ恥をかいているようで冷や汗が出るので頭に入って来ない。言われれば言われるほどただ緊張して、ここに来たのは場違いだと落ち込んで帰宅していた。
今考えれば自意識過剰だと思うのだが、周りの人から「あんなに下手なのにうちのクラスに来るなんてダサイ」なんて陰口をたたかれているんじゃないかと気になったり、先生もわたしのことをよく思ってないのだろうと疑心暗鬼になったりで、自分の踊りを向上させるよりも、恥をかきたくない一心で一時期は、上達に一番必要な基礎のテクニカレッスンを拒否し、振り付けだけ覚えればいいんだもん、と振り付けクラスにだけ出ていた。
うまくなりたいのに、基礎から逃げる。
完全に現実逃避だったと思う。
当然上達はせず、悶々としている感はぬぐえないまま数年たってしまった。
でも自分はステップアップクラスにいるのだから、というプライドだけで、必死で難易度の高い振り付けを上っ面だけなぞっていた。
そんな悶々としながらフラメンコを続けている中、
乳がんが見つかった。年明けすぐだった。
ちょっとしたシコリで良性と言われるとたかをくくって受けに行った検査の場で「9割悪性」と即日がん宣告を受け、まさに頭をハンマーで殴られたような青天のへきれきだったのだが、がん告知された瞬間に思ったことは、自分の命のことより、その年の夏に控えているフラメンコの発表会に出られるかどうかだった。
自分の踊りが下手くそな現実から逃げてはいたが、フラメンコは好きだったのだろう。
とにかく発表会に出たいということで、乳がんの手術前から
医師への相談内容は
「夏のフラメンコ発表会に出るにはどうしたらいいか?」ということだった。
乳がんは右胸にしこり、およびリンパ節まで転移があったので、右胸の乳房全摘プラス、腋下リンパ節切除の手術を受けた。後遺症としては腕が上がりにくくなるとのことだったが、フラメンコは腕をあげてナンボである。
術後すぐにリハビリを頑張れば元のように腕があがるらしいと聞いて、手術後2日目から痛がりの私が死ぬ気でリハビリをして、1週間後には元通り腕が上がるようになった。
乳がんの手術で入院は10日間だったので、週に1度のフラメンコレッスンを休まざるを得なかったが、退院して2日後のギター合わせのレッスンはどうしても休みたくなくて、退院してすぐにレッスンに行って、先生にビックリされた。「本当に大丈夫ですか?」って何度も聞かれた。正直、身体はふらついていたけど、どうしてもそのクラスで踊りたかったのだ。
その後、春から抗がん剤治療を始めることになった。かなりドギツイ、毛がごっそり抜けたり、吐き気に襲われる、副作用がとんでもない抗がん剤である。それでも抗がん剤を打つ恐怖と同時に、どうしても7月のフラメンコ発表会に出たく、そのことばかり考えていた。
当時打っていた抗がん剤は、3週間に1度のクールで打つ抗がん剤だ。とにかくありとあらゆる細胞を叩きまくるので、打って2日目から吐き気があり、2週目に白血球がめちゃくちゃ減り、抵抗力が落ちる。3週間目には復活するので、そこでまた打つ。の繰り返しなので、3週間目が一番調子がいいという計算だ。なので、一番調子がいいはずの3週目に、フラメンコの発表会が当たるように先生にお願いして、スケジュールを組んでもらった。
副作用で禿げるので、禿げた頭にフラメンコ用のロングのウィッグで発表会に出ようと思って、ウィッグで踊ってヅラが飛ばないかどうかの相談を、アピアランスセンター(がんで外見が変わることの相談外来)で真剣に相談していた。
ちなみに私はこんなにフラメンコ中心でいろんなことを決めているが、別に上手なわけでもないし、プロを目指しているわけでもなく、群舞で踊っているだけで、できればソロで踊れるようになりたいなぁ程度のレベルである。
上手じゃなくても、練習はあまりしなくても、好きなものは好きで、私にとっては手術のリハビリも頑張らせ、抗がん剤のスケジュールもフラメンコの発表会中心で考えるほど執着していた。
抗がん剤を打っている最中は抵抗力が落ちる。風邪をひいたらひどくなる。絶対に風邪もひかないと肝に銘じていた。レッスンも休みたくないし、発表会にも出たいから。その結果、抗がん剤治療の半年間、1度も風邪をひかずにすんだ。病は気からは本当だ。
ガン治療も「フラメンコ発表会に出る」という気合だけで乗り切って、無事発表会に出られた。がんが見つかって、手術して、抗がん剤打ちながら、やり切った。
発表会の後も数か月抗がん剤治療が続いたのだが、発表会後から気が抜けたのか、家庭内のいろんなことが重なって、一時期メンタル的にとんでもなくどん底に落ちて半年ほど引きずった。一時は消えたいと思い、一日中ベッドから起き上がれず、真っ暗な部屋で布団にもぐっていた。でもあの闇の中でもフラメンコのレッスンだけは重い足を引きずって行った。ここで辞めたら終わりだと思って、あんまり頭に入らなかったけど、とにかく休まず行った。
週に1度のフラメンコのレッスンは8年間で通算10回も休んでない。
