トリエステ年越し雑感
2年前、北イタリアのトリエステという街で年を越した。
滞在していたチヴィダーレ・デル・フリウーリからウーディネに出て、そこから鉄道で1時間ほどだったと記憶している。
いかにもな田舎の工場地帯を抜け、ゴリツィアを回りアドリア海に沿って線路は続く。ユーゴスラビアと国境をやりとりした結果の、尻尾みたいな細長い領土だ。
トリエステが近づくにつれ、大学生らしい若者がよく乗ってきた。知り合い同士で挨拶したり近くに座ったりしながら、みな一様に黙って本を読んでいるのには感心した。
この時に見たスロベニア国境のことを以前ノートに書いている。
トリエステの歴史的な背景は町が良く物語っている。
港の周りはホテルが多く、規模は小さいが運河もある。かつてのヴェネツィア共和国に対をなすように、海上貿易で発展したそうだ。もちろん造船業も盛んになる。
港に面した「イタリア統一広場」の周りには、店の前面を開け放ちテーブルとゆったりした椅子を並べたオーストリア風のカフェが目立つ。
街を見渡せる丘に聳え立つサン・ジュスト城は帝政オーストリア時代に築かれたものだが、並んで建つカトリック教会のほうが先にあったそうだ。その教会はローマ時代の神殿だったものを改築した歴史があり、丘の麓にはやはりローマ時代の劇場跡もある。イタリア軍の施設もある。
丘の斜面には時代時代にこの街の自由のために戦った人々の慰霊碑が並ぶ。要衝であり国家に属さない自由都市でもあったからこそ、敢えてこの街を州都にする必要性が現代のイタリアにはあるのだろう。
場所柄、遊びに来ているのはイタリア人よりもオーストリアやスロベニア、クロアチア人が多いようだった。駅にはイタリア語や英語だけでなくドイツ語の案内もあり、またそれ以外の言語も彼方此方から聞こえてきた。広場の屋台ではグラーシュ(ハンガリー風のシチュー)やヴルスト、シュトゥルーデル(ドイツ語圏の筒型で甘いパイ)も売っている。
フリウーリ・ヴェネツィア=ジュリアの人たちは、あまり自分たちのことをイタリア人と思っていない。イタリアのほかの部分に住んでいる人たちがイタリア人で、自分たちはフリウーリ人だとか、ゴリツィア人、トリエステ人といった意識が強い。ミラノ・ナポリ・ローマ出身の知人たちに言わせれば「彼らは半分だけイタリア人」なのだそうだ。
ここはイタリア共和国で、イタリア統一広場があり、公用語はイタリア語なのだが、”イタリア人”とはよそから来た観光客を指すようだ。また、同じ州でもフリウーリ地方とは同族意識がないので、連れのフリウーリ人もどこかアウェイに感じたようだった。(とはいえイタリア人に比べると親しみを持たれている様子だった、民族意識ってややこしい)
大晦日。真夜中近くに広場へ向かうと、港じゅうに人が溢れている。ビールを片手に盛り上がる若者たちばかりでなく、小さな子どものいる家族連れも多い。皆一様に頬が紅潮しているのは冷たい空気のせいか、はたまた酔いか、興奮か。
花火が始まると歓声が上がる。やがて始まったカウントダウンは英語だった。国はイタリアだが、広場にいた人々のマジョリティではない。一番多いのはトリエステ市民だろう、それでも過半数に達するとは到底思えない。
見たところ99.9%は欧州系なのだが、実際には多国籍のごちゃ混ぜ。誰もがマジョリティでない空間は、ぽつんと混じった日本人にとってもなんだか居心地が良い。
新年を迎えた瞬間に、人々は抱き合ってキスをする。順番にハグしていく若者グループ、幼い娘を抱き上げる父親、感極まった表情のイケメンとイケメン。
テロを警戒して軍隊も出動していたが、この瞬間は煌びやかで、平和だ。