なんでも楽しくやるということ
夢を語る時間(ヒマ)がある人は、夢の実現からまだまだ遠く、夢の実現の最中にいる人は、とても忙しい、とつくづく感じる今日この頃。
これからのことを多いに語り合いましょう!というのは、20年前に沢山やっておいたので、それが今に繋がっているかどうかは別にして、今は、語っているヒマなどない、ただやるべきことをやりたいという気持ちに従うことにしている。
そんな中、気になることがあったので書き留めておく。
大きな業を成し遂げる人は、仕事を楽しいと言いながらなんてやっていない。楽しい思いをするのは、ほんの一瞬で、大業のほとんどは苦行の連続だ。オリンピック選手を見てみよ、という話。
一意専心で、脇目もふらず取り組むことも大業を成す一つの道かもしれないが、私は、それはほんの一握りの特殊なことに取り組んでいる人についての説明に過ぎないと思う。
楽しく仕事に取り組むのは、真剣にやっていない、ということとは違う。同じ、苦しく大変なことの多い仕事でも、その中で楽しいことに気づく余裕を持てるような心持ちで臨むことが大切だと思っているからだ。
大業が何か、ということにもよるが、仕事に取り組む姿勢と、精神まで一緒くたにしてしまって、精神を追い詰めて、ただ一点を目指しているほど、結果的に途中で倒れたり、後戻りせねばならないことに繋がらないか、と問いたい。
私は、へらへらやっていると思われても構わない。周りを眺めながら、ときどき足元おぼつかず躓いても、いつかたどり着きたい場所に向かって、のびのびと大きく手を振りながら笑顔で進みたい。偶然その手がぶつかった人と、束の間一緒に歩いたり、遠くに見えたものに向かって行き、そこで知ったことを握りしめてまた元の場所から進み始めると、違う風景が見えてくるかもしれない。
幼稚園の運動会で、スタートのピストルが鳴っても走り出さず、後ろのお友だちとのおしゃべりにひとしきり満足してからおもむろに走り出し、観客席の親たちに手を振りながら、にこにこ走ってひとりでのんびりゴールしていた子どもの半世紀後の姿です。