私は"私"以外の何者にもなれない
夏に向かっているこの時期の夕方の気温が好きだ。
風がほどよく冷たくて、いい感じに私の表面の熱を奪い去ってくれる。
外を歩いていると、季節の変わりを目で、耳で、肌で、体全体で感じ取ることができる。風に体を任せると、足で歩いていることも忘れてしまう。自然の一部になった気分にも、町並みの一つになった気分にもなる。それと同時に、自分自身の感情や思考も落ち着いてくる。
もちろん、運動がてら散歩をすることも、誰かと話しながら散歩することもある。どの散歩も"私"を形作っている大切で大好きな時間だけれど、やっぱり"私"を大きく形作っているのは心が辛いときの散歩だ。
私は"私であること"を放棄したくなることがある。
話を聞いてくれる、存在を認めてくれる、ありのままでいいといってくれる。本当に素敵な人に囲まれていて、幸せだなぁ、頑張ろうってふと思う。考えれば考えるほど、心がじんわり暖かい気持ちで満たされる。
その一方で、心の片隅にある薄いもやが気になってしまう。
どんな気持ちも受け止めてくれて、
「ありのままでいいんだよ」って伝えてくれる。
「もっとわがままになっていいと思うよ」
言葉でそう伝えてくれた人もいる。
そう伝えてくれる人がいることで、わがままになろう、自由に生きよう、自分の気持ちを大切にしようって思えるようになった。
でも、わがままになろうとする"私"を縛りつけている"私"もいる。わがままになろうとする"私"の自由になりたい気持ちも、縛り付けている"私"の怖くて勇気が出ない気持ちも理解できる。
でも、だから変われていない。っていうのは言い訳にしか過ぎなくて、結局自分の決意、意思が弱いんだなぁって思っている。自分を客観視しているつもりになって、自分と向き合わない言い訳をしているんだと思う。
そんな気持ちに気づいてしまうと、私は"私"であることを放棄して、他の何者かになりたくなる。
でも、他の誰かになるなんて不可能って知っているから、目の前に流れる水の流れに"私"を預けてしまいたくなってしまうし、"私"の心を道に置いてけぼりにしたくなる。
ありのままの"私"ってなんだろう。
私が放棄したくなってしまう"私"は、
ありのままの"私"ではないんだろうか。
そんなことを考えながら、散歩をする日もある。
でも、どんな天気で、どんな場所を歩いていても、たどり着く答えはいつも同じだ。
「どんな"私"も私が懸命に生きている証である。」
そう思うと、途端に全てが愛しくなって、何者にもなれない"私"をちょっぴり愛せるようになる。
自然や街並み、忙しなくすれ違う人たちは、私をちっぽけな世界に1人取り残して進んでいっているような気持ちにさせる。
でも時に、自然や街並みと共に生きている、溶け込んでいる実感を持たせてくれることもある。木々も建物も風も、全てが無意味ではなく懸命に生きていることに気づかせてくれる。
いいことがあった日も
冴えないことがあった日も
心が健康だった日も
心がちょっぴり寂しかった日も
どんな日も私にとっては欠かせない日々で、
欠かせない"私"の気持ちだ。
そう考えたら、
"私"を放棄したくなる日があってもいいよね。
私へ。
仲良く生きよう。
私より。
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