子育て(前編)
人は誰しも一度くらいは、自分が生まれて来たことの意味を考える時期があるだろう。そして、答えなんて無い、または答えは一つじゃないということに気づく。なんて言ってしまうと、元も子もないので、私の場合というのを思い出しながら「子育て」について記録しておこうと思う。
30代前半、子どもを育てたい欲がマックスになっていた。そんなに子どもを産んで育てたいのだったら、もっと早くに結婚するなり、すぐに産もうと努力するなりすればよかったじゃない、と今の私は、当時の私に言ってやりたいが、そういうわけにもいかない。後から結婚した妹が妊娠したと聞いて、うらやましくてたまらなかったな、なんてことも覚えている。
自分に子どもができないなら、日本に生まれてくる子どもたちすべてをわが子と思えることに取り組みたいと思って、教育改革を掲げて議員に立候補したくらい、子育てしたかった。
そこから母のお友だちの薦めで、不妊検査やら漢方を飲んで(一回だけ!)みたところ、幸い、畏れ多くも、妊婦となり、妹と同時に大きなお腹をしていたのも記憶に新しい。というのはウソです。全然新しくない。すでに遠い記憶です、というのが正。妹に続いて、4カ月半後に私も出産。おかげさまで、どうしてもしたかった「子育て」に取り組ませていただくことになったわけだ。
私は長女ゆえ、お姉さん気質というのか、小さい頃から「ちっちゃい子」が大好きで、年下の従妹弟たちや妹を連れて遊んだりすることが何よりも楽しかった。大人になってからも、赤ちゃんや子どもを見ると、可愛くて仕方ないと思っていた。もちろん、先に妹が出産し、姪っ子1号が生まれたときには、溺愛した。
しかし、、、自分のお腹がどんどん大きくなり、もうすぐ生まれるぞという時が近づくにつれ、実を言うと、このままお腹の中にいてね、ずっとそこにいてね、と感じるようになっていった。自分以外に、自分以上に大事にせねばならない存在が、自分(だけ)を頼りにこの世に降りてくることへの不安が一気に膨らんだのかもしれない。
誕生の感動、この子が私の子だ!という喜びはこの上ない幸せを与えてくれた。誰が何と言おうと←どういうこと?!、かわいい、愛おしい、と思った。身体が大きくて、呼吸が少し苦しそう?というような理由で保育室に隔離されてしまって、何日間も同室にしてもらえなかったことも余計に、この子を大切に育てねば、という気持ちにさせたかもしれない。一つだけはっきりしているのは、この時、自分が生まれて来たことの意味の一つは、この子を育てることと認識したということ。
さあ、始まったよ、子育て。とそこからの話は、割愛。一気に17年経って、現在、子育てらしい子育てはほぼおしまいになってしまった。12歳、中学校は日本の学校に通う、と帰国してしまった時に、マレーシアに残った私とはお別れ。数カ月に1度、10日間程度帰国している間に、お弁当を作ったり、少しだけお母さんらしいことをしたものの、ほとんどはリモート母。さらに、15歳から海外留学してしまい、寮暮らし。途中、こちらから遊びに行こうと思っていた計画は、コロナですべてキャンセルになり、年に一度の帰国時に会うだけになってしまった。
割愛し過ぎた部分を補足すると、子ども9カ月目から、フルタイムで仕事を再開。区の紹介の保育ママさん2年間⇒2歳児保育⇒幼稚園と延長保育3年間⇒小学校と学童保育で小3の1学期まで。即ち、朝起きてから各所に預けるまで、夕方の迎えから寝るまで、という時間のみが二人の時間。一転して、小3夏休み中から小6までは、マレーシアで、びっちり一緒に過ごした。
さてと、中編に続くー。