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継続は力なり?

小さい頃に母から繰り返しきいていた言葉、「継続は力なり」。水泳、ピアノ、習字、テニス、何を習っても特段上手くなることもなく、後から始めた人や年下の人にもどんどん抜かれていき、やる気などどこにもなく、でも止めたいと言い出すほどの理由も勇気もなく、一緒に通う友だちとのおしゃべりの時間、というくらいの気持ちですべて惰性で続けていた。

母は、いいのいいの、続けててごらん、やっていてよかった、と思う時がいつか来るから、と言った。いつかうまくなる日が来るから、ではなく、やっていてよかったと思う日が、とだけ。その時は、その意味もわからなかったし、いつか、ってあまりにも漠然としていて、いつ来るんだよ、とさえ思わなかった。へえ、そうなのか~、とさらに惰性の日々が続くことになった。

気づけば、ピアノなどは延々と大学生になるまで続けていたり、そのほかも習わなくなってからも趣味としてなんとなく続け、誘われれば「出来るよ」と参加するような、自分の一部になっていた。さらには、そこから何十年も経って、昔取った杵柄が威力を発揮して驚くこともある。技術的には相変わらずどれも大したことないが、ただ「やっていた」今でも「できる」ということが、これほどまでの助けになるとは。

これぞ本当の「継続は力なり」だ、と思っている。反対に、あの頃も今も、全くできないことがある。それは、ルーティーン。こつこつと習慣化させて一つのことをやり続けること。毎日漢字ドリルをやる、九九を1の段から毎日ひとつひとつ覚えていく、早起きしてランニングする、毎日帰宅したら通信や宿題をカバンから出す、とか。それだけなら、怠け者の子ども、で仕方ないなあ、だが、大人として、毎週のゴミ出しの曜日を覚えて前夜に準備するとか、出勤時に乗る電車の時刻を覚えて同じ時間に家を出るとか、オフィスの掃除をする曜日を決めて続けるなど、どれも出来たことが無い。

毎回、その日がそれをする初めての日のように感じるのだ。嘘のように思われるかもしれないが、嘘をついても何のためにもならないので、私の告白を信じていただくしかない。ゴミ袋の結び方、新しいゴミ袋のセットの仕方、シンクの掃除に使う道具ややり方など、その都度新しい方法を編み出しては、これいいなあ、と思うのに、また次の時にはそれは忘れて、違うやり方を考え出す。これは少し誇張してしまったが、概ねそんな感じだ。

即ち、やり方を習っても続けられず、習った型が自分のものとして身に付くに至ることはほとんどない。それ故、結果的に致し方なく、自分流を開発し続けることになっている、というのが正しい説明かもしれない。そんな私にとっては、定期的に何かをする、というルールを守ることも非常に難しい。大学時代は、ひとつひとつ授業のたびに違う建物の中の教室を探し当てて移動し、授業開始に間に合うように準備して座るというゲームに参加しているような気持ちだった。よくぞ乗り切って、卒業したものだ。それに比べれば、授業の中身や試験などちょちょいのちょいだった。

そんな私ゆえ、きちんと正しくルーティーンの「継続は力なり」は全然信じていない。アドホックの連続でなんとか乗り切っていく、というのでもなんとかなる。寧ろ、その方法でなんとかする力を付けていくことができた、と言えなくもない。

このところ、何十年ぶりに人に英語を教えている。内容は、年齢、性別、職業などいろいろな人たちに、その人の英語が使いたい目的に合わせているつもりだ。久しぶり過ぎでちゃんとできるかな?と思ったものの、やり始めてみると、それはそれは楽しい。英語の学習が始まって1年目の生徒さんが、一度習って分かったと思ったものの、ごちゃごちゃになってしまっていたのが整理されて、頭の中の引き出しに収まっていく様子や、昔々習ったことを思い出したり、映画のセリフで聴いたことがあった文章について、ながーい年月を経て、そういうことだったのか!と言ってくれたり、一緒になって自分も文法を整理して考えてみたりしながら、毎回ワクワクしてやっている。

復習や宿題をしたり、反復練習のルーティーンで暗記をしたりなんてしなくていいよ、と思っている。ただただゆるりと、へえ!そうだったのか!と思いながら、その時を楽しんで、嫌にならずに続けていってくれさえすれば、きっとある時、あれ?なんだか英語が意味のある言葉として耳に入ってきているな、とか、言っていることがちょっとわかるぞ、となる日が必ず来ることを知っているから。

のんびりと自分の好きなように継続してさえいれば、思いがけないほどの力となって自分を助ける日がくるよ、とそろそろ私も言いたくなった。


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