ほとばしらない
まだこれからやりたいことはそこそこある。今になっても、初めて知って関心を持つことも沢山ある。しかし、若い頃と何かが違うと感じていた。そこに、年に一度しか会わず4年間離れていた娘が帰って来て、しばらく一緒に時間を過ごすうちに、気づいたことがあった。
若い時には、小さな一つひとつのやってみたいこと、関心のあることについてもっと知りたいという気持ち、想う人に対する感情、すべてにおいて「ほとばしる」エネルギーがあるのだ。自身が気づいている感情を越えて、内から湧き上がってくる、突き上げてくる感情、思いの力がとても強い。小さな疑いや否定は、瞬時に粉砕してしまうような力をもって吹き出すエネルギーが。
それに比べて、今の私はまったく「ほとばしらない」。突き上げてくる衝動が皆無だ。やる気が無いのでも、関心が無いのでもないが、ほとばしる何かは無い。さてと、これで物事を成すことができるのか?
その分、状況に一喜一憂せず、なるようになるさと冷静にゆったりと構えていられるようになったとも言える。それは、年数と経験を積んで、自分を守るために身に着けたスキルなのかもしれない。
しかし、このほとばしらなさは、なんとなく未だに自分らしさからかけ離れているようにも感じ、これでよいのだとは思い切れない。
ーと、このようなことを半年前の夏に書いていたらしい。書きかけのままほったらかされた文章を見つけて読み返し、ちょうどnoteを開いて、今から書き留めておこうと思ったことの前書きのようだったので、そのまま活かすことにした。
物心ついてからずっと私は、能動的に自分のすべきことややりたいことを探すのではなく、眼の前に降ってくる、転がり込んでくる「案件」、すなわちその時やるしかないようなことに恵まれて、それに真面目に取り組む、するとまた次のことが現れてきて、またそれをがんばる、というような生き方をしてきた。ただ、それを繋ぎ合わせると、それなりにストーリーになっていて、客観的に眺めてみると、波乱万丈という類に入るほど山あり谷ありで面白く、自分で選んでそうしてきたように勘違いしてしまいそうにさえなる。
そうではないのだ。勝手にそうなっちゃった、というだけのこと。
さて、この文章の先、今、ここに書き留めておこうと思ったわけは、「転機」が来たな、と薄々感じているからだ。今やらなくていつやる?今が人生で一番若い時、という気持ちから始めた農業。これもコロナ禍が無ければ、マレーシアから帰国し、この地に移住してくることも、農業に本格的に従事することも考えなかったわけだから、降って来たような展開だ。とはいえ、地域のために出来ることをやりながら暮らして行きたいという気持ちから、果樹・野菜の生産・販売に取り組み始めて2年が経とうとしている。それまで従事していたコンサルティング業のような三次産業のみの生活から離れ、一次産業に取り組みたいと思い、さらにその直後から、二次産業に繋げねば、事業として後身が続かないと考え、また、地域の産物の広報活動を目的に、菓子製造業の許可を取得し、果汁100%のゼリーを製造・販売している。これも、地域の「みかん」という産物とその生産者の方々との出会いがきっかけだ。
すべて手弁当なので、ちびちびとやっているわけだが、ここからどうするかとなると、結局三次産業に戻ってくる部分でもあり、降ってきたらやる、ではなく、より能動的に計画していく必要があるように思う。即ち、次の段階に相応しい視座で、目的を明確化し、それに沿って構想すべきではないかと。と、思ったところで、降って来た!またか。
折角、今度こそ、プランから始めようと思ったのに~。
というわけで、またそんな導きに身を任せて粛々と取り組むのみ。なんとなく、ふつふつとほとばしってきたように感じている。これぞ私の人生。