そうこうしているうちに、だんだん自分のメンタルも復活し、次の発表会を迎えるころにはずいぶん元気になった。病気とメンタルで10キロ以上落ちた体重も、どんどん戻って、戻るどころか元の体重を通り過ぎて太りすぎたが、また舞台に立てて格別の思いだった。
2年に一度の発表会。2年前は死ぬ気で抗がん剤を打ちながら出た自分が、太って困ったと言いながら同じ舞台に出る。たった2年で人はこんなに変われるんだという思いをかみしめて踊る。
そして、発表会後にまた新しいクラスが始まった。いろんなコンプレックスを抱えていたわたしだったが、長く居座ったせいでステップアップの新しいメンバーが入った。一番の下っ端から、年数だけちょっと先輩になってしまった。
新メンバーとは以前から顔見知りで、気の合いそうな雰囲気だったので意気投合してレッスン後にごはんも食べに行くようになった。クラスのメンバーが変わり、雰囲気も変わったこともあってか、自分が底辺でディスられているという被害妄想も減り、自分が一番後輩ではなくなると、今までのように
「できませーーん」では済まないなと思うようになってきた。
なにしろ入ってきた友達は、数年前のわたしと同じような気持ちでビビっている。このクラス、入ったけど怖い、と思っている。
わたしのような辛い思いはしてほしくないと思い、できないことを憂う必要はないと伝えた。
同時にわたしも、「下手だと思われるから見られたくない」というマイナスな思考をそろそろ脱出しなければいけないな、と思っていた。
そしてふと、今更だが、
「下手だと思われるから見られたくない」
という思考回路がおかしいと気づいた。
わたしがほかの人の踊りを見るときもそうだが、
下手かどうかなんて、一瞬でわかる。
1人で踊らされる前から、下手だなんてバレているのだ。
ましてや先生がそれを知らないはずがない。わたしがここまでほれ込む先生が、そんなことを見逃しているはずがないのだ。
それに気づいてから、下手だと思われるから逃げようという思考から解放された。だってわたしの実力は第三者もよく知っているのだから、今さら新たに何かを思うこともないだろう。上手い人は参考にしようとガン見するが、そうでもない人は参考にもならないので別のことを考えていたりする。
そもそもみんな自分のレッスンで忙しいのに、他人を見てどうこう話すことなどないだろう。
と、自分がそこまで興味を持たれる存在ではないことに気づいてからは、下手は下手なりに堂々と頑張ればいいのだ、というある種の開き直りができるようになった。
そしたら不思議なことに、今まで力み過ぎて打てなかった足が打てたり、ビビりすぎて間違えていた振りができるようになったり、委縮しすぎてカッコ悪かった踊りが変わったのか先生に声をかけてもらって、小さなライブでソロを踊るチャンスにも恵まれた。
メンタルの浮き沈みもあり、その途中でいろんなことを考えたせいか、なんでも「死ぬよりマシ」感が出たというか、ひと皮むけた気がする。いい意味で図々しくなった。他人のいうことなんて気にする暇があったら、自分のできることをして腕をあげろ、である。
そこから、あんなに嫌で逃げたかった基礎のテクニカクラスが楽しくなった。やればやるだけ上達している気がする。いままで振り落とされないように食らいついた積み重ねもあったのかもしれないが、先生の説明が急にわかるようになり、「いいね」と言われることが増えた。
そこからはまた、さらにフラメンコの沼である。
いずれはスペインにフラメンコを習いに行きたくて、スペイン語まで習い始めてしまった。
体の使い方、息遣い、ギターと歌と踊りとの掛け合い、
下手の横好きで、練習もたいしてしないが、フラメンコが生きがいみたいなもんでいまも私の心の支えだ。
パートも疲れるけど、フラメンコの衣装を買うためには頑張れる。レッスン日が休みになるようにシフト制のパートを探す。今のレッスンは水曜日の昼間なので、不動産業界に就職すれば絶対に水曜日休みだから、レッスンに絶対出られるねと仲間と笑い合う。
死ぬまで続けたいから、先生にも長生きしてもらいたいし、もしわたしが割と早く死んだら、先生に葬送の舞を舞ってほしい。
先生の生徒さんには80歳を超えるシニアの面々もいらっしゃる。見た目は老いているが、とにかく中身が若すぎる。イケている。先生の身体能力が高く、その動きができなければ死ねないとおっしゃっている。わたしもきっとそうだ。できれば踊りながら死にたい。誰かの足手まといになるのは嫌だから、できれば踊りながら野垂れ死にたい。
こんな風に思うわたしには、やはりフラメンコの文化を好きになる要素があるのかもしれない。
できる、できないにかかわらず、
なぜだか好きでたまらないことは、理屈では説明できない。
それも縁かもしれない。
下手でも好きなのだ。仕方ない。
大丈夫、下手なのバレてるから、堂々とやろう。
ブログチャレンジ14日目達成!
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