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推すこと。圧されること。

推しの話


私には数多くの推しが存在したし、存在している。

なんならコロナ禍よりもスマホにくっついているのではないかと思うほど、画面に張り付き推しを眺めている。
スクリーンタイムは12時間になることも多々ある(寝落ちで稼いでいる部分もあるのだが)
推しを見ている時間だけが、推しの音楽を聴いている時間だけが、何も考えずに楽しい気持ちになれるから

そんなもんだから推しへの「貢ぎ」は止まらない。少しでも伸びてほしい、感謝を伝えたい、応援したい、という気持ちになってしまう。

しかし推し側からしたらどうなのだろうかとふと思ってしまった。
きっと私の身近にそういう人がいるからなのだろうけれど。
推しが点滴打ってたと見てしまったからなのだろうけれど。


たとえば数字を増やしたり、順位を上げたりという行為がプレッシャーになるんじゃないか
1位じゃないとき、前より悪かった時、落ち込むんじゃないか
応援も要らないと感じる瞬間があるんじゃないか
活動を続けさせて身体的・精神的に苦しむことにさせていないか
その圧力の一端になっているのではないか?


私の応援は、本当に応援なのか


推しにも人生があり、人間であるということを知っているオタクとしては「その瞬間の推しを幸せにしたい」と思う
だが推される側からすれば「今だけよければヨシ」なんてことはまずありえない。
過去と、将来と、本人の人生と向き合わなければならない。
その大事な選択の部分に、力添えつまり「応援」はできない。
自分のエゴをつぶやくことだって、私自身に失望するが、ある。

基本的に数字としてしか可視化できない私たちに応援は難しくて
本人が悩んでいるときに話しかけたりできないし
活動を推しているからには続くようにしか手伝うことはできない。
やめたくてもやめられないほどの影響力を与えてしまっているかもしれないし、やめたいと思っているという心の内をファンに伝えられぬまま活動させているかもしれない。
私たちにはその決断を下すための「応援」はできない。

もし推しがその活動をやめたいと思ったとき
本人が真剣に考えて出した結論は受け入れなければならない
それが一個人的には不本意だったとしても。受け入れるのに時間がかかるとしても。受け入れられなければそっと引くべきである(と個人的には思っている。)


応援できる部分には線引きがある。


つまるところ友達関係、自分のことだってそうなのである。
結局本人が、自分が決めないといけないことは山ほどあって、自分が支えられる部分、人に相談できる部分なんてほんの少しである。
推しのすべてを推すことはできない


"私が推せるのはこの部分" ”私の中のこの部分を推してくれる人たち"

という線引きが、オタクと推しの健全なあり方なのかもしれない。
自分、推されたことほとんどないので何となくでしかわからないですけど。





今日もみんなの推しが元気であるように祈る。
明日はもっと元気であるように祈ろう


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