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大好きだった実家の味「お母さんのたまご焼き」の秘密は、味の素だった。
料理って性格が出るなぁと思う。
同じものを、同じ材料で作っても、別物になるのが料理の面白さであり、難しさである。
人は食べ慣れたものを懐かしく思う。だからこそ「おふくろの味」を懐かしく思うのだろう。
わたしの母は働きづめで忙しい人だったので、晩ごはんは炒め物とか、ちゃちゃっと作れるものが多かった。なかでも大好きだったのが、母の「たまご焼き」。
実家を出てひとり暮らししてから、母のたまご焼きが食べたくて、自分で作ってみるのだが、どうも母の味にならない。
だしを入れてみたり、醤油を入れてみたり、あれこれ試してみたけど、やっぱり母ならではの味付けがあるのかなぁと疑問に思っていた。
そして実家に帰ったある日、母に聞いてみた。
「お母さんのたまご焼きが食べたくて、作ってみるんだけどうまくいかないんだ。なにかコツとか隠し味があるの?」
すると母はこともなげに言った。
「それはね、味の素を入れたらいいんよ」
わたしは正直ガッカリした。
母から料理を教わるというのは、もっと荘厳なものだと思っていた。
母にしかないコツみたいなものを教えてもらえる場だと思っていたし、これぞ親子のドラマティックな場面という気持ちだったのに、出てきたのは万能化学調味料「味の素」だったとは。
そんなわたしのガッカリに気づくこともなく、母はまくしたてた。
「味の素はね、ひと振りするとなんでも美味しくなるんよ。たまご焼きだと多めに振るといいかな。焼きそばも炒め物も、漬物を食べるときに醤油と味の素をかけたら美味しくなるんよ。だって「味」の「もと」だからね」
と、味の素の回しものみたいなことを言った。
わたしが美味しい、美味しい、と食べていた母のご飯の隠し味は、すべて味の素に支えられていたのかと愕然とした。だったら母の味は、母の味ではなく、味の素の味ではないか。
そうなるとわたしの母は、母ではなく味の素KKということになる。
そう言われてみれば家に味の素があるのは日常的で、なんにでも味の素をぶっかけていたような気がする。
ちゃんと料理をせずに実家を出たものだから、そんなことを忘れていた。そしてまた自宅に戻り、味の素を多めにしてたまご焼きを作ったら、あっさり母のたまご焼きの味ができてしまった。ぬーん。
ただ、ガサツな母の、あんまり卵を混ぜずに強火でジャーっと焼いて、きれいな形にせずにぐちゃぐちゃのまま出てくるたまご焼きは、やっぱり同じ味の素味ではあるけど、やっぱり母の性格が出ていてわたしのそれとは違うなぁと思った。
なので、すでに実家を引き払ってわたしの家の近くで一人暮らしをしている母の家に行ったら、たまご焼きを作ってほしいとリクエストする。歳のせいか味の素の使用量が増え、さらにグチャグチャ度が上がった気がするが、やっぱりそれは母の味。
そして、結婚してわたしの家庭も、味の素はなくてはならない調味料となっている。息子もきっと、母の味の一部は味の素でできているのだろう。味の素のクックドゥも愛用しているので、おふくろの味の引継ぎがラクで助かる。
でももし母が亡くなったとしても、わたしには「味の素」というもうひとつの母の味があるので、なんとなく心強い気がする今日この頃だ。
今日もお読みくださりありがとうございました!