あん時の自分を助けなきゃ ~あるボクサーの哀歌~ ①

「痛いっ!やめてっ!」


勇二は俯いていた顔を上げて、その声の主を見た。


辺りはオレンジ色の世界かと見紛うほどの夕陽に包まれていた。


オレンジ色の世界を切り裂くような悲痛な声。


声の主はコンビニの広い駐車場の隅にいた高校生くらいの集団の中から聞こえた。


その集団はパッと見、いかにも素行の悪そうな連中の集まりに見えた。


でも、その中に1人だけ場違いな男の子がいた。


学生服をキチンと着こなしていたその男の子が声の主だった。


「痛いっ!もうお願いだからやめてっ!」


その男の子は数人の素行の悪そうな連中に、代わる代わる蹴られ続けていた。


「お前、リアクションがおもしろ過ぎるから止まんねーよ!」


そいつらは笑いながら男の子を蹴り続けていた。


周りの子らも、それを囃し立てて楽しんでいた。


気が付くと勇二は歩みを止めて、その光景をじっと見つめていた。


あん時の自分を助けなきゃ・・・


また、どこからか声が聞こえてきた。


「おいっ!オッサン!何見てんだよ!」


素行の悪そうな連中の1人が勇二に向かって言ってきた。


勇二は視線を反らし、また歩み始めた。


「ふんっ!ビビってやがんの!」


素行の悪そうな連中が、そんな勇二を見て嘲笑した。


いつからだろう・・・こんな腑抜けになってしまったのは。


あの“過去”の出来事が起きる前だったら、あんな連中を許しはしなかっただろう。


勇二は一瞬だけそんな考えが頭を過った。


「ただいま・・。」


「おかえり‼」


台所から君子の声がした。


勇二はため息と共に座り込み、いつものようにテレビをつけた。


あの時、視線を反らす前に、一瞬だけ男の子と目が合った。


その目は助けを懇願しているように見えた。


俺自身、あんな目をしていた事もあったな・・・


勇二は少しだけ、あの男の子が気になっていた。


朝起きて仕事に行って、帰って飯を食って寝る。


毎日、無感情に同じ事を繰り返す。


生きている意味なんてあるのだろうか?


漠然と答えの出ない疑問を引っ張り出しては、いつものようにすぐ考えるのを止めた。


テレビ画面には1人の少女が写し出されていた。


その少女は障害があるらしく、車イスからピアノの椅子に移動するのも1人では出来なかった。


母親に介助されて、ようやくピアノの椅子に座った少女。


毎年夏に24時間やっているボランティア番組だった。


“お涙頂戴の偽善カネ集めショー”


勇二はそんな風に思い、この手の番組は嫌いだった。


いつもならすぐチャンネルを変えていた。


しかし、あの男の子の目が頭を過り、少しだけ少女に見入ってしまった。


どうやら番組の企画らしく、この日の演奏に至る過程の密着映像も流れていた。


その少女は手にも障害があるらしく、思うように指が動かなかった。


顔を歪めながら一生懸命にピアノの鍵盤に置かれた指を動かす。


うまくいかず泣き出して母親に八つ当たりする少女。


でも、なんとか乗り越えて今日と言う本番を迎えた少女。


大きな会場のステージに置かれたピアノ。


観客もたくさん入っていた。


少女は意を決したように、小さく息を吸い鍵盤に指を添えて演奏を始めた。


その傍らでは心配そうに見守る母親。


少女は顔を歪めながら、不自由になっている指で必死に曲を奏でる。


曲としては決して上手とはいえないだろう。


テンポもぶつ切りで、何の曲かわからなかった。


でも、少女のこの日に向けた必死さが痛いほど伝わってきた。


間違えないよう慎重に慎重に弾いていた。


母親は両手を祈るように組み、涙を流して我が子を見守っていた。


勇二はその少女の姿から目を離せなかった。


気が付くと勇二の両頬は濡れていた。。


勇二はしゃくり上げそうになる声を押し殺しながら泣いていた。


そしてわかった。


この手の番組を避けていた理由。


それは、必死に生きている姿を見るのが怖かったんだと。


匕首をピタリと首筋に当てられているような怖さ。


自分の意図せずに、不自由になってしまった体。


それでも人間というのは、それを受け入れて生きていかなければならない。


その生き様を突き付けられる事に対する自分への劣等感。


だから、「あんなのお涙頂戴の偽善カネ集めショー」と理由付けて逃げていたんだと。


他の人と比べて、何故、自分の体は動かないんだろう?


なんで他の人みたいに自由に行きたいところに行ったりできないのだろう?


そんな理不尽な思いを抱えながらも人間は生きていくしかない。


そんなストレートな生き様を目の前に突き付けられる。


俺は逃げていたんだと気付かされた。


「勇、お酒飲む?」


台所から君子がエプロン姿で、お盆に料理をのせて居間に入ってきた。


勇二はあわててチャンネルを変え、涙を君子にバレないように拭った。


「そ、そうやな、1本だけな。」


勇二のいつものルーティンである缶ビールは既にお盆にのっていた。


変えたチャンネルのテレビ画面には、お笑い芸人が大盛りの料理を前に大袈裟なリアクションをとっている映像が流れていた。


勇二は不快な気持ちになっていた。


君子は勇二のプロボクサー姿を見た事がなかった。


ただ、昔、ボクサーだった事は知っていた。


勇二の“過去”の話も知っていた。


「ふーん、そうだったんだ。」


それ以上深く聞いてこなかった。


そんな事も勇二には心地良かった。


自然と付き合うようになり、籍を入れた。


でも、それはただ君子が積極的だったから。


勇二自身は夢も希望もなく、ただ惰性で人生という時間を消化して生きているだけ。


そう、あの“過去”から勇二の心は生きながらに死んでいた。


「さぁ、食べよっか!いただきますっ!」


君子は相変わらず明るい。


ひそかにそんな君子から元気をもらってもいるし、うっとおしく思う事もあり、自分自身よくわからなかった。


ただただ惰性で生きていた。


テレビ画面には、お笑い芸人が汗をかきながら、大盛りの料理を貪り食っていた。


勇二は不快な気持ちが増大し、チャンネルを変えようとした。


プルルルーー!プルルルーー!


1本の電話。


この1本の電話が、勇二の止まっていた人生の歯車を再び動き出させる事になろうとは、この時、夢にも思わなかった。


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