"いい人になりましょう"って言う空気感はすごくもやもやする
「いい人になりましょう」
このメッセージを言葉で直接伝えられることはあまりないけれど、空気感で伝えられることがある。
この空気感を感じるのは今に始まったことではなくて、小さい頃から感じていたと思う。でも、最近になってやっと、その空気感を違和感だと実感できるようになってきた。
昔感じていたのは道徳の授業。
まさに、"いい人になりましょう"っていうメッセージを暗に伝えられてた気がする。
どうしてAちゃんは泣いているのかな?
Aちゃんはどうしてほしかったと思う?
お母さんはどんな気持ちだった?
私は小さい頃から、良くも悪くも読解力と人の気持ちを想像する能力はあった方だ。だから、この質問に対して"正解であるだろう答え"を見つけることができた。つまり、"いい人ならこうするであろう答え"のことだ。答えがないと言いながらも、みんなの発表を聞いている先生の表情はわかりやすく変化していた。いい子でいるべきという想いに縛られていた私は、それを読み取って先生の喜ぶであろう答えを探していた。だから、私にとって道徳の授業は"いい人ならこうする、こうするべきである"ことを考える授業だった。
そして最近感じているのは、
「福祉=いい人」という空気感。
大学に入って、「福祉」を学ぶようになった。
そして「福祉学んでいるなんていい人なんだね。」とよく言われるようになった。この言葉にずっとモヤモヤしている。なんでかっていうと、私は決して"いい人"ではないし、福祉を学んでる人みんな同じではないと思っているから。私も人にイライラすることだってあるし、偏見を持っている自分に気づいて悲しくなることだってある。だからこそ、今色んな活動に参加して、色んな人、多様な価値観と触れて、ずっと学んで、考えている。
世の中にある"福祉"のイメージは誰が作っているんだろう。どうして、福祉に関わっている人はいい人って決めつけられるんだろう。福祉に関わっていなくてもいい人はたくさんいるんじゃないか。いい人ってなんだろう。
そんな想いがぐるぐる頭を回っている。
最近感じた1つの答えは、福祉に関わっている人自身が"いい人であること"に縛りつけられているんじゃないかということ。
色んな活動に参加していると、それぞれ大切にしていることや想いの違う方々とお話をする。
子どもたちや障がいを持った方々、日常生活で人と関わる中で、あの時どうしたら良かったんだろう。なんて言ったら良かったのかなと振り返ることがある。振り返りや研修の中で、みんなで考える場面もある。
そんな場面で、私は道徳の時間と同じ空気感を感じている。福祉の世界では、"私らしい関わり"なんて求められていなくて、"いい人らしい関わり"が大事なんだよ。そんな感覚を感じてしまう。
相手の気持ちを想像して関わりましょう。
何を求めているのかみんなで考えてみましょう。
相手が何かをしたから、うまくいかなかった。
相手が突然泣き出したから、どうしたらいいか分からなかった。相手が、相手が、、
自分はどこいっちゃったの?
私の気持ちはどうなるの?
社会福祉士のバイステックの7原則には、「統制された情緒関与の原則」がある。
それを踏まえると、たしかに自分なんてものはいらないのかも知れない。でも、それは相手の前でそうであるべきということであるだけで、振り返る際や考える際には自分に目を向けて、自分を知った上でコントロールするのが大事なんじゃないか。完全に自分をコントロールできる人なんていないし、自分を知らずして相手を知れないと思うから。自分を見ずに、"いい人"としての関わり、考えを身につけて行っても、それは偽善者になってしまうんじゃないか。
そんなことを感じている。
"いい人"の定義も使用例も明確にはわからないけれど、自分を押し殺しているのがいい人なら、私は"いい人"にはなりたくないな。この意味での"いい人"は、きっと誰かを、時には自分を、知らない間に傷つけてしまうから。
「知らなかった」
なんて言葉じゃ済まされないのにね。
だから私は、ゆっくり立ち止まりながら、自分の感情にも、エゴにも、しっかり目を向ける。
「知らなかった」
なんて簡単な言葉で済ませたくなんか無いから。
私は私であって、私を通しての関わりになるんだから。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?